後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大津波被災地の石巻で甲子園高校野球、宮城予選大会が始まる・・・そして東京でも

2013年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

仮設住宅が隣接する石巻市民球場で始まった、高校野球宮城県大会の開会式(13日午前、宮城県石巻市で)=前田尚紀撮影(出典:http://www.yomiuri.co.jp/sports/hsb/2013/prelim/news/20130713-OYT1T00381.htm?from=ylist

上の写真は7月13日午前に開催された甲子園大会宮城予選の開会式の写真です。

この石巻市民球場の写真の下半分に写っている白い箱のような列は津波被害者の仮設住宅です。駐車場に車があるので住宅には避難民が現在でも住んでいることが分かります。津波から2年4月もたった現在でも被災者の生活は元のように復興されていません。

大津波の襲った青森、岩手、宮城、福島、茨城の各県では津波に襲われた高校も少なくありませんでした。しかし野球道具を揃え、各県の予選トーナメントには以前通りの出場校がそろいました。

これらの各県の予選出場校と全国のトーナメント組み合わせ表はhttp://www.asahi.com/koshien/ に掲載してあります。

この夏の甲子園大会の予選に参加する全国の高校は総数で4014校と言われています。まさしく津々浦々の公立高校と私立高校の大多数が参加する国民的な一大イベントなのです。

この夏の甲子園大会は大正4年、1915年に旧制の中学校の野球大会として発足しました。その時の出場校は73校でした。

それが98年後の2013年には4014校に増大したのです。その歴史については、http://www.fanxfan.jp/bb/history.html#1にあります

戦争前の旧学校制度では6年制の小学校を卒業すると6年制の中学校、商業学校、へ進学します。そしてその後は旧制の高校(現在の大学の1年、2年に相当)へ入学し、その後で4年制の大学へ入ったのです。

ですから旧制の全国甲子園中学校野球大会は戦後の新制の高等学校へ引き継がれたのです。そして経済成長と共に高校の数がどんどん増えて、ついに4000校以上の高校が甲子園大会予選試合に参加するようになったのです。

それにしても大津波で莫大な被害を受けた東北や関東の海岸沿いの高校も参加して今年の予選会が各地で開催されたことをは非常に喜ばしいことです。

そんな事を考えながら今日は孫が三塁手として出場する予選試合を見て来ました。試合は暑い神宮球場でした。

孫はある都立高校なので、強豪の私立高校にコールドゲームで敗けました。しかし守備でエラーもせず、ヒットも打っていたので目を覆うような場面がなく楽しめた野球見物でした。下にその神宮球場の写真を示します。

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上は応援のブラスバンドの写真です。

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孫がヒットを打つ直前の姿勢です。爺バカで恐縮です。

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コールドゲームで敗けても明るく応援席に挨拶して終了しました後方は相手チームの応援団とチアガールです。

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上は今日の神宮球場の風景です。


日本の神社と中国の道教は同じ・・・中国人の本音の世界

2013年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は、日本の神社と中国の道教寺院は同じようなものという私の考えを書いて見ようと思います。そうすると中国人の本音の世界がより深くご理解頂けると思います。それは共産主義とは全く無縁の世界なのです。

それにしてもその前に若い頃の私の体験を書いて見たいと思います。

若いころ、ある宣教師から英会話を教わっていました。ある時、アメリカ人の宣教師と学生数人で田園地帯へハイキングへ行った時のことです。

田の畦道に平な大石があり、腰を下ろすのに丁度良い。歩き疲れた皆がごく自然に座り、しばし休憩をする。すると一人の老婆が寄って来て、手を合わせ我々を拝むようなしぐさをする。その意味が分からない。と、大男の宣教師が顔を赤らめて飛び上がった。我々もつられて、立ち上がり、大石のそばから離れる。老婆は何事も無かったように大石の前に2、3本の野の花を供え、膝まづいて祈り始めた。それを見た宣教師が英語で説明してくれた。「あの大石は田の神様なのでしょう。今年も豊作になるように祈っているに違いありません。我々は神様の上に座っていたのです」。

大男のアメリカ人宣教師は我々に老婆の信仰を大事にしなさいと話した後、「どんな信仰心も立派なのです。信仰の対象に優劣がないのです」 と強く話す。

あの場面は一生忘れられない。その宣教師の名前はウイリアムズさんと言った。もう60年以上前の仙台の近くの田園でのことであった。

明治維新の文明開化以来、日本人の欧米崇拝は時々度を過ごす。第二次大戦で負けた後は何でもアメリカ一辺倒になる。本来、優劣の無い民族文化や宗教の問題でも日本人は過度な劣等感を持っていた。高度成長をしてからはそんな考えも消えて行ったが。

しかし現在でも知識人の書いたものに、「多神教の日本古来の宗教よりもキリスト教の方が優れている」 という評論を見ることがある。挙句の果ては、キリスト教から生まれた西洋の絵画は日本の絵画よりも上級だなどと訳の分からない話をする人も居る。

文化の一部である科学技術には明確な優劣がある。その優劣は誰の目にも明白である。しかし科学技術以外の文学、宗教、芸術、など全ての分野には優劣は無い。そのように信じている欧米の知識人が多い。

自分は、1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けた。それ以来、宗教には優劣が無いと確信が持てるようになった。問題は「信仰と行為の関係」なのだ。

強くキリスト教を信じ、毎週教会へ通っている欧米人が他人を傷付けることを平気でする。戦争では熱心なキリスト教信者が平気で残虐行為をする。

しかし田の畔道の大石に祈っていた老婆の日常生活はどうだったのだろう?時々そんなことを考える。きっと心優しい人間で他人を傷付けることはしなかったかも知れない。

行為の優劣は有っても、信仰の対象に優劣は無い。そのことを私は時々考えています。

そんな体験にもとずいて中国の道教を考えてみました。

中国へ行くと仏教の寺院やラマ教の寺院をよく見かけます。

しかし少し注意深く観察すると関帝廟と孔子廟があちこちにあり、人々が長い線香を煙らせて拝んでいます。三国志時代に活躍した実在の武将の関羽様の像へ対する信仰です。

日本にも武将を神社に祀って一家安全、無病息災をお願いする例がいろいろあります。東京には東郷神社や乃木神社があります。

道教はそれと似たような宗教的な行いと思います。

横浜の中華街の中に関帝廟があり参拝者が絶えません。参拝している人々は日本人です。関帝様は海を越えて日本人も守っているのです。

1800年前の中国の戦国時代がこうして日本人へかかわっているのです。

何故か感動して、私もお賽銭を上げて拝んできました。私はカトリックですが、人々が信仰している方へ敬意を表するのが礼儀と思っています。

関帝廟を検索して、その説明文の一部を示します。

朝廷と民衆の両方から支持をうけて、関帝廟は唐の時代に全国津々浦々各地に広まり、数千の廟が建てられました。あまりにも建てられた関帝廟が多くて、関帝一人では手がまわりかねるので、代理の関帝が務めたという、面 白いエピソードも残っている程です。  

 関帝廟は文廟と呼ばれる孔子廟に対して武廟と呼ばれていますが、実際は武神のほか、民間では老爺とよばれ、幽界のもっとも有力な神としても崇められていました。
  また武将として理財にも精通していたため、商人は「財神」すなわち金儲けや商売繁昌の神として信仰しています。 武将にとっても商人にとっても一番大切なものは信義・信用という点から、商業神としての信仰も厚く奉られています。関羽様に対する信仰は中国本土にとどまらず、次第に世界各地に広がりました。

下に横浜の中華街の関帝廟の写真を示します。

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上は横浜、中華街の関帝廟の写真です。

日本ではあまり見慣れない建築様式なので、中国の道教寺院を検索して見ました。日本には唯一つ埼玉県に本格的な道教寺院があるそうです。

台湾から多くの宮大工を連れて来て建てたそうです。その写真を2枚、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%A4%A9%E5%AE%AEから下に転載させて頂きました。

関帝廟とよく似ています。すると関帝廟は道教の一部と考えても大きな間違いは無いと思います。道教は中国に古くからある民間宗教です。日本には入って来ませんでした。陰陽道は道教から派生したとも考えられています。

日本人が神社で家族の無病息災を祈るように中国人も道教の寺院や祠で、無病息災をお祈りするのです。台湾の道教の祠には日本人の軍人がご本尊になっているところもあるのです。

その地方の恩人を祀り神としているのです。日本の神社と非常によく似た信仰なのです。

それに加ええて中国人は仏教寺院も信仰しています。日本の神仏混淆のような宗教世界なのです。

道教のことを知れば知るほど私は中国人に親近感を感じます。漢字が同じだけでなく宗教へ対する感じ方が同じなのです。

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それはそれとしても、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)