後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

自分の心の中の人種差別を超越する具体的な方法

2013年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の記事で地球上の人種差別は絶滅していくと書きました。

そうしたら白人の女性を妻にしていて、アメリカに在住している日本人の男性からコメントがありました。

・・・・自分もアメリカに住んでいますが、家の白人の女とを腕を組んで歩くと、決まって年配の白人の男性達が憎しみを込めた目で睨みます・・・というコメントでした。

これは本当の話です。私にはよく分かります。

1980年代のアメリカで、仕事の事で白人の女性と一緒に相談していたとき通りがかった白人の男性が鋭い目つきで睨むのです。

それで思い出しました。1980年代の東京の電車の中で黒人の男性が日本人の若い女性と一緒に立っていたら周りの男性も女性も一斉に睨んでいたのです。私も睨んでいた一人だったのです。それは1980年代のことでした。

これこそ人種差別です。

それを止める方法を考え出しました。自分で、自分へ、「黒人と白人は全く同じ能力を持っている。黄色人種も同じだ」と呪文のように言い聞かせるのです。

ただ生まれた環境の違いで教育に差が出るのです。収入に差がでるのです。

その事を自分へ言い聞かせるのです。何度も、何度も言うのです。

それ以後、電車の中で黒人が日本人の女と一緒にいたら睨まないようにしました。やさしい目つきで見るようにするのです。

そしてルース・ベネデクトの言った「全ての民族文化には絶対に優劣は無い」という台詞を思い出すのです。

そうすると不思議に違った人種の人々が仲良くしていても睨まないようになります。

私はこのようにして在日韓国人を日本人と平等に考えるようになりました。中国人や韓国人を蔑視しなくなりました。黒人も一人の人間として接することが出来るようになりました。

最後に自分が睨まれたらどうすれば良いかを書きます。

・・・自分もアメリカに住んでいますが、家の白人の女とを腕を組んで歩くと、決まって年配の白人の男性達が憎しみを込めた目で睨みます・・・こういう場合はどうすれば良いのでしょうか?

それは睨んでいる白人の男性は自分が何をしているのか分かっていないのです。憐れむべき存在なのです。そういう思いで見ると自分の表情が柔らかになります。

それに気がつく人と全然気がつかないで睨み続ける人もいます。しかし無礼な人も許してやるのです。七の七たび許して上げるのです。

睨まれれば誰でも不愉快になります。その不愉快な気持ちも許せば消えてしまうのです。くどくど書いて失礼しました。(終わり)


夏の別荘地に咲く花々と森の中の道

2013年07月12日 | 写真

甲斐駒岳の麓は広大な森林地帯です。林のなかに別荘地が散在していて夏、の花々が咲いています。

別荘地をつないでいるのは森の中にある淋しい道です。一帯は標高900mから1000mくらいの高原で、真夏でも涼しい爽やかな風が吹いています。

写真を見ながら涼しい高原をご想像下さい。

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オバマ大統領の人種差別絶滅効果・・・すごい差別を体験した私の深い感慨

2013年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム

いきなり私的な話で恐縮ですが、私は1960年から1962年までアメリカに留学しました。そこはオハイオ州のコロンバス市でした。白人が黒人を軽蔑して露骨に差別していました。住む場所も学校も、そして映画館なども白人と黒人は全く別です。バスなどの公共の乗り物の前方の席は白人専用で、後ろの席に黒人が控え目に座っています。前方がガラガラ空いていても黒人は後の通路に立っています。大学の掃除人はメキシコ人と決まっていて黒人は一切使いません。学生は白人だけでした。住む場所もはっきり地域が分けられていました。

あるときバスの後部席が空いていたので座りました。すると白人の男が怖い顔をして私の腕を乱暴に掴んで、白人専用の席の一番後ろに座りなおさせたのです。

そんな中に黄色人種の私が暮らすのですから毎日大変気を使ったものです。

道路を歩くとき白人を追い越したり、道の邪魔をしないようにしました。

白人が近づいて来たら、こちらから挨拶をするようにします。

そうすると彼等はとても親切に荷物を持ってくれたりします。

勿論、善良な白人もたくさんいて、先方から挨拶をして微笑んでくれました。

一方、黒人と会うと先方から逃げるように道をあけます。

若かった私は正義感から白人を憎み、黒人に同情していました。

それはキング牧師の公民権運動がアメリカ社会に根付く前の話です。

5年前に黒人のオバマさんが大統領になった時、私は嬉しくてたまりませんでした。急に心の中が明るくなりました。それは昔のアメリカの人種差別を経験した人にしか理解されない種類の嬉しさです。若い時の正義感から続いていた怒りが消えたのです。

そのオバマさんが二期目の大統領として、6月に中国の国家主席の習近平さんと長時間会談し、世界の安定と経済発展について相談したのです。

尖閣諸島の問題で習近平を憎んでいる日本人は多いと思います。

しかし人種差別を体験した私の感じ方は別です。黒人のオバマさんと黄色人の習さんが世界の安定について話し合っていることに私は独りで感動しています。

そして最近、オバマさんは南アフリカ共和国の大統領だったマンディラさんを見舞い行ったのです。そして人種差別に戦ったマンディラさんが投獄されていた刑務所も見学に行ったのです。オバマさんはマンディラさんを尊敬し、政治家になったそうです。

「人種に関係なく優秀な人は優秀です」。そして「人種に関係なく善良な人は善良です」。そんなメッセージを全世界へ発信し続けているのがオバマさんです。

この地球上から人種差別が消えて、絶滅される方向へ動いているのです。

私は嬉しく思っています。人種差別を体験しただけに、それは深い喜びです。

暗殺されたキング牧師が天国から微笑みながら見下ろしていると私は信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)

(下にオバマさんとマンディラさんと習さんとキング牧師の写真を示します。)

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E

オバマは10代の頃に飲酒をし、マリファナ(大麻)やコカインを使用していたことを語っている。友達と作った "choom gang"というグループのメンバーとして、彼らと伴に時間を過ごし、たまに大麻を使用していた。また、オバマは、薬物を使用したのは、 "push questions of who I was out of my mind"(意訳:自分が何者なのか、という疑問を心の中から追い出す)ための方法だったと語っている。

1963年、両親が別居。1964年、両親が離婚した。 1965年、父であるオバマ・シニアは、ケニアへ帰国した後、政府のエコノミストとなる。オバマ・シニアは、ハワイ大学からハーバード大学を卒業したため、将来を嘱望されていた。 バラク・オバマの両親は、結婚歴が複数回ある。彼は、その為、後述の異父妹が一人、異母兄弟が八人いる(うち、4人死没)。 1971年、バラク・オバマの父であるオバマ・シニアは、息子であるバラクと再会を果たした。 1982年、オバマ・シニアは、自動車事故が原因で逝去した。享年四十六歳であった。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9

1918年7月18日にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。ウィトワーテルスランド大学法学部を卒業。在学中の1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。その後1950年、ANC青年同盟議長に就任する。

1952年8月にヨハネスブルグにてオリバー・タンボと共に弁護士事務所を開業する。その年の12月にANC副議長就任。1961年11月、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される。1964年に国家反逆罪終身刑となりロベン島に収監される。1982年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。この時、イギリス人傭兵の有志が集まってネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止されたと言う。この収監は27年にも及び、マンデラはこの時期に結核を始めとする呼吸器疾患を患うこととなった。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3

父・習仲勲が批判された文化大革命において反動学生とされ、1969年から7年間、陝西省延川県に下放された。1974年に中国共産党に入党、下放された同地で生産大隊の党支部書記を務めている。1975年に国家重点大学の清華大学化学工程部に入学。1979年に卒業した後、国務院弁公庁で副総理の耿飈の秘書を務めた。

廈門副市長、福州市党委員会書記を経て、2000年に福建省長となる。2002年11月、張徳江に代わり49歳で浙江省党委書記に就任。2006年に上海市で大規模な汚職事件が発覚し、当時の市党委書記陳良宇が罷免されると、翌2007年3月24日、書記代理を務めていた韓正(上海市長)に代わって上海市党委書記に就任。これにより、第17期の党中央政治局入りは確実とみられていたが、同年10月の第17期党中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)において、一気に中央政治局常務委員にまで昇格するという「二階級特進」を果たし、中央書記処常務書記・中央党校校長にも任命された。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2

1929年、ジョージア州アトランタ市でバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング、シニア」と呼ばれる。

幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった。高校時代には討論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。

キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。

事実、1963年5月にアラバマ州バーミングハムでのバーミングハム運動の中で、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの警官による事件映像が映し出され、世論は次第にそれらの暴力に拒絶反応を示していった。

公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。