毎年盆踊りの時期になると、小金井市に住んでいる私は日本人の文化的節操の無さを恥ずかしく感じます。日本には昔から地方地方で特色のある伝統的な盆踊りがあります。
たとえば富山県には「風の盆」や、岐阜県には「郡上八幡」という名の優雅で独特な盆踊りがあります。
ところが小金井では市を挙げて何年も前から夏になると阿波踊りを催すのです。
私は東京の小金井市で徳島の阿波踊りをすることに長い間反対でした。徳島県の地方文化を勝手に持ち込む、その節操の無さを悲しく思っていたのです。
今年もこれから行いますので、下に去年行われた「小金井の阿波踊り」の写真を示します。上2枚は自分の写真で、下の2枚の写真の出典は、http://koganei-kankou.at.webry.info/201208/article_2.htmlです。
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JR小金井駅前の南と北の広場と通りを7月の最後の週末の2日間、夕方から交通を遮断して数百人の踊り子が阿波踊りを繰り広げるのです。
近所の仲間や職場の仲間でグループをつくり、「さくら連」とか「むさしの連」と染め抜いた揃いの浴衣で踊るのです。
よく見ると阿佐ヶ谷をはじめ東京のあちこちからも「連」が友情参加しています。それを見ると東京のいろいろな町でそれぞれ阿波踊りをしているのが分かります。
節操の無さとは何を意味するのでしょうか?例えば共産主義を信じていた青年が会社に就職すると、途端に資本主義信奉者になることが多かった時代がありました。これを思想の節操の無さと言います。会社の中で偉くなるためには節操なんて邪魔です。
国技である大相撲へ外国人を導入して、横綱や大関、関脇、小結などが外国人に占領されているのです。相撲協会が国技を日本人だけで守ろうとしません。これを文化的節操の無さと言います。相撲の興行による利潤を優先したのです。観ている人たちも楽しんでいます。
1945年8月15日までは狂おしいほどの軍国者だった将官たちは、敗戦の責任をとって自殺すべきと考える人も多かったのです。
ところが戦後は急に自由主義者になりすましてしまいます。これも節操が無いといいます。生きるためには仕方が無かったのです。
節操の無いことは人間として恥ずべきことです。しかし節操よりも経済的利潤を優先します。節操を捨てても生きたいものです。節操を捨てても権力を握りたいものです。
私自身、自分の生涯を振り返ると何度も節操を捨てました。
しかし私は、「これから節操を捨てます。恥ずかしいです」と自分自身に言い聞かせながら捨てました。
夏になって徳島の地方文化の阿波踊りを小金井市で見るたびに考え込みます。
始めの数年は小金井の阿波踊りは見に行きませんでした。
しかしある年に私は節操を捨て、楽しければそれで良いという考えに変えたのです。
そうして見ていると老若男女が一緒に踊っている光景がたのしくなるのです。踊らない自分も幸せな気分になるのです。
そして明治維新以来、この日本人の節操の無さがこの国を発展させたことに気がつきました。節操の無さが、戦前には軍事強国として発展させ、敗戦後には経済大国にしたのです。
節操の無いことは恥ずかしい事です。しかし節操のない方が良い場合もあるのかも知れません。盆踊りの季節になると毎年、こんなつまらないことを考えています。
そんなことはどうでも良いことにして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)