戦前に生まれ、戦後に成長した私にとっては、「笈を負って郷関を出ず」という言葉は私の心の中で生涯響いています。仙台で生まれ育った私はこの言葉によって東京に出て来ました。そしてこの言葉を懐かしく思っています。
この言葉には何故か若者を奮い立たせるロマンがあります。一介の青年が徒手空拳で故郷を離れ、中央で大きな仕事をするという意味ですから善い言葉には違いありません。
しかしその動機には、中央に出て偉くなろう、都会の生活を楽しもうという俗っぽい欲望も混じっているもです。
私は30歳を過ぎた頃、この言葉には悪い側面もあることに気がつきました。
郷関を出るよりも田舎に踏みとどまって、その地方の文化を豊かにする仕事をしたほうが人間として偉いと思うようになったのです。
そのような理由で、このブログではそのような方々をご紹介してきました。
福島県の郡山で画家として活躍している村田 旭さん、愛知県で陶芸家として活躍している尾張裕峯さん、同じく愛知県の画家の三輪 修さんなどの作品と活躍の様子を何度もご紹介して来ました。
その延長にあるのが、「書家、間山陵風の生涯」と題する8回の連載記事です。
陵風は東京に出ず、故郷の青森で書家として生涯を終えた人です。そこでさっそく彼の紹介をこのブログですることにしました。執筆はネットで知り合った間山陵風の息子の陵行さんにお願いしました。
その陵行さんも現在、書家として青森でご活躍中です。
その陵行さんが補足的な説明をメールで送って下さいましたので、以下に転載します。
=====陵行さんからのメールの抜粋============
蘭川師匠のいう蘭川流なのですが、そもそもその蘭川流を名乗ってはいけないという師のことばですね。一流一派に続せず、総合的に学べという教えで、いかにも不利な立場です。
いわば一匹狼、無所属ですね。俳句でいえば種田山頭火のようなものでしょうか。
尊敬する日本の書の源流だった日下部鳴鶴を心の師にして、その弟子(四天王)のうちいちばん飛躍的な比田井天来の書風で、激しい情熱の書が多いですね。(前衛書)
中年には四天王の一人、丹羽海鶴に憧れ(教育書道的)、その弟子の翠軒流も学んだので細く薄墨で、繊細華麗な書になりました。
晩年には空転飛躍する独特の世界で、どっちかといえば私は空海の書に近いかなと思っています。
空海の書はhttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/Saishi_gyokuza_yumei.jpg/200px-Saishi_gyokuza_yumei.jpg にあります。
また父の弟子で画家としてアメリカで活躍している工藤藤村正(ムラマサ・クドー)は、その経歴書の中でで父が最大の恩師と力説しています。
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連載を終わってみて私が感動した2ケ所の部分だけを以下に再録いたします。
第七章の部分:
・・・・・一方書塾に、ある少年が入った。眼が精悍で色黒で、泣き虫の私には怖そうな先輩だった。でも意外に私を優しく守ってくれる少年だった。名は工藤隆。 ある習字のお稽古中、父がいきなり怒って彼に罵声を上げて鬼のようになり、私らを怒るように彼を何度も叩いた。
彼は泣いてごめんなさい!と謝った。
その晩に彼の叔母が訪ねてきて、「叱ってくれて感謝します、言う事を聞かない子で、これからも親のように叱って下さい」と言って帰った。・・・・
これが現在、アメリカで活躍中の工藤藤村正さんで、その経歴書に、師はただ一人だけ間山陵風と書いてあります。才気煥発だった工藤少年を一度怒っておかないとその才能が伸びないと間山陵風は考えて怒ったのだろうと私は思っています。工藤少年はそのことを一生感謝し、アメリカから何度も師の間山陵風を訪ねて来たのです。
もう一か所感動したところを再録します。
同じく第七章の部分:
・・・・本家の兄の沢一の友人に蘭山という書家がいて、「どうだ俺と一緒に中央へ行かないか?」と誘われたそうだ。しかし断ったがために、その影響がしばらくあったそうだ。蘭山氏はその後青森県の書の重鎮としての地位を築いてゆく。・・・・
そして第八章では:
・・・・この頃は蘭山氏も父との関わりは以前とは違い、互いに展覧会でや会議では交流を深めていたので、父は蘭山氏にも頼んだのだった。しかし原稿の事前の報告もなく載った記事は、私や会員には屈辱的で蔑んだような内容に思えた。
それで父に内緒で、私は独断で彼の勤務先に乗りこんだ。
ドアを開けてすぐに、挨拶もなく「何ですか?あの内容は!私たちは何ヶ月も懸命に学んで発表したんです。中央中央って、何なんですか?あなたはそれだけ偉いんですか!もっと書道の根本から見直したらいかかですか?」
言葉は丁寧かもしれないが、いきなり青年が表れて会社の部下の前で怒鳴られて、驚いたことでしょう。・・・・・
この部分は長兄の沢一の知り合いの書家の蘭山が間山陵風へ、一緒に東京へ出て出世しようと誘った部分です。それを断ったので後に蘭山が意趣返しをしたという話です。
地方に居る青年が東京を憧れる気持ちと、それを諌めた間山陵風の気持ちを想像すると何故か切ない気分になります。どちらの気持ちもわかるので切ないのです。それは東京で生まれ、育った人々には理解出来ない心の揺らぎなのです。
下に「轟による」と題する間山陵風の前衛書の写真を示します。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)