後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

JJ太郎著、「赤化洗脳された日本人」

2013年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

この前の記事で水木りょうさんのお兄さんがシベリア抑留で洗脳されたと書いています。

そこで以下に、JJ太郎著、「赤化洗脳された日本人」 をお送りいたします。

出典は、http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/08/post-cea9.htmlです。

昭和20年(1945年)の終戦後、日本軍人、民間人約60万人がソ連のシベリア、モスクワ近郊、北極近く、中央ロシアなど約2000箇所に抑留されました。抑留者には強制労働だけではなく、赤化洗脳の嵐が待っていました。昭和21年(1946年)から「民主運動」の名目で実施されました。「スターリンを選ぶか天皇を選ぶか」と問われ、天皇と答えたものは「帰国させない」「反動は白樺の肥料だ」と脅迫を受けました。食事、睡眠、用便の時間を与えないなどの拷問も行われています。洗脳されてしまった人は内地に引き揚げた後、東京代々木の日本共産党本部に大挙して挨拶に行きました。

 静岡市の大木幸雄さんはシベリア抑留中、「友の会」という共産主義の勉強会がはじまり、「友の会」の指導で「青年行動隊」が組織され入隊していたそうです。しかし、「一緒に祖国の土を踏もう」と誓い合った戦友が「桜劇団」(資本主義の産物と言われた)を組織しました。「友の会」の幹部は戦友に対して「反動分子」のレッテルを貼り、圧力・嫌がらせが陰に陽に露骨になっていきました。大木さんは悩み、そして自決を決意し、まさに実行に移そうとしたそのとき、戦友が「彼らの圧力に屈するな」「民主運動は要領よくやればよい。日本へ生きて帰ることを考えよう」と励まされ、思いとどまったといいます。大木さんの手記では収容所内は「革命だ!祖国日本を救え!」で埋め尽くされ、まさに革命の坩堝(るつぼ)と化したと述べています。

 この洗脳はシベリアに抑留された兵士だけでなく、中共でも行われています。山西省の日本軍は敗戦後も国府軍として居残り共産党ゲリラと戦い、これが滅法強かったため、毛沢東は恨みに思い、ソ連に抑留されていた日本軍精鋭の残存兵を強引に引き取ります。そして撫順(ぶじゅん)に洗脳学校を作り徹底的に洗脳します。共産党を礼賛し、毛沢東革命をたたえ、日本を貶める。改竄された歴史を教え込みます。日本人将校の中には自尊心が許さないとして自決するものも何人か出ました。こうして洗脳された日本人は帰国して731部隊、万人杭、三光作戦など組織的に流布されるようになります。ちなみに三光作戦の「光」に殲滅、皆殺しの意味を持つのは支那語であり、日本語には明るい意味しかありません。中日辞典をひけばわかります。日本軍は支那語の作戦名などつけません。

 こうして洗脳された日本人はやがて引き揚げて日本の地を踏むと「赤旗の歌」や「インターナショナル」を歌い、排除しようとすると「天皇島上陸」などと叫んで、肩を組んで歌う者や、ソ連仕込みの怪しげなコザック踊りを始めたといいます。迎えにきた共産党員や労働組合員たちが一緒に騒いで全く手がつけられなかったといいます。
 もっとも皆が皆、洗脳されたというわけではなく、ノーボイリンスカヤに抑留されていた上田宗雄さんの手記によると洗脳は「壁新聞」からはじまり、「ソビエト人民の歩んだ道」という本を回し読みさせられ、ちょっとでも批判すると吊るし上げられるので、理解したフリをしたと述べています。誰も「民主運動」家たちのいうことは信用せず、引き揚げ船にのる前のナホトカの収容所でも「民主運動」の波はひどいものでしたが、一応、かみしめたように見せかけガマンしていたそうです。

参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編集)
 産経新聞社 別冊正論「遥かなる昭和」
参考サイト
 平和祈念展示資料館 シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編) http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/index.html
 WikiPedia 「中国山西省日本軍残留問題」


水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第六章、結婚そして独立

2013年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

=======第六章、結婚そして独立==================

浅市が帰ってきて10日が経った頃、道で出会った知人が、「あんたの兄の澤義さんが駅前で共産党の大塚さん(当時の青森の共産党青年局長)となんだか騒いでるよ」と知らせてくれた。

浅市はすぐさま駅に行ってみた。数十人の党員と赤旗を翻し、拡声器で大塚氏がなにやら演説をしていて、その脇で兄が仲間とスクラムを組んでいた。
そこで思い切って浅市は「兄さんを返してほしい」と叫んだ。大塚氏と浅市の議論が大衆を前に始まった。
そこへ兄の澤義が間に入っての大論争になり、天皇制や戦争責任など二時間以上も論じ合ったそうだ。
翌日の新聞の一面に「兄弟のイデオロギー論争白熱」みたいな見出しで大きく載ったそうだ。

その後、家へようやく帰ってきた兄、澤義と論争の続きが三日三晩続いたそうだ。どっちも負けず嫌い、ところが浅市のほうが強情っ張りでは兄の上をいく。
浅市が論破して兄はついに降参したという。どんな内容かは聞いていない。
抜群の記憶力の頭脳とひたむきな思いが兄に通じたのだろうか。

党員をやめた兄、澤義はしばらく目標を失っていたが、長兄と家の仕事をしながら民謡を習い始めた。
青森油川で警察をやめて、津軽民謡を指導していた成田雲竹の一番弟子になったのだった。
師は後に日本民謡協会から名人位、国からは勲五等を受ける。そして後にその兄は弟、浅市の書の道場でで民謡教室を開くことになるのであった。

長男の沢一と次男の澤義の二人が家業に就いたことで身が軽くなった浅市は一層書の勉強に励んだ。また八重との交流も復活した。

ある日、訪ねて行った浅市に対し八重の父がこう言った。

「間山さん!そんなに娘が気にいったならさっさと連れてってくれ!」。

八重は花嫁道具もなく少しの衣類と床屋の道具を持って青森へきた。
ところが段取りもなく浅市の家に来たものだから、母、つえ はただただ驚いて「いやぁ困った困った」と言う。
家には二人の住む部屋もない。浅市の立憲養正会の同志の一人が、うちに来なさいと話がまとまった。

そんなこんなで八重は近所の家を周り、床屋はいかがですか?と働き始めた。
浅市は同志の計らいで、あけび職人を紹介してもらい、そのあけび細工を手伝いながら、二人の新婚生活が始まった。浅市23歳、八重26歳であった。
ほどなくして、八重は妊娠、冬の大寒の1月21日長男が誕生。
親子三人であけび職人の住む側の長屋に引越した。そこで一年後、二男を誕生。(それが私だった)
あけび細工が売れて、順調に生活をしていたが、職人仲間が函館で浅市の売上金をすべて持ち逃げしてしまった。一ヶ月はゆうに暮らせるほどの金だったので、そのショックから立ち直れずに浅市はヤケになりパチンコを毎日するようになった。

それでもミルク代を稼がなければならないので、八重は産後の肥立ちも明けないまま、極寒の冬に周り床屋をしなければならなかった。二男をおぶって長男の手をひき角巻をかぶって吹雪の中を毎日歩いたそうである。

不憫に思った人から衣類や餅やコメなどももらったそうだ。
床屋がダメなときはパチンコで得たタバコを売って生活もしたと聞いた。

そんな生活を、長屋を仕切っていた露天商の親分の◇村さんが心配して、「わしの仕事をよかったら手伝ってくれんか」と誘ってくれた。父は喜んで引き受けたそうだ。

街の繁華街で『ぽんせんべい、お面』など、宵宮では結構頑張って働いたそうだ。
青森市だと世間の目もあったので、もっぱら五所川原とか弘前での仕事だったそうだ。
(世間体は悪いが、このころ一番幸せだった気がすると母は後に話していた。)

露天商を手伝ってることが、実家の兄に伝わり、ある日リヤカー2台もってきて、荷物を積み長屋を引き払ってしまった。

「この大馬鹿者!間山の名さ恥をぬる気だが!おめぇヤクザにでもなるんだが!」
と母親にこっぴどく怒られたそうだ。
そして実家にちかい物置小屋を急ぎ改造した家を当てがられ、「さぁここで習字の塾でもやればいいから」

習字の開塾を5月5日にしてポスターをつくり、街の電信柱に張って歩いたりした。
兄もこんにゃくの配達をしながらも趣意書をお店においてもらった。

みんなの支援で遂に昭和27年、5月5日間山浅市の習字塾が開かれた。
最初に集まったのは20人を超えて、大人のお弟子さんも2名ほどいたという。その晩は祝宴となり、多くの先輩の書道の先生や国柱会、友人たちが集まって門出を祝っってくれた。

米町の道場と外崎先生の懐南書道塾の経験もあってか、指導は問題もなく順調だった。
すこし遅れて看板も出来上がり、屋号は『水茎書道塾』となった。雅号も陵風と名乗ることにした。

明治天皇の御歌の『鏡には映らぬ人の真心を さやかに見ゆる水茎のあと』から引用したのだった。
毎週火木土三回 最初の月謝は100円くらいだったと聞いている。母は相変わらず周り床屋をしていたし、合間に浅市はあけび細工も復活させた。(第七章へ続く)

下は『水茎書道塾』が順調に栄え、その書道展をした折の陵風(浅市)の33歳の時の写真です。その左の水茎展の書はこの記事の筆者の水木りょうさんの9歳の時の作品です。

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