昨年11月5日にこのブログを始めてからのアクセス数が18205件になりました。
最近は一日のアクセス数は平均145件前後です。
話題がクルーザーヨットと粗末な山林の中の小屋に関する、ごく狭い話題にも拘わらず拙文をお読み頂いていることに感謝の気持ちが湧いてきます。本当に有難うございます。
ブログをしていると趣味の面白さが倍増しますし、視野も広がることに驚いています。小さな草花の美しさもしみじみ分かるようになりました。
ヨットも今までは、天気の良い日だけ走らせて、荒れだすとすぐ逃げ帰りました。しかし、日本丸や帆船の歴史を知ると、そういう乗り方はセイリングのほんの一部であることが分かりました。荒れる夜の海での帆走を想像しながらヨットを走らせていると、昔の人々の苦しみが分かります。
山林の中の小屋へ泊まることは厳しい体験です。そんな趣味へご関心を持って頂ければ嬉しく思いつつ、感謝申し上げます。
それからコメントをいつも頂く、高山さんと、SHANTIANさんには大変励まされています。有難う御座います。
最後にブログ開始をご指導してくれた鬼家雅雄さんへ深甚の感謝の意を表します。
敬具、 藤山杜人
フォトアルバム「山林の中の小屋」もアクセス数が多いです。本当に粗末な、小さな小屋ですが、ご覧下さいました方々へ感謝申し上げます。
昨年の晩秋、木々の葉が全て落ちたあとの寒々しい山林の風景、雪に埋まっている厳寒の風景、そして今回追加した新緑の風景を見なおしますと、季節の移り変わりに感慨を覚えます。こうして自然は季節がめぐり、人は年をとって行くのですね。
中古ヨットの見分け方の写真集は、19Feetから36Feet位のクルーザー中古を買う場合に参考になるような写真を掲載して来ました。
お陰さまでこのフォトアルバムへのアクセス数が10830件にもなりました。そこで、少し考え方を広げ、色々なヨットの楽しみ方も含くめることにしました。
例えば中古クルーザーを購入しなくとも、中古大型帆船の保守管理作業の趣味を楽しむのもその一つです。
何回も紹介しましたが、横浜、桜木町駅前には日本丸が係留しています。その会員になって、大西船長や乗組員の指導を受けながら帆船を理解し、種々の作業を楽しむことができます。(船検証もあり、東京湾内なら帆走出来る)
それには、帆を上げる「展帆ボランティア」と「甲板ボランティア」になることです。
追加した8枚の写真のうち、始めの3枚は「展帆ボランティア」の仕事ぶりを示しています。体力さえあれば誰でも4日の訓練を受けるとマストやヤードに登り、帆を解いたり、畳んだりできるそうです。
あとの5枚の写真は「甲板ボランティア」の仕事です。船倉へ自由に出入りし、セールやロープの修理・保守をしたり、甲板まわりの備品の整理整頓や磨き作業、さらにはペンキ塗りまで出来ます。作業の仕方は全て、大西典一船長や乗組員が懇切丁寧に教えてくれます。
なんども書いて恐縮ですが、日本丸は15世紀から続いたヨーロッパの大型帆船の最終到達製品でもあり、最も優雅な形をしています。イギリスの会社の製品です。日本政府の発注により昭和5年に神戸の造船所で組み立てられました。
なお、姉妹船、海王丸は昭和7年にくみ上げられ、現在は富山県、射水市に係留・公開されています。
横浜の日本丸で大型帆船の構造と取り扱い方を理解しながら、大阪市所有の大型帆船、AKOGAREへ乗船するのも良いと思います。このブログで日本丸と、AKOGARE のURL は既にご紹介していますのでご参照下さい。(終わり)
株式会社舵が1986年に発行したこの本はヨーロッパにおける帆船の構造的発展の様子から大航海時代の新大陸発見と植民地の歴史、さらには帆船捕鯨や海賊船、幽霊船の話まで実に内容の豊富な単行本である。4月25日、横浜の みなとみらい岸壁に係留してある日本丸を訪問した時に、大西船長が勧めてくれた本で、著者は大西船長の恩師だそうだ。
先日、山林の中の小屋で、静かな夜に小川の水音を聞きながら読んで来た。読みながら思い出した。昔、仙台の県立高校でカッターを何度も松島湾へ漕ぎ出したことを。20人位で海を渡り、海水浴場の桂島や馬放島の砂浜へカッターを乗り上げ、昼食をとったものだ。
帰りは船首に近いところに太い木のマストを立て、三角形の帆を上げて走った。
この経験で2つの事が分かった。オールで漕ぐ船は喫水が浅く、砂浜へ容易に乗り上げることが出来る。離岸も簡単。もう一つのことは、帆走は風向きさえ良ければオールで漕ぐより楽で速い。
杉浦昭典著「帆船ー航海と冒険編」では数十人の漕ぎ手が乗る、一本マストのローマのガレー船の構造を説明している。船を軍艦として、あるいは商品の輸送船として用いるために、帆走能力が次第に大きくなって行った歴史が明快に書いてある。大航海時代には漕いで走ることを完全にやめ帆走だけで外洋を駆け巡れるように改良に、改良を重ねて行った歴史が分かり易く説明してある。
帆船は帆だけでは離岸も着岸も困難である。昔は積んであるカッターを下ろしてオールで漕いで帆船を引っ張り離岸させた。現在はジーゼルエンジンが補助機関としてついているのでオールを漕ぐ必要はない。
帆船の発展の歴史を読むと上の大きな写真に示す英国製の日本丸が西洋式帆船の最高到達製品である感じが、しみじみとする。日本丸が出来た昭和5年には、既に紹介した氷川丸も出来ている。お客や貨物を運ぶコストとリスクを考えれば氷川丸が決定的に優位であることは誰の目にも明らかである。とにかく色々なことを考えさせる内容豊かな本である。いずれ考えた色々なことを書いて行く予定である。(続く)
昭和5年進水の豪華客船、氷川丸は改装が終わり、横浜、山下公園岸壁で公開が始まっています。
進水から第二次大戦開始までは太平洋航路の豪華客船として、チャップリンも乗船するなど華々しい活躍をしました。が、運命は暗転、真珠湾攻撃後は病院船へ改装され、南方洋上を往復しました。軍需物資も輸送したのでアメリカの潜水艦の追尾を受け、かなり危ない橋を渡りました。戦後は復員船として南方や中国大陸に残された軍人、民間人の引揚げに大きな働きをしました。その後は客船として復帰しましたが、やがて航空機にとって代わられ、進水後10年間ほどの華々しい航海ではありませんでした。その後、山下公園岸壁に係留され公開されていました。昨年、もとの所有者の日本郵船が買取り、10億円をかけて船底鉄板の完全修理と塗装をしなおして公開を再開しました。
この客船の心臓とも言うべきエンジンはデンマークの会社が製造した4500馬力x2基のジーゼルエンジンです。また船体の複雑に湾曲した鋼板は英国などの外国で加工・切削の後に輸入し日本の造船会社で組み上げたと想像できます。当時は溶接技術が無くて全て鋲打ちでした。このような技術的な情報が入場のとき配られる案内パンフレットに無いのが残念です。あたかも全て日本製という重大な誤解を生む可能性があります。日本が真珠湾攻撃をして第二次大戦へ参戦した科学技術的無謀さを忘れないためにも歴史的技術情報を公開するのが良いと思います。
詳しくは、http://www.nyk.com/rekishi/ をご覧下さい。
「まだ現役大型帆船日本丸」のシリーズ記事を掲載していましたら、一度、航海の体験もしたくなりました。そこで少し調べてみましたところ、大阪市が1993年に建造し所有している362トン、3本マストの帆船、Akogare を見つけました。
ご存知の方も多いとは存じますが、以下に情報をお送りします。草々、藤山杜人
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大阪市が建造・所有する帆船「あこがれ」は、1994年から広く一般市民の方を乗せてセイル・トレーニングを行っています。日本各地はもとより、グアム・フィジー・ニュージーランド・オーストラリア・インドネシアへ航海、そして2000年の世界一周と、これまでに地球を6.6周分航海したことになります。
セイル・トレーニングってどんなことをするんだろう? どうすれば参加できるんだろう?料金はいくら? どんなことをするの?持ち物は? 「あこがれ」ってどんな船? このサイトではいろいろな疑問に答え、情報を提供します。 乗船申し込みフォームはこちら |
1993年に建造された「あこがれ」も13歳、1994年のセイル・トレーニング事業開始10周年も終わり、新しいセイル・トレーニングを目指してがんばっていきます。また、2005年7月には山形県酒田港で開業以来のトレーニー数が2万人に達しました。現在、2008年9月までの入門型と年間航海型スケジュールを発表しています。
セイル大阪 地図はこちら
559-0034 大阪市住之江区南港北1-14-16 WTCビル3階 メールボックス70
Tel:06-6615-6070 Fax:06-6615-6071 E-mail: sail@akogare.or.jp
Copyright 1999-2005 Sail Osaka
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大坂市が建造・所有する帆船、665トン、AKOGARE号の詳細は、
日本最古の歌集、万葉集に歌われた植物、約160種を集めて栽培、公開してる寺がある。ご存知の方も多いと思うがご紹介したい。JR西国分寺駅から南の方角へ歩いて15分のところに、上の大きな写真のような、現在の、むさしのくに国分寺がある。
下列の10枚の写真はこの万葉植物園の案内文や説明板の様子を示している。
また境内には昔の国分寺の瓦や出土品を展示している建物もある。これもご覧下さい。
山門を出て30mほど歩くと聖武天皇の建てた国分寺の礎石群が並んでいる広場に出る。
なお国分尼寺の礎石群は西の方角へ約600mあり、府中街道とJR武蔵野線の向こう側にある。歩くと10分以上かかる。
また寺の白壁の塀にそって東方向へ10m行くと「お鷹の道」の入り口があり、案内板がある。(お鷹の道はすでに2度、このブログで紹介している)
万葉植物園の植物名と和歌を読みながら散歩をしていると、なにか大らかな気分になり
当時の国分寺の境内を歩いているような錯覚をおぼえる。万葉集の本を持って行くともっと
興趣が高まってくる。
しかし現在は花が途切れる時期で、ほとんど咲いていない。いろいろな季節に訪問することをお勧めする。
詳細情報の出ているURLは、http://club.pep.ne.jp/~t.mizuno/ind_st1.html です。
撮影日時:5月2日午前10時頃 (終わり)
○学校入学は契約
明治時代に欧米の教育制度が急いで輸入された。学校建物、教員組織、学年進級制度、教育プログラム、時間割編成などはかなり忠実に輸入した。しかし、教員の処遇の仕方、校長の権限、生徒の進級条件、飛び級制度、強制退学制度のような運営の具体的方法は輸入されなかった。運営方法は教員や生徒に重大な影響を及ぼす。日本の学校が欧米の学校と似て非なるものとなった原因はここにある。
日本で一番困難なものは強制退学制度―毎年一定以上の成績を取らなかった生徒を全員例外なく退学させる制度である。欧米では退学させる生徒の数や割合は成績基準に達しているか否かで決める。もちろんこの制度が無い学校もある。あるいは退学させる生徒の割合が非常に少ない学校もある。しかし学校にとっても生徒にとっても、強制退学制度は教育効率を上げる有効な制度と考えられている。
生徒がどの学校へ入学するかは個人の自由である。入学した学校が悪い場合、退学するのも生徒の自由である。もちろん転校も生徒の自由である。入学とは校長と生徒(とその親)が「教育サービスを受ける条件の契約」を交わすことである。契約である以上、校長と生徒(とその親)の双方に責任と義務がある。校長の義務も重いが、生徒も努力して一定の成績を上げる義務がある。怠けてその義務を果たさなければ契約不履行で強制退学になる。親は月謝を支払う義務がある。
さて、日本にはどの学校へ入学しても良いという自由があるだろうか。学区制があるので難しい。転校もあまり自由ではない。退学した生徒は人生の落伍者という目で見られる。入学は校長と生徒(とその親)の間の対等な契約という考えも無い。退学すれば生徒が一方的に不利な人生を歩むことになる。これでは、師弟愛に燃える教師は生徒を退学させるわけにはいかない。
しかし、人間は本来怠け者である。退学が無ければ怠けられるだけ怠ける。特に高度成長が完了し豊かになった日本では、怠けてもよいという社会風潮になっている。
○学校と人間の価値
最近はそれほどでもなくなったが、以前は卒業した大学によって人間の価値が決まるような表現があからさまに用いられていた。一方、人間の価値は学校と無関係だと悔しがる人々もいた。
欧米では、人間の価値はこの世でも神様が決めるものであり、学歴は関係ないという信仰が根強い。宗教的な信仰が学歴重視を弱めて来た。この信仰がなければ、人間の価値は学校と無関係ということも、学校へ行けなかった者の恨み言葉にしかならない。
キリスト教が社会の基盤になっている欧米の人間のコアメンタリテー(深層心理)をのぞいて見よう。欧米人は心の中で、自分が所属している学校や会社はあくまでも一時的で仮のものであり、自分はイエズス・キリストを頭にした共同体に永遠に所属していると信じている。日本人はよくハーバード大学出身だとかMIT卒業生だとか言うが、そんなことを欧米人の前で明言するのは軽蔑されるだけである。親しいアメリカ人が筆者へ言う、
「「私はハーバード大学を卒業した。貴方の卒業した大学は何処ですか?」と聞く日本人に先週会ったが、これは物凄く不愉快な会話だ!」「どうしてですか?」「アメリカでは学歴の会話は禁句です。それをする人は軽蔑されるだけです」「でもハーバード大学卒業を自慢したいときはどうするのですか?」「露骨に卒業したと言わずにフットボールの話や大学のあった町の自慢をするのです。それでアメリカ人は察するのです。ハーバード大学を卒業しているな、と」「なるほど!」「日本人は英語に敬語が無いとすぐ言うが、丁寧な言い回しや、尊敬した言い方が無数にあるのです。日本人は単純すぎますね」、日本人の弱みをついてきたので話題を変えた。
学歴の話はヨーロッパでも禁句である。パーティーで話題に困ったら、お釈迦様の教えを、ああだこうだと話している方が尊敬される。
学校教育に限らず、西洋の制度の形は輸入できるが、制度運営の精神は輸入不可能であると理解した方が日本文化の理解を深める。(続く)
帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ発注された。
ラメージ&ファーガソン社は設計と鋼材の切り出しと部品の調達を行い、全て日本へ輸送し、組み立ては 神戸川崎造船所で行った。昭和5年3月31日に竣工・引渡しが完了した。
すべての部品は鋼材に至るまで英国製であり、初めの帆走・操舵技術は英国人教官の直接指導によったと思われる。上の左端の写真に示したように鋼材の切削・加工を行ったスキニンググローブ社(England)の名前が今でも明記してある。
上の2番目の写真はラメージ&ファーガソン社設計製作の人力で舵を動かす大型歯車セットであり、現在も人力だけで舵をとる。3枚目と4枚目の写真は全てラメージ&ファーガソン社の設計図通うりくみ上げた結果である。
従って、余談ながらこの帆船は英国文化の文化遺産的な性質が濃厚である。
太平洋往復航海中は、完全に英国式訓練であり、まず英語で部品名や帆やヤードの名前を覚えることが徹底された。
上の写真の1枚目と2枚目は横桁であるヤードの専門用語とセイルを操るロープ類の専門用語である。すべて英語であり、現在も忠実に英語で呼ばれている。3枚目は帆を操るロープ類が絡まらないように揃えてある様子で、これも英国式整理方法である。
太平洋上での訓練生は全ての部品・ロープ類は英語の専門用語で覚え、号令もこの専門用語で発せられた。その訓練は真夜中の総員お起し、ロープの専門用語を呼称し、暗夜の中でも正確に走りそのロープを掴む訓練を繰り返したそうである。当直は人間の集中力が続く4時間交代で行われた。
起床は6時30分。まず椰子の実を輪切りにしたもので全員甲板磨きをする。
上の右2枚の写真は船倉にしまってある椰子の実と、それを輪切りにした断面を示す。
この椰子の実による甲板磨きだけが日本人の発明だそうだ。チーク材の甲板と椰子の油の相性がよく甲板が綺麗に保持できる。英国では椰子の実の代わりに脂付きのモッブを用いる。現在の日本丸の大西船長によると訓練で一番重要なのは甲板磨きであり、それが終わってから歯磨き・洗顔、朝食と日常の日課へと続くそうである。
甲板磨きで、船を愛する精神が湧き、操船が慎重になり、結果として危険防止、無事故へ続くそうだ。従って、日本丸は昭和5年の進水以来、昭和59年の半引退まで無事故であった。
(終わり)
最初の写真は現在の日本丸の船長の大西典一船長で2番目の写真はこのような帆船で訓練を受け、日本郵船KKの大型船の船長や水先案内人をされた大河原明徳船長です。小生へ詳しくご説明下さった両船長へ深甚の感謝の意を表します。
さて、これから皆様は大西船長になったおつもりで日本丸で太平洋を横断する訓練航海の指揮をとって頂きたいと思います。紙上のバーチャル航海ですから危険はありません。
横浜港を5月1日に出港します。東京湾を池貝鉄工所製、600馬力2基4サイクルジーゼルエンジンで機走する。三浦半島を右手に見て、東京湾を出る。先には帆走準備に邪魔な伊豆諸島がある。これをかわして、広い外洋に出る。そこで帆走の準備をする。
上の写真の左端のように、船長の皆さんは船尾の舵輪の脇に立つ。
4本のマストにはそれぞれ航海士を1人ずつ配置し、訓練生を20人ずつ配置する。
つぎに2枚目の写真で示すように、ジガーマスト天辺の風向・風速計を見上げ風向きと風速を確かめる。
外洋なので大波がうねっているが、風はしっかりと安定した西南の風である。
「全員、マストへ登り、セイルを解け!」、号令が士官から士官、そして訓練生へと伝達される。訓練生が揺れる帆柱へましらのようにのぼりヤードに縛り付けてあった全ての帆を解く。
「全員、マストから降りろ!」、船長の号令で全員甲板へ戻る。(船長の気持ちーヤレヤレ一番危険な仕事が無事終わった!)
「アウター・ジブとスパンカーを上げろ!」、号令が気持ち良く訓練生へ届き、日ごろの訓練通り帆が上がる。あとは船の姿勢を調整しながら順序良くセイルを上げるだけ。上の写真の3、4、枚目の写真がその途中の写真で、5枚目がいよいよ帆走を始めたときの様子。
でもこれはウソ。航路の北太平洋は荒天が続くので、3本のマストの先端のセールである、
ロイヤル・セールは上げないでシェアトルまで帆走するのが普通である。
ヤードの向きを調整し、追い風一杯で、快調に帆走を始める。もう、銚子沖東100km。
うるさいジーゼルエンジンを止め、帆走に入る。大波で船が心地よく上下する。
東北へのぼり、荒天域に入る。これでシェアトルまで40日間の帆走が始まる。
何日かすると訓練生が、「船長殿、質問があります。何故、こう毎日雨なのですか? 晴天域は走らないのですか?」と不満そうに聞く。船長が答える、「低気圧のそばへ船をもって行って、何時も強い追い風を捉えて走るのが大型帆船の正しい走り方なのだ。帰りは南太平洋を渡りハワイへ寄るからそれまで辛抱する。よいか?」「なるほど。分かりました!船長殿」 (続く)
長野から 野尻湖、妙高高原のそばを駆け抜けて日本海へ出ました。途中、黒姫山がまだ雪に覆われていました。里では櫻が過ぎ、すっかり新緑の季節になったのに。北信の戸隠の山々も雪の中です。
北陸高速道路の米山サービスエーリアで昼食。「地魚定食」は、本当に近場でとれた活きの良い赤魚の煮付けと、天然小鯛の刺身です。赤魚は底魚らしくて少し泥臭い。少しの泥臭さと新鮮さが地魚の魅力です。小鯛は脂ののった刺し身が多数。天然の鯛は小さくても養殖ものとは別種の魚という感じがします。他に山菜の煮物、漬物、ご飯、味噌汁がついて1150円。なんと誠実な仕事ぶりでしょう! 写真でみるとごく当たり前の煮魚、刺身定食にしか見えないので、敢えて写真は出しません。文章からご想像下さい(終わり)
撮影日時:4月30日午前11時頃。