後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山林の中に小屋を作り、楽しむ趣味について

2010年04月26日 | うんちく・小ネタ

山梨県の山林を少しだけ購入して小屋を建て、静かな夜を過ごす。冬の夜は薪ストーブを焚いて楽しみます。夏の夜は、小川の流れる庭でキャンプファイヤーを焚いて、ビールをゆっくり飲みます。

こんな趣味を1975年から35年間続けています。有名な別荘地に別荘を建てるより桁違いに経済的な趣味です。

これから山林の中の小屋の趣味を始めて見たいとお考えの方々の為にご参考になる情報をお送りいたします。

@山林の大体の値段を調べておく

交通の不便な山林なら坪あたり1万円くらいです。また、未整地の雑木林なら坪4000円から5000円が場合もあります。従って100万円の予算があれば100坪くらいは買えるわけです。ただ注意すべきことは、坪1万円で100坪といっても半分は大きい石がゴロゴロしていて宅地にはならないとか、半分が急傾斜で平地は半分ということが多いのです。しかし宅地に使えない部分は自分好みの庭に出来ます。これがもう一つの楽しみになる場合が多いのです。

未整地の雑木林が坪4000円という場合は1000坪、2000坪とまとめて売っています。交渉で200坪でも売ってくれるようにしなければ総額100万円を越してしまいます。土地の値段については出来るだけ多くの人々に聞いてみることが大切です。

ご自分の予算を考えながら少し時間をかけて納得の行く所を買います。

都会地で宅地を売り出すときは、土地は区画され4隅には境界石が入れてあります。しかし山林ではそんなものは有りません。都会の宅地とは異なる独特の問題が山積しています。そこで以下に問題になる項目を列挙します。売ってくれる人へ以下の問題を丁寧に聞くことが大切です。

@山林購入時の注意事項

(1)山林、雑木林の真の所有者を探すこと、(これが分からないことが少なくありません)

(2)市役所や村役場へ行き購入後、山小屋を建てて良いか否か相談する、

  (法務局出張所へ所有者変更の登記をして地目を山林から宅地へ変更可能か?)

(3)建てた後、不動産税は幾らになるか関係役所で調べておく、

(4)購入予定地まで車が入れる公道が有るか否か?

   (一年の半分は積雪で車が通行不可能でも公道である必要がある)

(5)周りの山林の持ち主から人間だけ通うれる道なら作っても良いという許可をとっておく、

  (車の入れない季節は徒歩で小屋まで行かねばならないので)

(6)山林の下の里の人々へ色々聞いてみる、

 (従来、村人はその山林をどのように使ってきたか?山崩れや鉄砲水が有ったか否か?)

(7)購入する山林の4隅へ売主合意の上で境界石を入れる。

  (境界が分からず小屋を建てあとで自分の土地でないことに気がつくこともある。)

兎にも角にも山林を買うことは大いなるアドベンチャーです。運不運も関係します。

それだけに大変面白い趣味の出発点になります。

このブログではもっといろいろな参考情報が掲載されています。

フォトアルバム「山林の中の小屋」の説明の文書12件の総目次を掲載します(このブログの2008年9月1日掲載記事です) を合わせてご照覧下さい。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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今年も5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されます

2010年04月25日 | うんちく・小ネタ

今年も5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されます。パック旅行がJTB(電話:03-5909-8242、担当:阿部、村田、相田)によって企画されています。詳しくはJTBへお問い合わせ下さい。

それに関連して2年前に神津島へ行った時の旅行記を再び掲載致します。ご参考になさって頂ければ嬉しく思います。

=========神津島旅行記==============

東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」

「それは誰ですか?」

「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」

「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」

「おたあ、を島の人々が始めは、助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」

「それで?」

「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」

「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」

「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」

「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」

「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子である。

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいった。

帰宅して調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かる。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首される。

家康の側室の侍女となったが家康の言いなりにならない。桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になった。慶長17年、1612年のことである。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もある。

毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」がある。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアの慰霊祭も同時に行っている。

尚、ジュリアの最期には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではない。

写真4枚は上列左がジュリアの姿、その右が神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)。下列左は韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、その右の写真は荒れる太平洋の波の様子です。なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。(終り)

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キリスト教が排他的だと批判する人々へ送る私の本音

2010年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

2、3ケ月前に、あの小沢さんが仏教界の指導者を訪ね、「キリスト教は排他的です」と批判しました。新聞がその露骨な票欲しげな態度を批判的に取り上げていました。

しかし小沢さんの発言は多くの日本人の本音です。事実、洗礼を受ける前の私もそのように理解していましたのです。

毎日曜日に唱える信仰宣言では唯一の神を信じますと言明します。イエス様の所だけへ行きますとも言います。中世のヨーロッパではイスラム教徒を殺戮するために十字軍を中近東地域へ執拗に送りだしたのです。

その2つのことで日本人はキリスト教を排他的と思い込みます。日本人の本音ではキリスト教を敬遠したいのです。

しかし洗礼を受けてその内側に入ってしまうと決して排他的でないことが分かります。唯一の神を信ずるのはユダヤ教もイスラム教もキリスト教も同じです。同じ神なのです。イエス様の所だけへ行きますという事はキリスト教を彼が作った宗派なので当然のことです。多くの人々はこの言葉の故にキリスト教徒は佛教を攻撃したり、佛式のお葬式へは欠席すると思っています。神社へも参拝しないと思っています。

ところが洗礼を受けて神父様の説教を何百回も聞きましたがお葬式は欠席しなさいという言葉は一回も聞いていません。神社に行くなという台詞も一切聞いたことがありません。そんなことは全く個人の自由なのです。私の仏教との関係は洗礼以前と以後と全く変わりません。いや以前より仏教の素晴らしさが深く理解出来るようになりました。

キリスト教を広げるために武力を使へとは聖書に書いてありません。それは人間の征服慾を正当化する卑怯な説明なのです。聖書にはイエス様が弟子達へ世界中へ行って述べ伝えよと言ったと書いてあります。述べ伝えることと武力を使うことは全く別です。それよりも聖書ではあちこちに平和の大切さが書かれています。

仏教のお葬式に出ないキリスト教徒もいます。イスラム教徒へ武力を使うことに抵抗感を持たない人々もいます。それは事実です。しかし私の本音はこうつぶやくのです:「世話になった人のお葬式にでない罰当たり者。イエス様お許し下さい」、そして「他宗教へ武力を振るう人間の罪と、弱さをお許し下さい」とつぶやいています。

排他的なキリスト教徒がいましたなら彼等の救いの為にお釈迦様へ頼んで下さい。「御慈悲を下さい。彼等を地獄へ落とさないでください」と。

縁あって、この拙い文章をお読み下さった方へ感謝いたします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

下の写真は長崎の島にあった日本式のカトリックの教会です。明治村で撮影しました。

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12年前に別れたヨットへ会いに行く楽しさ

2010年04月24日 | インポート

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昔、10年もの長い間、愛用していたヨットです。12年前に手放しました。Yamaha19 という小さなクルーザーです。

このヨットは22年前にはじめてクルーザーを買った時、琵琶湖の西岸の雄琴の藤田マリンという店先に、上の写真のように置いてありました。当時、すでに進水後7年たっていましたが新品のように光り輝いていました。

値段を聞くと100万円というのですぐに買いました。店の若い主人が大型トラックに積んで、自分も一緒に霞ヶ浦まで運んでくれました。

陸送の為に倒して来たマストを立てて、四方から鋼鉄製のワイヤーでしっかり固定してくれました。親切な男でした。その後10年間激しく使いましたがワイヤーは少しも緩みません。何処も故障もしませんでした。

文字通り愛していた艇でしたが人間の慾にはキリがありません。エンジンが船体の中に組み込んであり、キャビンの天井が高く、立って歩ける程のヨットに乗りたくなりました。12年前にそのような中古のヨットをやはり100万円で買いました。この艇が終の棲家になる予定です。

12年前に手放したヨットは何時もお世話になっている近くのマリーナへ贈呈しました。暫くして大切に乗ってくれる人が買い取ってくれたのです。群馬県の人でした。船体を洗い、ペンキを美しく塗りなおして乗ってくれています。

近くのマリーナに陸置きしています。現在の持ち主には数回お会いして大切にしてくれていることへ対して心からお礼を言いました。

また数年が経ちました。時々そのマリーナへ家内と一緒に遊びに行き、昔乗っていたヨットを見上げて何故か嬉しい、楽しい気分になって帰ってきます。

道具や乗り物を大切に手入れをして何十年も使うという事は人間の心を豊かにするものです。幸福感に包まれるものです。

「何でも大切にする心」が現在の日本からどんどん消えて行くことに心を痛めています。

皆様はどのようにお考えでしょうか?(終り)


愛が貴方の周りの世界を変える・・・老年期を楽しく過ごす方法

2010年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

時々、「愛が世界を変える」という調子の良い言葉を聞きます。しかしこんな雑な言葉の使い方では何も起きません。もっと狭い意味の言葉を用いたほうが分かり易く、説得力もあるものです。

他人や家族に愛されたと感じたら、「不幸な境遇」でも生きているのが楽しくなる。これも意味することが広すぎていけません。貴方の不幸な境遇がそんなに簡単に変わったら苦労はありません。貴方というものをもっと狭く設定してみます。70歳台の日本人の男か女で独りで住んでいます。夫か妻の一方が数年前に亡くなりました。孤独に老後を送っている人です。毎日、特に楽しくもありません。むしろ悲しみの日々です。

遠くに息子夫婦が住んで居て、1年に2回くらいしか孫に会えません。特に孝行息子でもなく、孫もその老人になついていません。そのように仮定してみましょう。

ここまで具体的に限定すれば愛の重要さが分かります。いや、まだまだです。愛なんて曖昧模糊とした西洋語を使うから意味不明瞭になるのです。「愛語」などという仏教用語も難しすぎます!

愛の意味を狭く決めましょう!

他人を大切に思う心を愛と表現することにします。そうすると、「大切に思う心」が何故この孤独な老人の周りの世界を簡単に変えるのでしょうか?

「大切に思う心」には2つのことが含まれています。「自分が他人を大切にすること」と「自分が他人に大切にされたと感ずること」です。前者は容易ではありませんが、後者は誰にでも出来ることです。

過去に一度でも息子夫婦に大切にされたと感じたことがあったら、それが愛です。孫が一度でも甘えてくれたらそれが愛です。その思い出を、「かけがえのない大切なもの」として心の中に刻みこんで時々思い出します。そうすると自分の周りの世界が明るく感じられるようになります。

次に自分が他人を大切に思って見ましょう。近所の人へ挨拶をします。少し優しい言葉をかけます。「私は貴方を大切に思っていますよ」というメッセージです。

息子夫婦や孫へたまには電話をして優しい言葉をかけます。

これが他人への愛です。挨拶が自分から出るようになると貴方の周りの世界は本当に変わります。

私は他人を愛する程の境地には至っていません。しかし他人が私を大切にしてくれればその事を感じる心だけは持ちたいと思っています。そういう考えを一旦持ってしまうと病気持ちでも老後の日々が輝くように楽しくなるのです。自分が他人に大切にされていると感じられればそれで良いのです。あとは自然に変わって行くのです。私の周りの世界も最近とても変わってきました。

このブログに毎朝書く下のメッセージは空々しい気持ちで書いていません。縁あってこの文章をお読み下さった方を、私は大切に思っていますというメッセージなのです。でも少し恰好良すぎて恥ずかしい思いをしながら書いています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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抗癌剤治療とその副作用の実体験者の記述ブログをご覧下さい

2010年04月23日 | うんちく・小ネタ

抗癌剤治療は効き目があると言います。このブログで何回か紹介したhikarunoさんは肺ガンになり1月と2月に2回抗癌剤投与の治療を受けました。その効果は確かに上がって、3月には身辺整理のためカトマンズとバンコックへ旅をしました。

しかし抗癌剤投与は苦しい治療方法です。その上、副作用が大きいのです。

hikarunoさんは東京厚生年金病院で受けた抗癌剤治療の苦しさを患者の立場から詳細に報告しています。そして副作用はどのようなものか客観的に書いています。

私も何時かは抗癌剤のお世話になる可能性があるので大変参考になりました。そこでこの貴重な体験記をもっと広く知って貰う為にhikarunoさんのブログのURLをご紹介致することにしました。http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season です。

また彼は今後も続ける抗癌剤治療の費用に備えるためにアジアの手紡ぎ、手織りの野蚕織物などのネット販売をしています。購入方法もブログに説明してあります。

hikarunoさんをご支援下さい。(終り)


雨にけぶる村山貯水池の写真

2010年04月23日 | 写真

東京都の水道水の水源は利根川、荒川、多摩川の3水系です。このうち多摩川の水は羽村の取水路から山口貯水池(狭山湖)と村山貯水池(多摩湖)に貯蔵し、東村山の浄水場や武蔵境の浄水場で純化し、殺菌し水道水として各家庭へ供給しています。多摩川水系の水は東京都の西部地域へ供給されています。少し硬い味のする美味しい水です。小金井市は浄水場へ近いせいか特に水が美味で、お茶やコーヒーが楽しめます。今日は朝から雨でした。車で30分で行ける村山貯水池の近辺を家内と散歩して来ました。雨にけぶる貯水池の写真をお送りいたします。(写真にある赤レンガで出来た丸い塔は取水塔で、その底から浄水場へ水を送りだしています。)

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追憶の中にあるようなタイの農村風景・・・GAKUさんのブログだより

2010年04月23日 | 写真

GAKUさんのブログにはタイの自然な風景写真が多いです。特に農村地方の写真は私達の育った少年の頃の日本の農村によく似た光景です。決して行ったことのない所の風景ですが、何故か昔訪問したような気分になります。追憶の中にある心象風景なのです。そんな写真を3枚お送りします。出典はhttp://gaku404.exblog.jp/13500729/ です。転載許可を下さいましたGAKUさんへ感謝います。写真をお楽しみ下さい。

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薄れゆく記憶の中によみがえる事・・・広島、長崎の原爆のこと

2010年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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高齢者になると次第に記憶も薄れて行きます。目の前に霞がかかったように、遠い昔の事は記憶のかなたへ消えて行きます。そして全てが許されるような気持ちになります。全ては運命のいたずらだったのかも知れません。

温かい春の日射しの中を散歩しながら、フッと気が付くと、時々追憶の糸をたどっていることがあります。そんな時に思い出す事などを書いてみたいと思います。

広島と長崎への原爆投下は心の底に沈んだ黒い鉛のように一生ついてまわりました。

終戦前後は仙台の北方の農村へ疎開していたので被害の実情を知ったのは随分あとになってからです。農村では「新型電子爆弾」が落とされて日本が降伏したという噂がすぐに広がりました。

終戦後30年、40年と時がたっても「原爆反対運動」が根強く続き、日本の新聞が何時までも大きな記事を出していました。

残虐な原爆へ反対する素朴な動機も大きかったと思います。しかし政治的な動機もあったのです。

冷戦時代のソ連共産党政府が日本の革新政党の原爆反対運動を支援していたのです。

当時、私は大学で研究をしていたので、時々ソ連からの研究者が訪問してきました。彼等は全て共産党員でした。広島や長崎へのアメリカ軍の残虐な原爆投下を良く知っていました。そして広島や長崎を訪問したがります。彼等は原爆投下したアメリカを日本人が深く憎んでいることを知っています。それを利用して日米が離反するように原爆反対運動を支援していたのです。

そんな事情とは関係なく私の心に沈んだ黒い鉛のようなものは、いつまでも消えませんでした。「キリスト教の国のアメリカが、何故浦上天主堂の上に原爆を落としたのか???」。神も仏もありません。キリスト教はそんなにも無力なのでしょうか?

最近、キリスト教はある場合には全く無力だという確信を持つようになりました。悪魔の乗り移ったアメリカ空軍には全く無力だったのです。私は悪魔のような所業をする人間を遠くに見やって、イエス様だけを見つめる決心をしました。原爆を落とした罪は憎みますが人は憎まないという心境になりました。

昨日の新聞記事がこの文章を書せてくれました。長崎のカトリックの高見さんという大司教が原爆で焼け焦げたマリア様の像を持ってバチカンのローマ法王へ見せたのです。ドイツ出身の法王ベネデクト16世はその意味を理解しています。マリア様の像に祈りを捧げてくれました。それだけの短い新聞記事でした。昨日の読売新聞の小さな記事です。小さな写真も出ています。

ローマ法王は悪魔のような人間の罪を、神が マリア様が許してくれるように祈ったの違いありません。この新聞記事で私の心の中の黒い鉛の塊も解けて無くなったような気分になります。これで私も平穏な気持で死んで行けるような気分になりました。

今日は、皆様がいつも平穏はお気持を持っているようにとお祈りいたします。藤山杜人


三輪修画伯の独自の画風の確立への苦悩

2010年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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  上の絵の出典は、http://ameblo.jp/miwa-art/entry-10098717668.html で、下の絵の出典は  http://mujika.jp/miwa/miwa-tenji.htm です。上は1975年作の自画像でピカソ風のキュビズムの絵画です。17歳の時の本格的油彩画です。いきなり中部白日会賞を受賞しました。

下は1994年の作で、「果物と貝」と題する絵です。平凡なように見える静物画ですが、良く見ると息を飲むような感動を覚えます。丁寧に、丁寧に色を重ねて何か月もかけて完成したような感じを与えています。三輪修画伯の作品は、http://mujika.jp/miwa/miwa-tenji.htm に年代別に掲載してあります。私はどの絵も好きです。全ての絵には存在感があります。存在の向こうにあるものが見え隠れしています。あの世の風景でしょうか?希望の光輝く世界でしょうか?深い悲しみの世界でしょうか?見るたびにその光景が変わります。

4月9日に名古屋日動画廊で彼の個展を見に行った時、聞いてみました。この独自の画風の確立に苦労なさいましたか?彼は携帯電話を取り出して処女作を見せてくれました。後でメールに添付して送ってくれたのがこの自画像です。そして話してくれました。毎日のように画風を変えて描いていました。それは苦悩といえばそうですが、後から考えると懐かしい苦しみです。そして十数年前に現在の画風を確立したのです。

彼の作品のHPは1992年からの同じ画風の作品が年代順に出ています。きっと1992年前後に画風を確立することに成功したものと思われます。

この画風にこだわっています。変えるつもりはありません。(私はおめでとう御座いますと言いたかったのです。しかしその言葉を飲み込みました。軽々しい言葉は言うべきではないのです)。

三輪修画伯には画家としての勇気があります。思想があります。節操があります。抜群の眼とテクニックもあります。まだお若いのでこれからもっともっと傑作を描くでしょう。そして必ずや日本の絵画の歴史に名をとどめる人であると信じています。(終り)


独自の画風を確立するための画家の苦悩・・・安井曽太郎の場合

2010年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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◎没後50年・安井曽太郎展を観て

水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示された。浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されている。

全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせる。

どの時期の作品でも、とにかく抜群に上手である。と言うと、一緒に行った家内が「上手なのは当たり前です。そんな誉め方をするのは芸術家に対して失礼です」と怒る。しかし、浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は「上手だ、すごく上手だ。一流の画家になれる」と誉めたに違いない。本人もその気になって18歳の時パリへ渡る。

後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描く。特に裸婦のデッサン力、深みのある陰影はとても東洋人の絵画とは見えない。セザンヌの作品といえばそう信じられる。

ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱である。パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまう。私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれない。見ているうちに苦しくなってくるのだ。

       @独自の画風の確立

独自の画風を確立するまでの帰国後数年間の模索と深い思索こそが、曽太郎独自の芸術を生んだ。西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能である。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能である。しかし安井氏はそんな浅薄なことはしない。浅薄な作品ではないが、絵全体として何か緊張感が弱い。

東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはない。ところが、昭和初期の少女像、玉虫先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されて行く。セザンヌからの卒業、日本画ではないオリエンタルな精神性を背景にした表現は独創的な画風を生んだ。

昭和9年の「金蓉」と題した中国服を着た婦人像が最高の傑作と言われる。女性の強さ、美しさが伝わって来る。横長の大きなキャンバスに描いた外房風景。強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いている。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示している。風景が美しいだけではない。漁師の生活そして人生を描いている。薔薇・果物を重厚に描いた静物画にも氏の誠実な心が表れている。深い余韻を感じさせるのも、研鑽を重ねた技量のおかげである。

安井曽太郎の昭和25年の「孫」と題した少女像も傑作である。かろやかなこの絵は少女のパーソナリテイーを浮き彫りにし、その後の人生を暗示している。もし「玉虫先生像」、「金蓉」、「外房風景」、「孫」など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解されない。才能豊かなある東洋人が西洋の芸術を受容して帰国。その脱却と独自の境地の確立に苦悩したすべての時期の作品を展示することが重要である。没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心する(終)

脚注:上記の文は2007年11月17日掲載の「外国体験のいろいろ(6)」を改訂したものである。次の掲載記事、「三輪修画伯の独自の画風の確立への苦悩」に関係する内容なのでここに掲載しました。次の記事とおわせてお読み頂ければ嬉しく思います。


世界から好かれている日本・・・嬉しいです!

2010年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

読売新聞の4月19日の一面で日本の国際的な評価の報道がありました。英国のBBCと読売新聞が昨年11月から今年の2月にかけて、面接や電話で29977人から回答を得た結果を集約したのです。

「日本は世界に良い影響を与えている」という評価は53%で、「悪い影響を与えている」の21%を大きく上回ったのです。一番良い評価を受けたのはドイツで2番目が日本と欧州連合(EU)でした。一年前の同じような調査では一位がドイツで、それに続いて英国、カナダ、に次いで日本でした。悪い影響を与えている国々はイラン、パキスタン、イスラエル、北朝鮮などです。

こういう調査はその調査方法で結果が左右されるので、そのまま信用出来ない場合が多いものです。それにしても嬉しい結果です。

外国旅行をしたり、そこに住んでいると日本人が尊敬され、好かれていることが肌で感じることがあります。私個人の経験では、1980年頃の高度成長期から、そのような実感が得られるようになりました。

しかし当時は日本が安くて品質の良い工業製品を大量に世界へ供給し始めたからです。その後1990年に日本は長い経済不況に陥ります。それでも日本への評価が高いのは工業製品のお陰だけではないのです。

その原因を深く考えると、「日本人の個人、個人」が外国で立派な仕事をして来たからという確信に至りました。立派な仕事は海外ボランティア、学者や芸術家、などのあらゆる分野で行われて来たのです。実例を上げればキリがありません。

そこで最近知った身近な例を2つだけ上げてこの随筆を終りにしたいと思います。

私の住んでいる小金井で育ったロイター通信日本支局のカメラマン村本博之さんがタイのバンコックでデモの鎮圧隊に撃たれて殉職しました。報道に携わる多くの日本人が海外で殉職しているのです。例えばベトナム戦争中の1970年から1975年にかけて報道関係者が合計37人死んでいます。その中で日本人が10人も含まれているのです。沢田教一さんや一ノ瀬泰造さんの名を覚えている方も多いと思います。命を賭けた日本人の報道関係者の活躍は尊敬されるものです。

日本人の評判を上げる個人的な影響で、見落されがちなものに輝かしい女性の活躍もあります。例えばイタリア人と結婚してローマ帝国に関する本を多数出版している塩野七生さんなどがその例です。そして、その他にヨーロッパのオーケストラやオペラ界で活躍している日本人女性も多数居ます。

しかし私がネットを通して身近に知っている平凡な主婦の影響も大きいと考えています。先日このブログでご紹介したモンタギューさんはアメリカ人と結婚してアメリカの高校で日本語を教えています。生徒には白人も黒人もアメリカ先住民もいます。生徒は皆、モンタギュー先生を尊敬し、日本文化が好きな様子です。詳しくは、日本の文化を勉強しているアメリカの高校生達の素晴らしさ をクリックすると出てきます。

日本人の女性が外国人と結婚し夫や子供に愛されることが、回り回って日本の評判を上げるのです。この効果は派手ではありませんが、何代にもわたって外国人の心の奥底に棲みついて行くのです。趣味人倶楽部で3月21日に発表した英香さんの遺書に関するしみじみとした日記を読むと、こんな感想を持つことが出来ます。(趣味人倶楽部:http://smcb.jp/_pr00?oid=112716

勿論同様のことは外国人の女性と結婚した日本人男性にも言えることです。

このように個人の生き方が積り積って日本の評価を上げているのです。こんな結論を言うのは間違いでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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上野の山の八重桜の写真、そして2つの展覧会の案内

2010年04月21日 | 写真

今日は朝から初夏のような陽気です。上野の山に2つの展覧会を見に行きました。細川家の至宝・特別展と法隆寺宝物館常設展示会です。

細川家の至宝・特別展は4月20日から6月6日まで東京国立博物館平成館で開催中です。熊本の細川家の代々が蒐集した武具、書画、焼き物、などなどが分類展示されていました。大名家の富はケタ違いと今更ながら驚きました。歴史的に有名な武将や書家の墨跡の実物が展示してあります。第二次大戦で熊本も空襲にあい、市内は焼け野原になった筈です。よくぞこれだけ多量の貴重な品々が焼けずに残ったものと感慨無量でした。

さて平成館と同じ敷地に法隆寺宝物館があります。明治11年に奈良の法隆寺から皇室へ献納され、国へ移管された仏像や宗教祭具です。7世紀の飛鳥時代のものが大部分です。飛鳥時代の金銅製の仏像が数十、ずらいと並んでいる光景に息を飲みました。光背や香炉、その他の仏具はほとんどが飛鳥時代のものばかりです。遣唐使がはるか唐の都から持ち帰った仏像や仏具も数多くあります。

飛鳥時代の人々が仏教へよせた熱い情熱が伝わってきます。常設展示なのでいつでも観覧できます。法隆寺へ行かないと飛鳥佛は見られないと思っている人が多いかも知れません。明治11年にこんなに多量の飛鳥仏が皇室へ献納されたとは驚きでした。いずれの展示会も撮影禁止でしたので上野の山の八重桜の写真をお送り致します。写真は家内が撮りました。一葉(イチヨウ)、普賢象、楊貴妃などです。修学旅行の女子中学生が外国人のカップルに頼んで記念に撮って貰っている光景が可愛いかったので。

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江戸時代から有名だった田島ケ原の日本サクラソウ自生地を訪ねて

2010年04月21日 | 写真

日本サクラソウは江戸の人々に愛されてきた花で、さいたま市、荒川沿いの田島ケ原が自生地として国指定の天然特別記念物になっています。

毎年4月になると可憐な花が咲き出します。花の色は淡い桃色で、咲いているのを恥じているように草の陰に隠れています。楚々とし、控え目な風情が日本人の美意識に合致しているようです。栽培し品種改良されたものは沢山ありますが、原種の素朴な良さは捨てがたいと眺め入りました。

日本サクラソウは花屋さんで鉢植えのものを何度も見ました。しかし、自生地に他の草葉に混じって静かに咲いているのを見て、実に日本的な美しさに感動しました。サクラソウを見ながら、1時間も田島ケ原を歩き回りました。

撮影場所;さいたま市荒川沿いの秋が瀬公園南端のサクラソウ公園 田島ケ原にて、

撮影日時:4月20日午前11時から12時。

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