今日は全国的に吹雪や曇りの本格的な冬の寒い日です。こんな日にはタイに住むGAKUさんのブログ、http://gaku404.exblog.jp/ を開けて、明るい南国の写真を楽しむことにしています。今日は目の覚めるような美しい花の写真を見つけましたので2枚だけご紹介いたします。GAKUさんのブログにはもっともっと沢山の目が醒めるような写真があります。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。
近代工業の発達が都市生活を豊かにしました。辛い農業や漁業を捨てて都会に出て来て暮らす人々が増えてきました。日本の辺境から都会が人口を吸い取ってしまったのです。私の住んでいる所から一番近い吉祥寺の繁華街へ行くと何時も人々が溢れかえっています。若者の働く店店が沢山あります。下の写真をご覧下さい。
明治維新以後、日本の産業は農業や漁業から近代工業へと次第に変わって行きました。何故過疎地や廃村が出来るか?その原因を考える前に、縄文時代からの日本の人口の変化を見てみましょう。(下の図の出典:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/ )下の不鮮明は図面はクリックし、拡大すると鮮明になります。
縄文時代から人口は緩やかに増加し、関ヶ原の戦いの頃には1227万人、江戸時代に増加して、3330万人になりました。明治維新以後は爆発的に増加し、2006年にはピークに到達します。史上初めての1億2693万人になり、その後は急速に減少し始めます。
さて過疎地が出来、廃村が出来始めたのは何時からでしょうか?
それは1970年頃からです。前回ご紹介した八丈島の離れ島、八丈小富士の小学校が閉鎖されたのは昭和44年、1969年でした。その頃から山奥や離島の学校が閉鎖されています。
日本人の人生観がこの頃から変化し始めたので。「先祖代々の土地に住む幸せ」という人生観が変わったのです。移住と転職をすると豊かで幸多い人生になると信じる人々が急速に増加したのです。
その証拠はお寺にある先祖代々のお墓へ入らないで自分用のお墓を作る人が1970年頃から増えた事でも分かります。立派な古民家が川崎市の古民家園へ多数移築されたのは昭和42年(1967年)から昭和47年(1972年)にかけてです。先祖代々の立派な家を川崎市へ寄付しているのです。
日本人が先祖の束縛から解放されたのです。土地へ執着しなくなったのです。単に産業構造が変化したから廃村が出来たという理解は単純過ぎます。それでは何故1970年前後に日本人の価値観や人生観が大きく変わったのでしょうか?次回以降に説明をしたいと存じます。(続く)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
自分の故郷が廃村になって消えてしまう。幼馴染と遊び回った故里。家族と共に過ごした楽しい思いのこもった家が朽ちて無くなってしまう。日本全国に打ち捨てられた古里が沢山あるのです。1970年頃の高度成長で廃村が急増しました。人々はそんな事を忘れてしまったのでしょうか?
2年ほど前に八丈島へ行きました。見ると沖に八丈小富士という離島があります。昭和44年までは小学校や中学校があり2つのがあったそうです。牧畜や漁業で生計を立てていたのです。それが完全に廃村になっていると聞き、急に訪問して見たくなりました。失われた時を探したいと思ったからです。下に八丈小富士の島を示します。2年前に撮った写真です。
この美しい島に渡るには船が必要です。人の住んで居ない島へは定期船などありませんでした。心を残しながら帰って来ました。
ところが全国の廃村を訪ね歩き、写真を撮っている奇特な人が居るのです。浅原昭生さんという1981年生まれの青年です。廃村訪問記と写真が沢山掲載されたHP、「廃村と過疎の風景」http://www.din.or.jp/~heyaneko/haison.html を出しています。感動的な内容のHPです。
その中に八丈小富士へ船をチャーターして2度も訪問した時の感想文と写真があります。下に転載させて頂きました。
全国の廃村を根気よく訪ね、写真を撮って記録として残しているのです。かつてその村に住んでいた人々を偲びながら記録を残しているのです。
私はこの浅原さんの気持ちに何故か感動します。勇気が出てきます。そのHPには、仲間の人々が沢山紹介してあります。失われた時を探して、追憶の旅をする。良い趣味です。尊敬すべき趣味です。人間は前ばかり見ていないで、後も振り返る重要性を教えてくれているようです。(終り)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
昔は、楽しげに人々が集まっていた駅。いつの間にかその人々が消えてしまった。後にはポツンと立つ廃屋のような駅舎。失われた時を求めてそんな秘境駅を訪ねる人々が居ます。めったに停まらない普通列車の時刻をたんねんに調べ遥々旅して来た人々。
薄暗い駅舎に独り坐って昔、通学生や仕事旅の人々で賑わっていた様子を想像するのです。皆何処かへ行ってしまったのです。次に停まる列車までは長い、長い時間が静かに流れて行きます。何故か訳の分からない悲しみが旅人の身を優しく包んでいます。
楽しかった子供の頃。輝いていた青春。追憶がよみがえります。持参してきた柿の種をつまみならカンビールを傾けます。通過する列車が轟音を上げ、悪魔のように唸りながら通り過ぎて行きます。一瞬の出来事。そしてまた静寂がもどるのです。
秘境駅への旅は失われた時を探し迷う旅なのです。牛山さんのHPをあれこれ見て居ると何故か静かな気持ちになります。そうです。亡くなった家族や友人達への惜別の旅なのです。私にはそのように思えるのです。
下の写真は牛山さんが夏と冬に訪ねた留萌本線の「真布駅」の写真です。出典は、
最近、いろいろな不幸な事件が起きて、多くの人々が中国人を尊敬出来ないと言います。マスコミなどは中国を仮想敵国扱いのような勢いです。こんな時に、「私はやっぱり中国人が好きだ」と書いたら袋叩きに合いそうです。民主国家なので半分冗談として書ける幸せを噛みしめていますが。
中国人を心底好きになったキッカケは政府が禁止していた周恩来の秘密の追悼会へ連れて行かれた事です。それは1981年、北京のある秘密の地下室でした。
連れて行ってくれたのは北京鋼鉄学院の周栄章教授です。中国人がどんなに熱く周恩来を想っているか見て貰いたかったのでしょう。それ以来、私も周恩来が好きになりました。尊敬しています。中国人は政府の言う事を無視するのです。恩義のある政治家、本当に人々の幸せの為に身を投げうった政治家へ対する感謝の気持ちを忘れないのです。政府が禁止しても地下室で示す人間なのです。恩義を絶対に忘れない人々なのです。それ以来、北京鋼鉄学院の周栄章教授の変わらぬ友情を頂きました。今日はもう一人の中国人の友人をご紹介したいの想います。上海で1961年に生まれ上海科学技術大学を卒業した張 輝 さんの事です。1988年に日本に来て立教大学で博士の称号を貰いました。数年前に東京で日中の間の架け橋になろうとあるベンチャー企業を作った人です。
このような事を書くと顰蹙を買いますが、私は上海の人々へ対してある種の偏見を持っていました。北京や瀋陽のような北方の中国人との付き合いが深かったので上海や南方の中国人へ対して距離感を持っていました。もっとはっきり書けば理由も無く嫌いでした。その私の偏見を見事に打ち破ってくれたのが上海生まれ、上海育ちの張 輝 さんです。
数年前に張 輝 さんが日中の間のビジネスを支援するベンチャー企業を立ち上げた頃お会いし、知り合いになりました。才気煥発で、とても優秀な人です。新しいタイプのビジネスを立ち上げようとしていました。その卓越した独創性に魅了されました。
感動した私はその仕事をほんの少しだけお手伝いします。日本のある大企業から張さんの会社へ注文が入るように橋渡しをしたのです。結局あまり大きな発注にはなりませんでした。
その頃の私の仕事は経済産業省のベンチャー企業の支援事業のほんの一部を受け持っていたのです。数多くのベンチャー企業が無事育つように色々なことをしていました。張さんの会社へした事もその一環で、数多くのベンチャー会社へ同じような事をしていたのです。別に恩義に思って頂く程のことではありませんでした。
ところが何故か張さんは恩義を感じたらしく、それ以来何年もなるのに礼儀正しくお付き合いをしてくれています。
才気煥発で頭の良い人は人情が無いと言います。そんな言い方を昔から何度も聞いて居ました。眼から鼻に抜けるような明晰な人とは永いお付き合いが出来ないと思い込んでいました。上海生まれの張さんもそのような人と思っていた私は、文字通り浅はかでした。軽率でした。死ぬ前にその事に気が付いた幸運に感謝しています。
余談ながら張 輝 さんが起業し、成功させた会社のHPは、http://www.tb-innovations.co.jp/link.11.htm です。このHPを一度ご覧頂ければ嬉しく思います。下に張さんの写真を示します。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
「秘境駅へ行こう」(http://hp1.cyberstation.ne.jp/hikyoueki/index.html )というHPは実に興味深いものです。広島県の牛山隆信(42歳)さんが全国の秘境駅を実際に歩き回って、その写真を多数掲載したHPです。何故、そんな所に鉄道の駅があるのか不思議な所ばかりです。駅の名前をクリックするとその駅と周辺の写真が出てきます。兎に角、鉄道以外にその駅へ行く道がないのです。しかし存在する理由があって存在しています。その理由が実に面白いのです。
先日、このブログでご紹介した「社会実情データ図録」を作った本川裕さんが、牛山さんのHPを引用して「秘境駅ランキング図表」を作っています。
以下に、本川さんの解説文を抜粋して示します。(本川さんからメールを頂いて転載の許しを頂いています)
========本川さんの解説(抜粋)=========
牛山さんが秘境駅にひかれはじめたのは1997年。その後、99年にホームページを開設し、著書や写真集も出したため、秘境駅ブームの火つけ人となった。
「開国後の日本をつくったのは鉄道。先人が培った土木技術で線路は山を貫き、繁栄を広めた。秘境駅はその遺産。「なぜここに駅があるのか」と想像し、たくましく残った駅舎を見ていると元気になれるんです」と牛山さんはいう(東京新聞2009.4.19)。
秘境駅ブームで乗降客が増えているところもあるそうだ。例えば、牛山さんがかつてここを訊ねた時、近づく野犬の遠吠えに棒を握ったことを覚えている「尾盛駅」。駅への車道はおろか歩道もないという。その大井川鉄道「尾盛駅」(静岡県川根本町)は毎年乗降客が増えています。
========終り===========
ここで牛山さんが飯田線の「小和田駅」を訪問し、一泊した時の文章と写真をご紹介します。
電車はゆっくりと闇の中を進み、やがて素彫りのトンネルを抜け、22:53を少し廻った所でようやく目的の小和田駅へ到着した。車掌氏に礼を言をいうと、彼の吹く笛の音と
ともに発車して行き、私一人が暗闇のホームにポツン取り残された。そう、この界隈は今夜、私だけのテリトリーとなった。さて駅の様子は…と 懐中電灯を付けて辺りを
散策する。本当に凄い!なんという静寂感だ!さらに古い駅舎が人里離れた秘境の魅力を倍加させている。これぞ「真の秘境駅」と言わしめたる所以である。
深夜の散策を終えて気が付くと空腹になった。そこでインスタントのヤキソバを食べていると、23:35頃に突然一切の電気が落ちた!「ヒェェェェェー」 もう真っ暗!
光るものは公衆電話の使用可を表示する赤いランプと、外で赤く灯る鉄道の信号機だけなった。さすがに少々ビビッたが、慌てずオイルランタンに点火する。改札口の方
は扉が無く、おびただしい数の虫たちが小さな光に集まる。そしてラジオをつけながら、長椅子の上に寝床をセットししばし佇む。外は満天の星空で虫の声だけが辺りに
響いていた。そのうち睡魔が襲ってきたので、目覚まし時計をセットして深い眠りに着いてしまった。
翌朝、自らセットした時計のアラーム音で起こされ、明るくなった外へ探検に出発。以下省略。下に駅近辺の写真を示します。
私は特に鉄道マニアでもないし、秘境マニアでもありません。しかし牛山さんのHPから全国の秘境駅の写真を見ていると日本の広さや不可思議さんがしみじみと分かります。
豊かな想像力さえあればこんな面白いHPは無いと思います。皆様もお楽しみ頂ければ、嬉しく思います。(終わり)
明治維新以来、日本人はフランスの文化へ憧れ、ドイツの科学を尊敬して来ました。しかしこの両国は犬猿の仲だったのです。
それが最近、ドイツとフランスが恩讐の彼方の境地に至ったのです。
ドイツとフランスが共同で一旅団の軍隊を作り、335人のドイツ兵がフランス領のストラスブルグに駐留し始めたのです。かつての敵同士が共同で一旅団の軍隊組織を作り、お互いに国境を越えて駐留しはじめたのです。
日独伊三国軍事同盟を組んでドイツと共に第二次世界大戦に参加した日本人の一人として感無量です。感動しています。
ヒットラー軍がフランスを席巻し、パリーを占領していたのは70年前です。
私がドイツに住んでいた40年位前にはドイツはフランス文化のいい加減さを見下していて、フランスはドイツの野蛮さを見下していました。通貨もマルクとフランと別れていて国境を越えてフランスへ入るとマルクでは買い物も出来ず、緊張したことを覚えています。
当時はシュツットガルト市に住んでいたので、その西にあるストラスブルグへはライン河を越えて時々遊びに行きました。フランス人の冷たい表情に会い、早々にまたライン河を渡って帰って来た事を思い出しました。
そのような地にドイツ兵がフランス兵とともに駐屯し始めたのです。
ドイツとフランスの共同の旅団規模の軍隊組織は1993年に創設され、これまではフランス兵がドイツ国内に駐留してきたのです。これは第二次大戦で米軍とともにドイツを占領したフランス軍が駐留を延長したようなもので驚く事ではないのです。
その反対にドイツ軍がフランスに駐屯することは出来ませんでした。ところが最近、ドイツ軍がフランスに駐屯し始めたのです。
ドイツとフランスが恩讐の彼方の境地に至ったのです。
下の写真はWikipedeaの「ストラスブール」の項目から転載させて頂きました。
またいきなり話は飛びますが、尖閣諸島問題や延坪島砲撃事件に続いて、米韓共同演習や日米共同演習のニュースが報道されています。その結果、軍事力が平和維持にとって非常に重要な一要因であることを多くの人々が認めるようになったと思います。
そこで私は韓国と日本が共同の一旅団を編成することを提案したいと思います。その後で、陸上自衛隊の隊員が釜山市郊外の基地に駐留するのです。このような共同部隊の存在は北朝鮮や中国へ対する強い戦争抑止力になると信じています。極東地区の平和維持へ大きな貢献をするものと信じています。
今日は韓国と日本が恩讐の彼方に至る日がいつか来る事を心からお祈り致します。藤山杜人
=======noga さんからのコメント========
日本語には、時制が無い。
だから、日本語脳では、現実と考え (非現実) の内容を区別できない。
一部の人が考えているように、何処の国の人も考え方は同じだ、と私は考えていない。
私は、我が国の知識人は、英語による正しい考え方をも学ぶべきだと思っている。
東京都、府中市の北の部分にカトリック墓地があります。お世話になった神父様が眠っている所なので家内と一緒に時々墓参をし、そして墓地の中を静かに散策して来ます。波濤万里を越えて日本へ来て日本の土になった神父やシスター達の冥福を祈りながら散歩をします。カトリックの信者でなくても、そんなお気持で散歩されることを故人は必ずや歓迎していると思います。是非御出掛け下さい。門はいつも開いています。
下の写真は東京大司教区の亡くなった神父様達の合同のお墓です。1971年に立川教会で洗礼を授けて下さった塚本金明神父様の名前も刻みこんであります。堅信式のために立川教会まで来て下さった白柳大司教様のお名前もあります。土井枢機卿のお名前も、そして小金井市桜町病院を創立した戸塚神父様の名前もあります。
次の写真の右の木の十字架墓は小金井教会の初代主任司祭だったヨゼフ・ムニ神父様のです。1975年に着任して1988年に小金井教会で病気になり64歳で亡くなりました。私共の家にも何度か来て下さいまして、特にお世話になったアメリカの神父様でした。
来日以来めったにアメリカへは帰りませんでした。お葬式には弟妹様が来てくれました。日本の土になってしまいました。
このカトリックj墓地には美しい墓石があちらこちらにあります。
これも一つの例です。
聖パウロ修道会の共同墓です。
墓地を歩いていると悲しい思いをします。お寺の墓地でも、このカトリックの墓地でも戦争で死んだ息子の墓を遺族が大きな石で作っているのです。
子供も持つ親として、息子を若くして戦死させた事を嘆く気持ちが身に沁みます。
大きな墓石は遺族の慟哭です。水野正二郎少尉は昭和14年、中国で戦死しました。
彼は11歳で渡米し、アメリカとヨーロッパでヴァイオリンを修業し、時々帰国しましたが海外で輝かしい演奏活動をしたのです。奥様はオーストリア人でした。娘の鰐淵晴子は美しい女優で、トニーザイラーとスキー映画に共演しました。
偶然そのロケ風景を山形、蔵王のザンゲ坂で見たのを思い出しました。
墓地を散策するのは私の趣味の一つです。今日は東京都の府中市にあるカトリック墓地をご案内しました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り
宗教を信じるのも、信じないのも個人の勝手です。どちらでも良いのです。特に日本では無宗教がインテリの証のように思っている人が多いので「私は無宗教です」と言っても人格を疑われることはありません。しかし一歩外国へ出ると、この言葉を軽率に口にするのは禁物です。その証拠になるような図面を下に示します。
神様の存在を信じている日本人は35%位で世界で最低のレベルです。他の国々では神を信じている人が圧倒的に多いのです。ですから不用意に、「私は神を信じて居ません」と言うと人格を疑われる場合が多いのです。この図表の出典は、社会実情データ図録:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/です。クリックして拡大すると鮮明になります。
この図の下半分は死後の世界の存在を信じているか否かの統計です。日本は40%位の人が存在を信じていて、50%以上が信じていません。
この2つの図をあれこれ注意深く見ているといろいろが興味が沸いてきます。
一番徹底して神を信じ、死後の世界を信じているのはエジプト、ヨルダン、イラン、インドネシアなどのイスラム教国です。そして米国ですら90%以上の人が神の存在を信じています。ですから外国へ一歩出たら、「神を信じません」と言うと喧嘩を売ったと誤解されがちなのです。
この図面を見て、2つの問題を思いつきました。
(1)この統計は西暦2000年のものですが、明治維新の前の江戸時代に統計を取ればどうなったか?
お釈迦様を含めて、神仏の存在を信じている日本人はきっと90%以上になったのではないか?
(2)上の仮定が正しいとしたなら何故明治維新以後、日本人は宗教を信じなくなったのであろうか?
(1)はあくまでも仮定ですが、多くの日本人はこの仮定は正しいと思って下さると思います。
(2)に書いたように明治維新以後、宗教心が無くなったのは何故でしょうか?
私は明治政府以来の文部省の指導する学校教育で宗教を無視した教育を連綿として来た結果であると信じています。
文明開化とは欧米の科学・技術や合理主義を急いで取り入れる事と考えたのです。廃仏毀釈や迷信・俗信の排斥だけでなく、学校教育では宗教は非合理なものとして排斥した来たのです。世界の宗教事情を客観的に正しく教えて来なかったのです。
欧米の科学・技術は急いで輸入しましたが、宗教や精神文化の輸入は熱心ではなかったのです。その結果、知識階級とは「宗教を信じない人」という狭量な理解が世の中に普及してしまったのです。「私は無宗教です!」と誇らしげに大声で言う人が居るのはそのせいと思います。無宗教を誇らしいげに自慢出来る国は日本だけです。
私の言いたい結論を書きます。日本の欧米の文化の輸入は科学・技術に偏りすぎています。バランス良く公平に欧米文化を理解し、取り入れるほうが正しい姿勢と信じています。日本が富国強兵になろうと努力した時代は終わったのです。
もっともっと深く、外国の、とくにイスラム諸国の文化を含めて理解し、お互いに深い絆で結ばれることが望ましいのです。戦争を避けるために望ましいのです。もっともその一方で適切な軍備をととのえる事も現実問題として重要です。深い相互理解と強力な抑止力の両方があってこそ平和が存続できると信じています。
今日は日本の平和が何時までも続くように、全ての政治家や官僚が努力されることをお祈り申し上げます。藤山杜人
日本語には日本語 (日本流) の考え方があり、英語には英語 (英米流) の考え方がある。
だが、外国語を知らない人は、自国のことも理解できないであろう。
日本人は、現実と非現実を区別無く話す。
だから、内容が空理空論となる。綺麗事というのかな。
この現象は、我が国の知識人に多く見られる。
考えの内容は非現実であるから、日本流の学問を長年するとそうなりやすい。
だが、英米人は、現実と非現実を区別して日本語を使って話す。
だから、日本語自体に、文法上の欠陥があるわけではないように見える。
だが、じつは、これは誤りで、彼らにも日本語では現実・非現実は分けて話せない。
英米人は、英語で考えた話の筋をただ日本語に載せて話しているだけである。
英米式の教育を受けたものなら、その程度の話で筋を理解できる。
だから、優秀な日本語に見える。が、日本語では現実・非現実は分けて話せるはずはないのである。
言葉で分けられなくても、頭で分けている。
日本人は、英米人の考えが理解できない。
だから、勝手な解釈をする場合が出てくる。英文和訳の名訳も、じつは迷訳であったりする。
これと裏返しの状態が、英米人にも日本語を使って話すときに起こっている。
彼らの考えは、日本語ではこうなるものと思い込んで話している。
これは、英米人には通じても、日本人には通じない。
日本人は、日本語を正しく解釈するからである。
自分の思い込みと相手の思い込みが国際間で生じて相互不信が発生する。これが、危険の種になる。
桃の中から男の子が生まれた話も、処女が懐妊する話も単なる駄洒落に過ぎない。
非現実の内容は現実離れをしているので実感がわかない。それで、日本人には、信じることが難しい。
「おおかみと七匹の子ヤギ」の話の中では、食べられた六匹の子ヤギが狼の腹の中から飛び出してきた。非現実的であって、面白い。だが、子供達にこの話を聞かせる大人は、単なる暇つぶしにこの話をしているのではなかろう。
馬鹿馬鹿しいお笑いなどではない。この話には意義がある。これと似たような意義が聖書の中の話にも沢山ある。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<リアリティの管理>の中で下記の段落のように述べています。
融通性に富み、相対的で、話し合って決めることができる日本の真理。あり余るほどあるとされる理屈。強靭な知的伝統の欠如。管理者 (アドミニストレーター) への法の屈従。無節操を受け入れるどころか賞賛すること。これらのすべてがいうまでもなく、互いに原因となり結果となって絡み合っている。これらは、日本の力の行使におけるもっとも重要な決め手であると筆者が述べた論点を強めている。すなわち超越的真理や普遍的価値に訴えるという伝統の欠如である。現存する他の文明においてはみな、社会・政治的な関心を超越した真理の存在を認める宗教や思想体系を発達させてきた。しかし、日本では神道も仏教も役に立たなかった。(引用終り)
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿 noga | 2010/12/12 17:50