後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

福島原発の現状と今後の危険・・・冷温停止成功は原発収束への大進展!

2011年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

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写真は6月19日の現場で、出典は、http://blog.goo.ne.jp/bibbly/e/e032193d138a0efbe254e3a2237c7821 です。

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(この爆発当時の写真の出典は毎日新聞:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110317-00000003-maip-soci )

今朝の新聞に福島原発で冷温停止に成功したというニュースが一面に出ていました。本当なら原発の収束への道の転換点になるほどの大成功です。

3月の爆発の後、福島第一原子力発電所の1号機から4号機まででは外に漏れた汚染水をとりあえず循環し炉心を冷却する応急処置をして来ました。

フランスとアメリカから急遽輸入した循環式の汚染水の浄化装置を繋ぎ合わせて冷却水を送っていますが、この循環装置の作動が安定せず苦戦していたのです。

最近は東芝製の新しい浄化装置も加えて冷却する新作戦も始めましたが成功のめどは不明で、私は暗然たる気持ちで見守っていました。

何時になったら炉心の圧力容器の中が100度以下になって、放射能物質を含んだ蒸気が止まるのかが大問題です。それが解決しないうちは原発の収束の見とうしも立ちません。なにせ、現在でも放射性物質(セシウムとヨウソ)の粉末や放射性物質を付着した蒸気が放出されているのですから。

ところが2、3日前から圧力容器の中へ緊急冷却用の配管を使って冷却水を燃料棒へ散布する事に成功したのです。1号炉と3号炉で成功し、炉心温度が100度以下になったのです。

これで炉心の水の沸騰による放射性水蒸気の放出は止まったようです。1号炉と3号炉の周辺放射線量が格段に下がったという報道もありました。こうなると、残った2号炉も緊急冷却用の配管を使って冷却水を燃料棒へ散布する事に成功するのは時間の問題になります。間もなく2号炉も安定した冷温状態になると思われます。

これは大変大きな進展で、爆発した原発炉の冷温安定の実現にとって大変明るいニュースです。

ここで福島原発の現状と今後の危険をもう少し詳しく考えてみたいと思います。

3月11日の大津波で全電源喪失になった福島原発の4つの炉が水素爆発をして多量の放射性セシウムを吹き上げました。

この爆発で3つの原発の炉底が熔け落ちて燃料棒が流れ落ちたのです。

そして建屋も吹き飛ぶほどの大爆発で原子炉の炉心へつながる数十本の配管と、地下構造物に無数の割れ目が出来てしまったのです。

その後、緊急に炉心近辺の冷却のために注水した多量の水が汚染水となり原発工場の周辺や地下へ漏れ出したのです。こうなると密閉式循環装置は機能せず、まさしく手のつけられない状態になってしまったのです。

そこでとりあえずフランスとアメリカから汚染水の浄化装置を購入し、外に漏れ出した汚染水を集めて、浄化し、炉心への注水に使い出したのです。炉心の外側から注水しているので炉心の中は100度以下になりません。炉心では相変わらず汚染水が沸騰し、放射能を持った蒸気が毎日、空へ放出されていたのです。

ところが最近やっと炉心の内部へ直接冷却水を送る事に成功したのです。炉心が沸騰を止めたので放射能の放出が止まったのです。これで福島原発はもう安全なのでしょうか?

今後の危険はどのようなものでしょうか?まだまだ解決すべき問題が残っています。

(1)こわれた原発建屋を丈夫な壁と天井で覆い、空中への放射能漏れを完全に防止する仕事。

(2)原発の壊れた配管や地下の床の割れ目を完全に密閉して汚染水が外に漏れないようにする工事。

(3)工場内の高濃度汚染土壌が風で近隣地域へ拡散しないように除染する仕事。

(4)数十年後に炉心の燃料棒を安全に取り出す仕事。

どれもどれも気の遠くなるような長時間の要する危険な仕事です。

このように大きな代償を払ってまで何故、原発を推進すべきだったのでしょうか?

戦後の日本の社会の有り方へ対する深い、深いため息が出ます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

藤山杜人

・・・・・・・・・・・参考資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

福島原発の現状は:http://www.47news.jp/47topics/e/201888.php にあります。

外付け循環冷却装置の不安定な作動状況は:http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/nuclear/news/20110916k0000m040121000c.html です。


大津波の動画集と福島原発の爆発の動画集

2011年09月20日 | うんちく・小ネタ

大津波の動画集:http://youtube-shocking.sblo.jp/article/43900370.html に御座います。

大津波の被害状況の写真集は、http://shi.na.coocan.jp/tohokukantodaijisin-1.html にあります。http://www15.plala.or.jp/HF-photo/newpage2.html にもあります。

福島原発の大爆発の動画集:http://www.youtube.com/watch?v=zWVEhjl53I8 をご覧下さい。福島原発の爆発状況の静止画は、http://acidcow.com/pics/18237-damaged-fukushima-dai-ichi-nuclear-power-plant-40.html です。

子々孫々へ伝承するようにしたいと思っています。藤山杜人


お彼岸の墓参りに行ってきました

2011年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は秋のお彼岸の入りです。今朝から急に涼しくなりました。

府中のカトリック墓地に眠っている塚本金明神父さまとムニ神父さまのお墓参りをしました。カトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまから洗礼を受けました。その後5年間お世話になりました。一番上の写真は東京大司教区の亡くなられた神父様達のお墓です。イエス様の像の下の黒い大理石の神父様達のお名前が刻んであります。塚本金明神父さまのお名前も刻みこんであります。享年72歳でした。

次の写真は1975年からカトリック小金井教会の主任司祭をされていたムニ神父様の質素な木の十字架のお墓です。15年近くお世話になりました。

アメリカから神父として日本に来て、日本の土になった方です。情熱的な神父様でした。信者の家を一軒一軒訪問して指導してくれました。

お世話になった2人の神父様へお礼を言ってきました。

2人の神父様の墓参りの後で日野市のお寺に行きました。家内の両親、祖父母そして先祖代々のお墓を掃除して花を供え、線香を上げてきました。家内の両親と祖父母には直接、何年間もお付き合いが出来ましたので懐かしい思い出が沢山あります。思い出を楽しみながら墓参りをしました。三番目の写真がその御墓です。

墓地の裏手には真っ赤な彼岸花が咲いていました。

墓参りは年間に4回くらい致します。何となく散歩のような気分で行きます。昔お世話になった方々の楽しい思い出と共に静かな時間を過ごします。

そうして日々が流れ行くのです。貴方様はお墓参りにいらっしゃいますでしょうか?どちらでも良いと思います。私は、散歩のような気軽な気分で楽しんでいます。

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大震災から6ケ月・・・お彼岸にあたってお祈りいたします

2011年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

3月11日の大地震、大津波そして福島原発事故から、もう6ケ月が経ちました。

今日は秋のお彼岸の入りです。

大津波で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

大津波でご家族を失った方々の心情を思うと悲しみに打ちひしがれます。

家や漁船や全財産を津波にさらわれた人々の落胆と心通を思う時、私の心も暗く氷りつきます。

この悲しみを全ての日本民族が子々孫々忘れないようにお祈りいたします。

そして不自由な避難生活をしている何十万人の方々の生活が一日も早く改善されるようにお祈りいたします。

3月から季節がめぐり、花々は毎年と同じように咲いています。その折々の花々の写真を供え、お祈りを深めたいと思います。

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秋の旅へのお誘い(7)宮島の厳島神社、秀吉の千畳敷、平家納経、焼き牡蠣、紅葉まんじゅう

2011年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム

広島市の西南約30kmに宮島があります。宮島口から船で渡ります。

平清盛が壮大な神社に改築し、そのままの形の美しい神社が残っています。国宝です。そして神社の奥にある宝物殿には華麗な平家納経が展示してあります。これも国宝です。神社へ仏教のお経を納めるのは神仏混淆ですが、当時は普通のことでした。

神社の建物の配置と海の景観が一種独特な雰囲気を出しています。浄土とか理想郷を表しているのかも知れません。

平家納経は見事な職人技で描かれています。繊細で華麗です。複製が展示されていますが、その複製も見事な絵画技術と美しい書体を示しています。

厳島神社の前の高台には秀吉が作った千畳閣の巨大な建物があります。完成する前に秀吉が死んだので未完成のままです。そしてその前に五重塔があります。

この丘から下って参道の商店街を歩きます。焼き牡蠣の味が絶佳です。この牡蠣については別の記事で詳しくご説明したいと思います。そしてお土産に紅葉まんじゅうを買いました。数多くの店が作っているので2個ずつ買って味を見て、お土産用に買い求めました。3時間くらいしか時間が無かったのでこのような観光コースで散策しましたが、もっと時間が有れば神社の向こうにある古いお寺へ行き、さらに後ろの山に登って厳島神社を俯瞰すると感動すると言います。

それはそれとして、以下に数枚の写真をお送り致します。

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撮影日:2011年3月26日と9月11日の2回の訪問で撮影しました。


秋の旅へのお誘い(6)白い壁の続く萩・・明治維新の人材を輩出した小さな町

2011年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム

吉田松陰は明治維新の思想的指導者でした。松下村塾でたった2年間教えただけで高杉晋作、伊藤博文、山懸有朋、木戸孝允などを輩出したのです。

近代産業の無い町なので江戸時代の街並みがそのまま残っています。松陰神社もありその境内には粗末な松下村塾の小屋がそのまま残っています。

倒幕思想の持ち主の吉田松陰は松下村塾から江戸へ運ばれ、斬首されます。享年30歳でした。取り調べ中に井伊大老の逆鱗に触れてしまったのです。

明治維新を指導した吉田松陰を祀った松陰神社には昭和天皇もその皇太子夫妻も参拝に来ました。現在の天皇家にとっては大切にすべき人なのです。

現在の萩は観光客だけが静かに訪れる小さな町です。時代に取り残されたような雰囲気の漂う町です。ただ白い壁だけが延々と続いていました。

時代の流れを感じさせる街です。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允、田中義一などの屋敷跡を囲む塀などの写真です。

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そして松陰神社と松下村塾の写真も下に示します。

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撮影日:2011年9月12日


日本人の宗教訓練・・・神社やお寺とのお付き合い

2011年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム

いきなり英語で恐縮ですが、宗教訓練とはReligious training の直訳です。

アメリカで履歴書を作る時この項目があったので不思議に思い、アメリカ人に聞いてみました。簡単な事でした。子供の頃、何年間くらい教会へ行ったかとか日曜学校に行ったかを書くそうです。

佛教国の日本から行った私は困りました。そうしたら、神社やお寺へ何年間くらい行ったかを書けば良いと教えてくれました。勿論、その項目を書かないで、ブランクにしても良いそうです。就職の時、宗教訓練の経験のある方が有利なそうです。採用担当者が経験上、宗教訓練のある者の方が会社になじみ、勤勉に働くと思っているそうです。

それ以来、Religious trainingは人生のキーワードになりました。訓練を受けたか受けなかったが問題にされるのです。信仰心が有るのか、無いのかは問題外なのです。

私の宗教訓練は父の実家の曹洞宗のお寺で幼少の頃からお経を読んでいた事から始まります。そして神社へ行ったらお賽銭を上げて拝むことをします。春秋のお彼岸にはお墓参りもします。お葬式にも出て、退屈なお経も辛抱して静かに聞いて居ます。それは現在でも続けています。

それはそれとして、35歳の頃、カトリックの洗礼を気楽に受けました。

その時、若い頃アメリカで知った宗教訓練(Religious training)の重要性が釈然と理解出来たのです。

洗礼を受ける前にドイツでカトリックの教会に通ったのも宗教訓練です。カトリックとご縁が出来たので洗礼を受けたに過ぎません。しかし、幼少の頃から受けた宗教訓練があったので何も迷わずに自然に洗礼を受けることが出来たのです。

しかし世の中はいろいろ、人それぞれです。宗教を重要と思っている人も居れば、全く宗教に無関心な人も多いのです。それで良いのです。先日、イギリス人のJackさんんが宗教に一切関心が無く、死んで行った話を掲載しました。立派な人生でした。さわやかに人生でした。宗教に無関心でもそのような人生も送れるのです。彼には単に、宗教訓練を受けるチャンスが無かっただけです。

私は一日に三度の食事の前に家内と食前の祈りを唱えます。一日に三回イエス様の事を思い出します。それも宗教訓練です。今日は日曜日なので、これからミサへ出掛けます。それも宗教訓練です。私に信仰心があるのか無いのかお聞きにならないで下さい。それは問題外なのです。少なくともアメリカの履歴書では問題にされないのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人

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上の写真は今朝の10:00時から11:00時までのミサの様子です。

説教台に立っているのがディン主任司祭さまです。南ベトナムで神学生をしていたとき北ベトナムに占領され、共産政権になりました。その後、ボートピープルとして日本へ逃れ、東京大司教区で神父になり、それ以来30年以上にわたって東京地区のカトリック教会の主任司祭として活躍しています。

ベトナム出身の神父様は珍しいので、ご紹介いたしました。


瀬戸内海・・・私の心象風景写真

2011年09月17日 | 写真

関東に住んで居る私は瀬戸内海をめったに見る機会がありません。いつも心の中で憧れて、勝手に風景を作り上げています。

9月11、12、13日に旅をして、私の心の景色と一致するような写真を撮ろうと苦心しました。広島空港へ近づいた飛行機から撮った写真と下関の火の山公園から関門大橋と門司方面を撮った写真が私のイメージにあうようでした。でも何か少し違います。次回に期待しつつ、以下に3枚の写真をお送りいたします。

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荒れる霞ヶ浦・・・雨に打たれながら舵を握る

2011年09月17日 | インポート

毎度、毎度同じような写真では申し訳ないと思い、今日は荒れる湖水の写真を撮って来ました。急に雨が降りました。濡れながら舵を握って早々に帰港しました。ぐるりと堤防の上を回っているうちに又晴天になり白い雲が湧きあがっていました。突風も吹き、セイリングには悪い天気なので帰ってきました。

荒れる湖水の様子を写真でお楽しみ下さい。

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秋の旅へのお誘い(5)悲しかった戦中、戦後を思い出させる観光スポット、門司港駅

2011年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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大正3年に建設されたJRの門司港駅は現在でもそのまま使われています。大正ロマンを感じさせるレトロな建物として多くの観光客が見物に行く有名な観光スポットです。「バナナのたたき売り」発祥の所としても有名です。

夜に見物に行ったのですが、確かに建物の外観は大正ロマンを感じさせる華麗なデザインです。一番上の写真がライトアップされた駅舎です。

現在でも使われているので中への出入りは自由です。上の2番目の写真が内部の様子です。入ってみて、懐かしさに震えます。戦中、戦後の日本のあちこちにあった駅舎と同じです。

しかし、懐かしさに浸っているうちに、次第に悲しみが心に広がります。日本中が貧しかった頃の悲しかったことが走馬灯のように思い出されたのです。戦後、田舎にヤミ米を買いに行き、このような駅に帰って来た時、警官の取り締まりに合い、大切な米を取上げられたことを思い出しました。

駅舎の床は粗末な石です。豪華な大理石ではありません。その上、内部のペンキがあちこち剥げ落ちています。大正時代そのまま展示するために敢えてペンキを塗りなおさないようです。掃除は行きとどいていますが、何か小汚い感じがします。そして、電車に乗るお客もまばらで、まるで過疎の駅のようです。

大正時代の珍しい水洗トイレがあるというので裏の方へ入って行きました。そこには上の写真のような「帰り水」と「幸運の手水鉢」という観光資源が大切にされています。

「帰り水」とは戦地から命からがら帰ってきた兵隊が、「ああ、内地の水だ」と言ってこの水道の水を飲んだのでこの名がついたのです。

駅舎に隣接する門司港から数多くの兵隊が中国や南洋の島々へ送りだされたのです。300万人の兵隊が戦死したのです。

幸運にも門司港へ帰ってきた兵士たちが汽車に乗るためにこの駅舎へ来たのです。戦地の悪い水で命を繋いで来た兵隊たちです。この水道の水の美味しさに酔いしれたのです。悲しい記念です。それが現在の観光スポットになっているのです。

「幸運の手水鉢」は戦争中、ありとあらゆる金属製品が強制的に供出され時生き残った鉄製の手水鉢のことです。

全ての金属類を強制的に供出させて、武器に作りかえたのです。ご婦人がたの指輪や装身具も徹底的に供出させたのです。鍋釜も供出した人も居ました。土鍋、土釜を代わりに使う人さえ居たのです。

そんな状況の中で門司港駅の鉄製の手水鉢だけが奇蹟的に生き残ったのです。ですから「幸運の手水鉢」なのです。写真にある通り少し汚い黒い大きな手水鉢です。

全ての金属製品を供出することは子供心にもショックでした。悲しい思い出です。

こういうのもが「観光スポット」になっているのが「門司港駅」です。

そして駅舎前の「バナナの叩き売り」です。南方のバナナが船で門司港につきます。大きなバナナ専用の倉庫に熟させるために数週間保管して、それから全国へ出荷するのです。

熟れすぎて出荷出来なくなったバナナを駅舎前で叩き売ったのです。

当時は正常なに熟れたバナナは高価で、1本のバナナを一家5人で五等分して食べたものです。その味は天国の果物のように甘くて良い香りがしたものです。

戦後すぐに、「バナナの叩き売り」が全国の街々に流行し、一般の人々は叩き売りで安く買ったバナナを一家で分けて食べたのです。現在のようにスーパーでに安く売っているバナナにもそんな時代があったのです。

観光スポットとは全国のあちこちにあります。戦争の無残さ無意味さを示す展示も多くあります。それはそれで良いことです。

しかし「大正ロマン」を売り物にしている門司港駅で思わず戦争の悲惨さを思い出す観光スポットがあるので私の気持ちが動転したのです。これから行く方々は少しばかりの心の準備をした方が良いのかも知れません。門司港駅はそんな観光スポットあのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


秋の旅へのお誘い(4)秋吉台と秋芳洞への遥かな旅

2011年09月16日 | インポート

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交通の便が良くないので、遥かに来たものだと感じます。と同時に秋吉台が遥か彼方へと広がっているので、「遥かな旅」という感じがしみじみといたします。

山並みがすべて石灰岩で覆われています。石灰岩の主成分は炭酸カルシューム、CaCO3 なので雨水に溶けます。

山並みは樹木が育ちにくく、草で覆われています。その下には石灰岩だけが延々と覆っているのです。

このような成分の岩石で覆われていることで有名な所はイタリア東北部と隣接するスロベニア地方です。従ってこのような台地を、スロベニア語の「カルスト台地」と呼ばれています。

カルスト台地は日本の各地にありますが、秋吉台が圧倒的に広いのです。

カルスト台地は雨水で溶け、地下ががらんどうになって大きな鍾乳洞が出来ます。カルスト台地の下は壊れやすい天井のようになっていて牧畜や農業には使えません。

雄大な景観を楽しみ、地下に潜って鍾乳石の不思議さを楽しむだけです。

秋吉台の雄大さは行ってみないと判りません。秋芳洞の規模の壮大さと、不思議な形をした鍾乳石の美しさは実際見ないと判りません。

しかし少しでもご想像出来るようにと数枚の写真をお送りいたします。上の写真が秋吉台の景観で、下の写真が鍾乳洞の様子です。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。9月12日に撮りました。

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興味の無い方には全く無意味な写真です

2011年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

国際交流という事にまったく興味が無ければ無意味な写真です。

西暦716年に高句麗から亡命して来た1799人の朝鮮族は埼玉県の西部に移住し、定着しました。当時の天皇から高麗王とい称号を貰い、武蔵国高麗郡を統治したのです。高麗王は高句麗の王族で若光といいました。その後、高麗神社が出来、その神主は代々現在にいたるまで高麗王・若光の子孫が勤めています。下の三番目の写真がその神主の家です。現在はもう少し立派な家に住んでいます。近所の聖天院と合わせてお出掛け下さい。聖天院は高麗王の菩提寺で、ある壮大な歴史ロマン・・・亡命してきた高句麗の王族、若光の菩提寺と墓が埼玉県に と ブログは落書きと同じで下らないと言う人も居ますが・・・下らないブログと下るブログの違い で詳しくご報告致しました。

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萩、津和野地方のキリシタン弾圧について

2011年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

詳しい情報は、http://ishike2002.web.fc2.com/hagi/02town/08_christao/christao.htm に御座います。

下にキリシタンの通った道筋を示します。キリシタンロードとして観光マップにあるそうです。

この前の記事、秋の旅へのお誘い(3)悲しい歴史の町、津和野  の補足資料です。

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秋の旅へのお誘い(3)悲しい歴史の町、津和野

2011年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

津和野では大きなお土産屋の主人が観光案内をしてくれました。津和野の家老町や白壁の街並みを説明しているとき、「津和野では36人のキリシタンを殺しています」とそこだけ悲しそうに、残念そうに話すのを聞きました。一通りの案内が終って自分の店へ私達を連れて行って銘菓の「源氏巻き」を買うようにと勧めるのです。皆はその店でいろいろなお土産物を買いました。町の中心にある大きな土産店で、奥座敷で抹茶と源氏巻きを楽しみました。

その店の向かいに大浦天主堂を小さくしたようなカトリック教会があるのを私は見ました。

私は独りで教会を訪ねました。長崎によくあるような畳敷きの教会です。維新後の明治政府による弾圧(浦上4番崩れ)のとき、113名のキリシタンが津和野へ送られ、拷問に遭い、36人が殺されたのです。その殉教者の鎮魂のために、この教会を大浦天主堂に似せて建てたのです。津和野の町の真ん中にです。人々は36人も殺してしまったので建てるのを黙認したのでしょう。その教会の横には大きな幼稚園があり数多くの園児が遊んでいました。

しかし36人の拷問死は津和野の人々の心の中に、悲しい歴史として残っているのです。下に写真を示します。

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津和野でのキリシタンの殉教につては「乙女峠友の会」を検索すると詳しく出ています。

それはそれとして、津和野の紹介をキリシタンの拷問だけで終りにしては公平に欠けます。

津和野は城下町でした。戦災に合わなかったので江戸時代の街並みが良く残っています。白い壁や家老門の連なる風景は息をのむような美しい風景です。

感動したのは町役場が昔の家老門の中に古風な木造の建物を使っていることです。日本全国で江戸時代の家老門を構えている役場は津和野だけだそうです。

下に津和野の風景写真を示します。一番上の写真が町役場です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人

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下らないブログ記事の実例・・・今日の散歩道

2011年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

私が何処を散歩したという情報には何の価値もありません。全くつまらない話です。自分の日常茶飯事を一生懸命書いても誰も興味を持ちません。そういう記事を下らない落書きと言います。

つまらない話とは思っていても、祈りながら書いています。読んで下さっている方が、静かな雑木林の広がる平林寺を散歩している気分になって頂けることを祈っています。

平林寺の中は清浄な空気です。 林の中の道には涼しい風が吹いていました。

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