後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

秋の旅へのお誘い(2)秋の白い雲のかなたへ

2011年09月15日 | 旅行記

空を見ると秋らしい白い雲が浮かんでいます。雲のかなたに憧れの土地や、夢が広がっています。そのような思いに誘われて旅に出ることもあります。

秋になると旅心が湧いてくるのは白い雲のしかも知れません。雲のたたずまいを見て何故か美しいと感動します。そして人生の過去の悲しかったこと、楽しかったことなど思い出します。

若い頃は美しい雲を見て、未来の夢が実現するような気分になったものです。そして楽しい気分になったものです。白い雲を見るとその頃の心のゆらめきを思い出します。雲は人々へいろいろなことを語りかけているのです。

旅に出なさいと呼んでいるようでもあります。

今回、西の方へ旅したときに撮った雲の写真をお送りします。

(これらの写真はこの下に掲載したJackさんにまつわる記事へ捧げる意味もございます。)

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Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(1)への補足

2011年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

Zonサノバビッチさんとは何度かメールの交換をしました。

以下に頂いたメールの文章を抜粋して皆様へお送りします。「Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(1)」と題する昨日の文章の背景を説明した部分です。日本人がお墓にこだわり過ぎるような気もしますね。

・・・・・・前の部分省略・・・・ところで、ジャックさんのお墓のこと、、。・・・英国では、日本人には信じられないかもしれませんが、「お墓」というものの観念が希薄です。
お墓のない家もたくさんあります。ジャックさんのご家庭もそうでした。きちんとした家なのですけれど。
ですから、遺灰をどうするかという段になりますと、その辺にまいておくとか、ちょっと教会の墓地に土地を買って、埋めてもらうとか、いうことになります。
日本では、たとえ灰にしろ、人間の灰を自宅の庭に埋めるなどということは出来ないでしょうね。法律違反です。
私も死後、自分の灰がどうなるのか、ということに関しましては、まだ何も決めておりません。
今のままだと、そこいらに捨てる、ということになるでしょうね。

・・・以下省略・・・・・・・・・・・・・

尚、Zonサノバビッチさんは30年以上の間、絵描きだったそうです。その後、13年間勤め人になって今年退職されたそうです。

私はZonサノバビッチさんの人生もさわやかで心豊かなものであると感動しています。10年前に無くなった友人の命日に「思い出の記」を書いて友人を讃えているのです。

最後に、いろいろお願いをしたZonサノバビッチさんへ感謝の意を表します。有難う御座いました。

藤山杜人


Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(2)

2011年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを通して知り合ったZonサノバビッチさんはロンドンに永らく住んでいます。その方がイギリス人のJackさんという方と知り合い、とても親しくなりました。Jackさんの死後、その遺骨をご自分の家の庭に埋め、その上に石灯籠を置きました。石灯籠がお墓の代わりになりました。孤独な方でしたので自然にそのようになったそうです。

ガンの治療を断り、静かに逝ったJackさんの死に方は見事でした。美しい亡くなり方でした。Zonサノバビッチさんがそのようなコメントを私のブログへ寄せて下さいました。

Jackさんは宗教とは縁の無い人でした。しかし美しい逝き方をしたそうです。生前どのような生活をしていたのか不思議に思っていました。そんな折に、Zonサノバビッチさんが、「Jackさんのこと」と題する一文と共に写真を私へ送って下さいました。

それにしてもこのようなJackさんを友人に持ったZonサノバビッチさんの生涯もさわやかなものだと感じました。彼は鏡のようにJackさんの人生を写し出し、鏡自身も同じ人生を送りたいと思っているようです。

いろいろな意味で考えさせる文章です。

2回に分けて連載しましたが、今日のが完結部です。末尾に9月9日という執筆日が書いてあります。Jackさんが丁度10年前のこの日に亡くなったそうです。ZonサノバビッチさんはJackさんの思い出を永久に忘れないことでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

=======Zonサノバビッチさん著、「Jackさんのこと」(続き)=======

下の写真の右端に立っているのが第二次大戦中の英国空軍時代のJackさんです。

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ジャックさんの育たれたご家庭は、元より宗教的な香りのするお宅ではなかったそうです。

従って、ジャックさん、生涯に於て一度も、ご自分の意志で教会に行かれたことはないと思います。

そういう、ジャックさんの宗教を頼むところのない生き方は、この様な特異な戦時中の経験で、培われたのではないでしょうか。

宗教を何ら積極的に否定するものではないけれど、関心がないという方が当っているでしょう。

私、ジャックさんの「逝き方」に感動したと言いましたが、それは、見た目に美しかったということもありますが、それよりも、ジャックさんが、自分の死に対して、何も「見返り」を期待しておられなかったというところに、美しさを覚えたということです。

死ねば、「天国に行ける」とか、「お父さんとお母さんに会える」とか、そんなことです。

「何かよく分からないけど、行ってくるわ」、そう言いながら「バイバイ」と手を振って、微笑んで行かれたのです。享年88歳。

私は、そこに痛く感動したのです。美しさを感じたのです。

因みに、その二年程前に、ジャックさん、膀胱に癌細胞が見つかったとき、「もう年寄りだから」という理由で、一切の治療を拒否されています。

例えは適切ではないかもしれませんが、死刑を宣告された人が、潔く絞首台に向かわれたのと同じことです。

私、よく思います。人間に宗教が存在するのは、又は必要であるのは、人間が「自分は何れ必ず死ぬ」ということを知っているからではないでしょうか。

自分は、今これほど人生を楽しんで、「幸せ」であるのに、何れそれも消え失せて、自分が、謂わばこの世から蒸発して、凡てなくなってしまうという考えに耐えられないのですね。

でも、たとえ、死んでも、まだ「来世」というものがあると考えれば、気が楽になります。自分の身体が無くなっても、何かが残ると信じることが出来れば、「死」が恐くなくなります。自分がなくなってしまったのに、他の人はまだ現世を楽しんでいる、と思っても、何も腹立たしくありません。

そして、実際問題として、そういう風に考える方が、人間は死ねば終りと考えるより、遥かに詩的で美しいですね。

人間が「死」をこれほど恐れるのは、勿論、生きている間のことです。一旦、死んでしまえば、何がその後に起ろうとも、又は何も起らなくても、もうどうしようもない訳ですから、逆に、苦しむこともありません。

ジャックさんの様に、「美しく」死ねれば、それは占めたものです。

ここで、少し私の至らぬ考えを述べてみることにしますと、私、何でもいいから、それを信じて、心の安らぎを得ることが出来、しかる後、安らかに「逝く」ことが出来れば、そういう生き方は、十分立派だと思います。

その「何でも」というのは、キリスト教とか、仏教とかいう宗教であることが多いのですが、勿論、「鰯の頭」でも、それこそ「何でも」構いません。他の人に迷惑を及ぼさない限り、です。

まあ、大多数の人の生き方は、こういうものでしょう。

安らかに生きられるためには、従って、安らかに逝けるためには、「何か」が必要なのです。

賢明な大人の生き方です。

只、ジャックさんには、そういうことが必要ではなかっただけのことです。

競馬が殊の外お好きで、毎日、場外馬券場に行っておられましたから、「競馬」がその「何か」であったのかも知れません。それと、私の様な「友達」、。

因みに、ジャックさんのお父様も、ほぼ同じような亡くなり方をされたと、聞きました。

お父様、ロンドンでも有数の高名な美術商であったということですが、「ガールフレンド」が、そこいら中に沢山おられて、結果、ジャックさんには、会ったこともない異母兄姉が多く、、。

古き時代の大旦那。私、一度、是非御目にかかってみたかったですね。

ある日、突然首に大きな腫瘍が出来、その一ヵ月後に、やはり「美しく」亡くなったそうです。癌であったとか、。

ジャックさん、元より身寄りとてないお方。没後の処置は凡て私がしました。

そして、その遺灰は、全身、私のグリニッジの家の庭に埋め、その上に灯篭を置きました。10年前の今日、99日のことです。

それを見るにつけ、ジャックさんのことをしみじみと思い出します。

最後に、。

人間に「死後の世界」があるというのは、ある人間が「逝く」時、その人の全くあずかり知らないところで、その人とは完全に別の「個体」が生まれるというのなら、私にも分る気がします。

そういうのを「霊魂」というのですか。 September  2011 (完結)


記事を訂正し、お詫び申し上げます

2011年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の8:59時掲載の記事、Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(1) の中の人名で、正しくは「Zonサノバビッチさん」と書くべきところを、小生の不注意で、「hoteisan2004」と書いてしまいました。

記事は訂正済みです。

大変ご迷惑をおかけ致しましたZonサノバビッチさんとhoteisan2004さんへ心からお詫び申し上げます。

またお読みになられた方々へも大変間違った事実をお伝えしてしまったことをお詫び申し上げます。

関係者の皆様にお許し頂くようにお願い申し上げます。

敬具、藤山杜人


実に下らないブログ記事の実例・・・「渚にたたずむ女」

2011年09月14日 | インポート

ブログは個人的な日記と同じなので何を書いても良いと言います。しかし社会性も無く、文化の香りも無い下らない記事はいけないと思います。

今日はその実例です。「渚にたたずむ女」として以下の写真を出します。瀬戸内海の穏やかな渚を撮った写真です。老妻が写っているので私には重要な写真です。しかし皆様にとってはまったく意味も無く、下らない写真です。

瀬戸内海は湖のように見える時もありますが潮流が激しいのです。鳴門の渦潮のようなものがあちこちの島陰にあります。その写真と、下の静かな写真を組み合わせると瀬戸内海を物語ることが出来ます。一方だけの写真記事は実に下りません。それも老妻の写真なんか誰も見たくないものです。彼女は買ったばかりのカメラに苦戦している場面です。コッソリ撮りました。

こういうのが下らない記事の実例になると思い、自分自身を戒めています。失礼しました。

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秋の旅へのお誘い(1)しまなみ海道・大三島、大山祇(おおやまづみ)神社

2011年09月14日 | 旅行記

仕事を引退すると時間に余裕が出来ます。現役の間は仕事が忙しく、とても観光旅行などを、ゆっくり楽しむような気分にはなれません。

しかし引退したお陰で、5年間ほど、家内と一緒に国内旅行をゆっくりと楽しんでいます。お金もかからず、厳しいスケジュールでない団体旅行に行ったり、個人的に計画して行ったりしています。大体2泊3日位が老人の私にとっては良いと思っています。しかし体力が無くなればそれも出来なくなります。皆様もご健康の間は是非、旅に出ると良いと思います。

国内旅行をすると、本当に日本は広くて多様な地方文化があることに驚かせられます。そこで、今回から「秋の旅へのお誘い」と出して、旅情報を連載していきたいと思います。

その第一回は尾道から今治の間にある「しまなみ海道」のなかにある大三島にある大山祇(おおやまづみ)神社をご紹介します。

尾道から向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島、と6つの大きな島々を橋で繋いで今治へ渡るのが「しまなみ海道」です。天気さえよければ風光絶佳です。それだけでは無く大三島にある大山祇(おおやまづみ)神社のたたずまいが良いのです。歴史の古さとはこういうものだと教えてくれるのです。日本の文化が香っています。そこに奉納された武具甲冑の展示が他に無いものです。全国の国宝・重要文化財に指定された武具類の8割が神社付属の宝物館にあるのです。

この神社が戦勝祈願の神社として長い歴史があったのです。全国に散在する大山祇神社、三島神社の総本社として現在でも重要な役割をしています。

このような神社が瀬戸内海の島の中の奥深い森の中にあったとは驚きです。関西の人々はご存知と思いますが、関東以北の人の為にご紹介しました。下には昨日撮った写真を示します。晴天でしたが、とにかく暑い日でした。

アクセスは大山祇神社を検索すると御座います。

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Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(1)

2011年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを通して知り合ったZonサノバビッチさんはロンドンに永らく住んでいます。その方がイギリス人のJackさんという方と知り合い、とても親しくなりました。Jackさんの死後、その遺骨をご自分の家の庭に埋め、その上に石灯籠を置きました。石灯籠がお墓の代わりになりました。孤独な方でしたので自然にそのようになったそうです。

ガンの治療を断り、静かに逝ったJackさんの死に方は見事でした。美しい亡くなり方でした。Zonサノバビッチさんがそのようなコメントを私のブログへ寄せて下さいました。

Jackさんは宗教とは縁の無い人でした。しかし美しい逝き方をしたそうです。生前どのような生活をしていたのか不思議に思っていました。そんな折に、Zonサノバビッチさんが、「Jackさんのこと」と題する一文と共に写真を私へ送って下さいました。

それにしてもこのようなJackさんを友人に持ったZonサノバビッチさんの生涯もさわやかなものだと感じました。彼は鏡のようにJackさんの人生を写し出し、鏡自身も同じ人生を送りたいと思っているようです。

いろいろな意味で考えさせる文章ですので、2回に分けて連載したいと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

=======Zonサノバビッチさん著、「Jackさんのこと」=======

Img002_2 人間誰しも、ある程度永く生きていれば、何度か人の死に目に会うものです。そして、一口に「死」と言っても、いろいろな形態があることを知っています。

斯く言う私も、その例に漏れません。

然し、「死」が「美しいもの」でありうるということは知りませんでした。

実際、私、あれほど「美しい死」を見たことがありません。

また、あれ程、感動したこともありません。

ジャック アーテマス ツゥース(Jack Artemus Tooth)さん、1909331日、おじいさんの代から続いた、ロンドンの大きな美術商と言う家系に生を享けられました。

何不自由ない裕福な家庭に育たれましたが、残念なことに、生れついてのひどい喘息もち。命の綱、インヘイラー(inhaler、吸引器) をいつも使っておられました。そして、よく風邪を引かれましたが、一旦引かれると、一ヶ月は寝込まれると言う有様でした。

只、一度たりと愚痴を溢されたことはありません。実際、このことに限らず、私、ジャックさんが、どんな時にも落ち込んでおられるのを見たことがありません。

誰の一生にも、勿論、辛いことや厭なことはある筈ですが、ジャックさんに限っては、いつも明るく笑って、英国人特有の冗談をよく飛ばしておられました。根っからの明るい人というのでしょうか、。

そして、それは実に、その最期、ホスピスで「バイバイ」と微笑んで、手を振って逝かれた時まで続きました。

ジャックさんの「逝き方」は、かくのごとく、極めて美しいものでしたが、その「生き方」も又、実に綺麗でした。

裕福な、英国中上流階級の家庭に生れられた末っ子。

いわば「良家のお坊ちゃん」、人の観測に少々甘いところはありましたが、ジャックさんのことを悪く言うお人には、ついぞお目にかかりませんでした。

只、生れ落ちられてから、満たされて育たれたジャックさん、所有欲がないというのか、お金というものに余りにも無頓着。最後には、結局殆んど何も持っておられませんでした。

然し、ジャックさんの「生き方」、そして「逝き方」には、そのようなことを差し引いても、何より「美しさ」がありました。

ジャックさんは、1939年、英国がドイツに宣戦を布告し、戦争が勃発したとき、三十歳。

持病の喘息を隠して参戦志願。

戦時中後半は英国空軍の将校。部下に絶大の人気がおありだったといいます。

その前には、実際、敵国ドイツ、イタリアに対する空爆にも参加。後尾砲撃手(Rear Gunner)ですって。

私、ジャックさんとイタリアのシシリー島に旅行したことがあります。カターニアという町へ行ったとき、ここに爆弾落したんだ、と、何か決まり悪そうに、また誇らしそうに、教えて下さったのを覚えています。

ところで、私、ジャックさんの戦時中の経験談で、とりわけ鮮明に、また印象深く覚えていることが一つあります。

その頃の英国の軍隊というのは、日本のそれの様な過酷なものではなくて、もう少し「和やか」だったのです。お互い、誰にも暴力を振るってはいけないとか、。

とは言え、戦時中の軍隊のことですから、勿論、極めて厳しい規律はあったはずですが、そんな中にも、「仲間内の愛(Camaraderie)」というものがありました。ある意味、「和気」ですね。

そんな雰囲気の中で、空軍の戦闘員たち、朝、冗談を飛ばしながら、朝食を一緒に摂り、何も言わずに戦闘機に搭乗していったそうです。

然し、皆、その後基地に戻り、夜、夕食の席に着いてみると、一人、二人、同僚の顔が見えません。

それでも、そのことに関し触れる者は、誰一人としてありませんでした。

そして、又、朝になると、冗談交りの朝食の後、出陣、。

ジャックさんは、この様に、戦時中、文字通り「死」というものと隣り合わせに生きておられたのです。

前線におられたのですから、当然のことだと言われるかも知れませんが、そういうことを、実際に経験しているのと、観念として知っているのとでは、全く異次元の話です。

事実、朝に同僚と冗談を言い合っていて、夜には忽然と姿を消すというのが、この自分かも知れないということは、ジャックさん、十分過ぎるほど覚悟しておられたでしょうね。

戦時中の英国の軍隊には「従軍牧師」という人たちがおられました。

然し、その人達の「働き」は、謂わば、従容として死んでいかれた英国空軍同僚のそれに較べれば、大して何も印象を残さなかったと、ジャックさん、後に述懐しておられました。(続く)


芦ノ湖の写真をお楽しみ下さい

2011年09月13日 | 写真

8月30日は空高く晴れ上がった快適な天気でした。強羅に泊った後で早雲山、湖尻、箱根園とまわり、山のホテルで一休みしました。箱根町の湖岸を散歩し、元箱根へ行き、芦ノ湖と富士山の写真を撮りました。その後で湖の南側の外輪山の尾根の上の芦ノ湖スカイラインをドライブしながら芦ノ湖を見下ろす絶景ポイントから湖の写真を撮りました。さらにスカイラインを行くとい三国峠があり、富士山が間近かに見えます。そんな写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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星亮一とその東北世界・・・そして大震災現地の取材活動

2011年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム

東北人という人種があって、関西人とは違うとぼんやり感じている人々が多いと思います。東北人は愚直で垢抜けしていません。しかし任された仕事は文句も言わず黙々と努力して、終いには完成してしまいます。議論が下手で、話下手です。決して社交的ではありませんが心が温かく、一旦知り合いになると何時までも誠実に付き合ってくれます。これが東北人の特徴ではないでしょうか?

最近、私の大震災関連の記事へコメントを下さった方に星亮一さんという方が居ました。ネットで検索してみると福島県の新聞、福島民報社記者を長く務めた物書きさんでした。その方の公式HPを見たら自己紹介がありました。

彼は仙台の愛宕中学校に居たことがあります。私も仙台の愛宕中学校を卒業したので急に親しみを感じました。

そこで、以下に「星亮一」を検索すると出て来る公式HPhttp://www.mh-c.co.jp/にあるプロフィールの冒頭部分を転載致します。

この方は根っからの東北人のようです。そして福島を愛して数々の郷土の歴史書を出版しています。最近は大津波や原発事故の現場の取材をして生々しい単行本や報告記事を書いています。

彼のHPの中から、大津波を15mの防潮堤で奇蹟的に防いだ岩手県下閉伊郡譜代村の写真を、プロフィール欄の下に示します。是非、星亮一さんのHPを検索して大津波や原発事故の現場の最近の実情をご覧下さい。復興は遅々として進んでいないのです。

東方地方の復興は長い年月がかかります。忘れないで何時までも支援を続行したいと思います。

全国の人々が大震災で壊滅した東北地方を忘れないように祈ります。(終り)

====星亮一さんのプロフィール===========

Profimgmain1 宮城県仙台市生まれ。戦時中、仙台市立上杉山通小学校から宮城県丸森町小斎小学校に疎開、仙台に戻ったが、父親の転勤で仙台市立愛宕中学校から岩手県一関市千厩中学校に転校、岩手県立一関第一高校に学び→東北大学文学部国史学科→日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。
新聞記者を志望し、先祖のルーツである福島県の新聞、福島民報社記者になる。会津若松に転勤し、会津藩と出会う。
その後、福島中央テレビ報道制作局長を経て独立、歴史作家の道を歩む。東北史学会会員、日本文芸家協会会員、現在は福島県郡山市在住。

★『奥羽越列藩同盟』(中央公論社)」で第19回福島民報出版文化賞を受賞
★『新撰組と会津藩』(平凡社新書)『京都守護職』新撰組と会津藩に関するTV出演でNHKとうほくふるさと賞を受賞

===15mの防潮堤で助かった岩手県下閉伊郡譜代村の写真===

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日本にある玄奘三蔵法師の遺骨(3)美しい信仰心と学問的真実は別物

2011年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム

2年前の9月に玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあることを知りました。私は長い間、玄奘三蔵法師を尊敬していましたので、その遺骨については特別の想いがあります。いろいろ考察した結果その遺骨は偽物と思います。しかし玄奘三蔵法師の遺骨についての私の想いから数編の記事をこのブログに掲載いたしまた。それ以来、私はその記事の事を時々、懐かしく思い出しています。そして多くの仏教徒にとっても興味深い記事だったと信じています。ブログの古い記事はなかなか読めないと思いますのでに玄奘三蔵法師の遺骨に関する記事を3つだけ選んで再び掲載することに致しました。ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます、藤山杜人

学問的真実と宗教的信仰ー埼玉県にある玄奘三蔵法師の遺骨とキリスト教の数々の奇蹟

027 左の写真の石塔の基部には高さ9cm直径8cmの水晶の壺が埋めてあり、玄奘三蔵法師の頂骨が入っているという。埼玉県にある慈恩寺が建てた塔である。しかし、遺骨が三蔵法師のものという学問的な証明がされていない。その可能性を完全に否定は出来ないが、本物でない可能性が大きい。まあ、これが常識的な理解です。学問的に証明されないので偽物と思う人々も多いに違いない。ところで分骨を願い出て、受け取った奈良の薬師寺のHPには三蔵法師の遺骨についての紹介が一切ない。学問的に証明されていなので慎重を期して紹介していないものと推察される。

話は変わりますが私はカトリックの信者です。従って新約聖書に書かれているイエス・キリストの行った奇蹟は全て信じています。学問的には不合理な現象ばかりです。この学問的に起きえないと証明される現象でも聖書に書いてある奇蹟は信じています。この体験から埼玉県にある三蔵法師の遺骨を本物と信じている仏教徒も多いに違いないと思います。自分で自分を賢いと思いこんでいる知識人が、「そんな物は偽物だから信じるのは止めなさい」と言いそうです。賢いということは他人へ賢げに忠告することではなく、何故、本物と信じている人々が居るのかを深く考えることです。他人を批難するのではなく理解する努力をすることです。それが人間の賢さの源と信じています。

先日、岩槻の慈恩寺を訪問して少し調べてみました。第50世住職の見道さんと51世の見順さんの2人の仏教徒としての情熱に圧倒されました。仏教連盟の幹部を説き伏せて遺骨を慈恩寺へ迎え、東武鉄道の社長にお願いをして13重の石塔を建てたのです。自分たちだけの所有物では無い、日本の仏教徒の宝としています。寺から1kmも離れた別の土地に建てたのです。この2代の住職様は遺骨を100%本物と信じていたのです。南京から埼玉県へ来る紆余曲折を読んでみると親子2代の三蔵法師へ対する敬慕と信仰の厚さに驚きます。それを知ると、私のカトリックの信仰も一層強くなります。

010 慈恩寺は824年に長安へ留学した慈覚大師が開山しました。三蔵法師の経典の翻訳事業に使った長安の大慈恩寺にちなんで慈恩寺という名前にしたと伝えられています。

左の写真は824年以来の歴代の住職のお墓です。勿論824年の墓石ではなく江戸時代に改修復した墓石のようです。

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この写真の右のお墓が50代目住職の見道さんのお墓で、左のお墓が51代目住職の見順さんのお墓です。

この2人の生涯の大きな仕事は三蔵法師の遺骨を南京から埼玉県へ持ってきて、立派な玄奘塔を建てることでした。仏教徒として幸多い一生と思います。彼らにとっては学問よりも信仰が重要だったのです。そのような人生もあることを皆様へご紹介したいと思います。(完)


現在に残る江戸幕府の作った杉並木・・・戸隠と東海道箱根関

2011年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

初期の江戸幕府は杉並木が好きだったのでしょうか?戸隠神社や日光の東照宮への参道や東海道の箱根の関所近辺には杉の古木が並んだ見事な杉並木が保存されています。

下に戸隠神社奥の院の杉並木と東海道の箱根の関所近辺の杉並木の写真を示します。今年の7月と8月末日に撮影しました。

隠神社奥の院の杉並木は1612年作り始めました。江戸幕府から千石の朱印状を貰い、現在の奥社の所に本堂を構え、杉並木を植えたのです。そして戸隠山に散在していた経堂や講堂や阿弥陀堂などなどを整理統合して杉並木の両側に集めたのです。それは壮観な眺めだったに違いありません。

一方、箱根の杉並木は1617年から作り始められたのです。東海道で唯一の杉並木で、残りは全て松並木です。現在は雑草が伸びていて少し荒れた様子です。

江戸時代のものが現在でも残り、400年間も人々が歩いているのが興味深いと思いました。

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日本にある玄奘三蔵法師の遺骨(2)やはり偽物と思います

2011年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

2年前の9月に玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあることを知りました。私は長い間、玄奘三蔵法師を尊敬していましたので、その遺骨については特別の想いがあります。いろいろ考察した結果その遺骨は偽物と思います。しかし玄奘三蔵法師の遺骨についての私の想いから数編の記事をこのブログに掲載いたしまた。それ以来、私はその記事の事を時々、懐かしく思い出しています。そして多くの仏教徒にとっても興味深い記事だったと信じています。ブログの古い記事はなかなか読めないと思いますのでに玄奘三蔵法師の遺骨に関する記事を3つだけ選んで再び掲載することに致しました。ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます、藤山杜人

埼玉県、岩槻の慈恩寺にある玄奘三蔵法師の遺骨に関する一考察

歴史の学問的研究の成果として以下のことは定説になっているのです。まずお読みください。

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玄奘三蔵法師の遺骨は長安の東の郊外の白鹿原に葬られ、664年に風栖原へ改葬された。さらに、669年には玄奘の遺骨を葬るために現在の西安市の南20kmの所に興教寺が建てられた。寺の中に5層の仏舎利塔を建て、その根元に改葬した。それを囲むように直弟子の窺基と円測の仏舎利塔もある。このお寺は唐の八大寺の一つで立派なお寺だった。しかし唐時代の末期の黄巣の反乱があり、仏舎利塔が破壊され、玄奘三蔵法師の遺骨は行方不明になった。一説によると遺骨の全てではなく、頂骨だけが行方不明になったともいう。

興教寺の仏舎利塔は唐朝の建築によって再建されたが、清朝の同治年間に被災し、中華民国時代に再建されている。(以上;出典;Wikipedia)現在でも訪問できます。玄奘塔も存在します。

黄巣は880年に長安を陥落させ斉と国号を変え、初代皇帝になった。正常な政治能力が無く相変わらず略奪を繰り返していたので部下が唐へ寝返って滅びる。唐は復活するが一地方政権になって、事実上、唐時代は終わった。

さて岩槻にある遺骨は本当に玄奘三蔵法師の遺骨の一部でしょうか?どのような方法で証明できるのでしょうか?

昭和17年、南京で偶然に発見された遺骨の一部が入っていた石箱の両側面に彫ってあった漢字によると、「黄巣の乱が原因で、演化大師が玄奘三蔵法師の頂骨を長安から改葬した」と書いてある。その後に宋時代の年号の天聖5年(1027年)2月5日が彫り込んであり、その下に改葬を実行した演化大師の4人の弟子の名前も彫ってある。

そして石箱の反対側の側面に天@寺の東の岡に祀られていたが、後の明時代の洪武18年(1385年)に同じお寺の南の岡に移し、改葬したと彫ってある。その下には改葬をした弟子の名前もある。

この石箱には多くの副葬品も入っています。仏像、銀、錫製の箱、銅製仏器、珠玉類、古銭などで整理して10ケ木箱に入れ、当時の南京政府が収蔵したのです。その遺骨の一部を分けて日本仏教連盟へ贈呈されたのです。

さて、以上の文章をお読み頂ければ、日本にある遺骨を学問的に本物と証明するにはどのような研究が不足しているかお分かりのことと思います。筆者の考えを箇条書きにして以下に示します。

1)        演化大師が玄奘三蔵法師の頂骨を長安から南京へ改葬したち事実を証明する他の文献の研究。

2)        南京で同時に発見された副葬品の時代考証学的研究、

3)        黄巣の乱で破壊された玄奘塔の遺骨の分散先の研究、

4)        現在、西安にある遺骨とされている骨と埼玉県にある遺骨のDNA鑑定による比較研究、もっともDNAが一致したとしても三蔵法師の遺骨とは断定出来ませんがその可能性は増大します。

以上の研究不足は岩槻にある遺骨の研究としてはかなり決定的な欠陥です。

従って、結論を言えば、「岩槻の慈恩寺が守る三蔵法師の遺骨はその可能性を完全には否定出来ませんが、学問的な証明が不足しています」ということになります。 

学問的な証明にこだわる人々は岩槻の遺骨を贋物と思うのが自然です。

しかし880年の黄巣の乱、遺骨の散逸、そしてその一部を1027年に演化大師が長安から南京へ改葬したという歴史的な流れには不自然さがありません。歴史的なストーリーに符合しています。 

学問的証明の重要性を軽視する人々は表面的な歴史的符合だけで本物と信じてしまいます。 

私自身は本物の可能性は少しはあるが、かなり怪しいと理解しています。先日参拝して来たのはこのほんの少しの可能性へ対して合掌して来たのです。しかし結論としては偽物と言ったほうがより真実に近いと思います。信者にとっては偽物でも良いのです。その説明は次回の記事でご説明致します。 

さて、皆様は如何でしょうか?(続く)


高句麗の王族が治めた日本の土地を流れる高麗川の風景

2011年09月11日 | 写真

西暦715年から武蔵国の高麗郡は、高句麗の王族、若光(じゃっこう)が治め、その善政が現在まで言い伝えられています。

埼玉県の西部の日高市には若光の菩提寺や神社が存在し、若光の子孫が代々神主を務めています。

その土地には秩父山地から流れ下る「高麗川」が当時のままの様子で、ゆうゆうと流れています。悠久の歴史を思い起こさせるような川のたたずまいです。そんな写真をお送りします。

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箱根彫刻の森美術館と美ケ原高原美術館の彫刻作品の比較すると、、、

2011年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

今週の火曜日に箱根彫刻の森美術館を見て回りました。ここの景観と彫刻が好きで何度も来ている場所です。私は彫刻を楽しむ為の自分だけの方法を持っています。まずその彫刻が好きか嫌いかを考えます。次に何故好きになったか?何故嫌いになったかを考えます。そして彫刻を楽しむためにはその作品が展示してある場所の景色を考えます。彫刻が与えてくれる興奮と背景の景観の調和を考えます。

私が彫刻を楽しむた時、作家が有名か無名かは問題ではありません。結論を言えば勝手気儘に見て回ります。彫刻家が何十年も努力して創り上げた作品に対して大変失礼な観賞方法とは思っています。申し訳ないと思います。

しかしこの方法をとって観賞すると彫刻が見て楽しくなるのです。

そんな様な経験から言うと、箱根の彫刻の森と長野県美ケ原高原美術館は実にすばらしい展示方法をとっています。周りの自然の景観を巧みに生かして世界中の力作を集め、展示しています。周囲の新鮮な空気や、高原のさわやかな風が個々の彫刻の造形美を一層引き立てています。野外美術館の素晴らしさです。

今回、箱根の彫刻の森を見て、それを美ケ森高原美術館の展示と比較してみました。その結果、私なりの大きな発見をしました。間違っている発見かも知れませんが書いてみます。

誤解を恐れずに書けば箱根の展示はあまりにも大人しい美しさです。あまりにもオーソドックな作品が多いのです。景観の生かし方も和風の美意識を感じさせます。小堀遠州流の庭といえば言い過ぎですが、あまり日本人の調和の感覚に合わせ過ぎているような印象です。要するにオーソドクな印象が強いのです。

一方、美ケ原の方は彫刻が挑戦的な作品が多いのです。その上周囲の景観との組み合わせの仕方が斬新で、独創的なのです。展示方法の独創性も楽しむことが出来るのです。作品がオーソドックでないだけでなく、展示方法も新鮮な感じを与えています。

両方を比較すると芸術世界でよく出て来るアカデミズムという言葉の意味が少し理解出来たような気分になりました。箱根の方がアカデミズムを重視した展示で、美ケ原の方はアケデミズムへ対して挑戦しているのです。

以上は素人の感想ですから間違っていると思います。しかし彫刻を見て楽しむ私なりの方法を書いて見ました。皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。

下に、今回撮影した箱根彫刻の森美術館の写真を示し、それと比較しやすいように2008年の8月に撮影した美ケ原高原美術館の写真を再録致しました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り)

=========箱根彫刻の森美術館の写真========

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========美ケ原高原美術館の写真と感想文======

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はるかに遠い 天空の上の美術館です。標高は2004mです。

この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのはは霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の彫刻家の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな造形芸術作品です。

箱根の強羅にある彫刻の森の姉妹美術館です。でも感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。

蛇足ながら筆者の体験談を一つ付け加えておきます。彫刻を楽しむためには根気良く数多くの作品を、何度も、何度も観ることと知りました。訓練すると作品の心が、作者の息づかいが感じられます。

そこで今回は小さなサムネイルにして作品群をご紹介しました。でもこれらはほんの一部に過ぎません。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。(終わり)

撮影日時:2008年8月5日午後1時から2時、撮影者:Mrs.藤山

撮影場所:長野県上田市美ケ原高原美術館、交通案内、会館時間などは、

http://www.utsukushi-oam.jp に有ります。