後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本にある玄奘三蔵法師の遺骨(1)埼玉県の岩槻の慈恩寺の訪問

2011年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

2年前の9月に玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあることを知りました。私は長い間、玄奘三蔵法師を尊敬していましたので、その遺骨については特別の想いがあります。いろいろ考察した結果その遺骨は偽物と思います。しかし玄奘三蔵法師の遺骨についての私の想いから数編の記事をこのブログに掲載いたしまた。それ以来、私はその記事の事を時々、懐かしく思い出しています。そして多くの仏教徒にとっても興味深い記事だったと信じています。ブログの古い記事はなかなか読めないと思いますのでに玄奘三蔵法師の遺骨に関する記事を3つだけ選んで再び掲載することに致しました。ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます、藤山杜人

日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました

この遺骨の科学的考察は次回の記事に掲載しますが、題と以下の記事は宗教的記事としてお読み頂ければ嬉しく思います。

三蔵法師の頂骨が昭和17年に偶然に南京で発見されました。お骨の入っていた石棺に、「宋時代の天聖5年(1027年)に、演化大師が西安から南京へ持って来た」と刻んであったのです。その頂骨の一部が昭和19年に南京政府から日本へ寄贈されたのです。そして日本の仏教界の為に海を渡って来ました。

玄奘三蔵法師が遠くインドへ旅したように死後にも旅をして日本へやって来てくれたのです。その遺骨は現在、埼玉県の岩槻の慈恩寺が守っています。昨日、お参りして来ました。慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しました。この遺骨は慈恩寺だけの所有物ではなく、日本の全仏教徒の為に眠っているのです。その為に見順住職は日本仏教連合会と相談をしながら、お寺とは独立した場所に13重の塔を建て玄奘三蔵法師のお墓にしたのです。更にその後、遺骨は日本仏教連合会の決定にしたがって、台湾の玄奘寺と奈良の薬師寺へ分骨されました。

慈恩寺へ行けば第51世住職の大嶋見順師にお会い出来ると楽しみにして参上しましたが、残念にも2年前に亡くなっていました。奥様と第52世住職の方としばしお話をした後に玄奘三蔵法師のお墓へお参りに行きました。午前中は教会のミサへ行き、午後に家内と一緒に行きました。

13重の玄奘塔は広々した田畑の中にありました。参道には店も無く、人気の無い淋しい野原が夏の名残の日差しの中に輝いているだけです。

下の写真が玄奘塔の入口の門です。思わず合掌し、中国の西安から、遠方の埼玉県まではるばる来てくれた三蔵法師の温かい慈悲の心へ深い感謝の言葉をつぶやきました。

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下の写真は13重の塔で東武鉄道の根津社長が昭和22年に寄進した見事な石塔です。この塔の基部に高さ8cm、直径7cmの水晶の壺に入れた玄奘三蔵法師の遺骨が埋めてあります。

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下の写真は長安にある玄奘三蔵法師のインドへの旅姿の絵画を忠実に模した大きなブロンズ像です。

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下の写真は玄奘塔のある周囲の風景です。場所は、http://www.jionji.com/ に御座います。

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お参りして豊かな気持ちになりました。

しかし参詣人が誰も居ないのが淋しいです。多くの日本人は玄奘三蔵法師の遺骨がここに有ることを知らないのです。複雑な思いです。次の記事でその原因を少し考えて見ます。皆様はこの状態をどのようにお考えでしょうか?(続く)


福島原発事故の総括(4)原発は原爆と同じという印象を国民へ与えてしまった!

2011年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

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(左の福島原発の爆発の写真の出典: http://yokotakanko.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/31-682c.html )

福島原発事故の総括(1)どのような経過で何処が壊れたか? という記事に続いて第二回目の記事は、福島原発事故の総括(2)原爆168個分のセシウム137飛散と、6ケ月後の福島県と全国の放射能汚染 という題でした。そして3回目の記事は、福島原発事故の総括(3)どんなに大きな地震や大津波が起きても、もう日本人は永久に驚かない というものでした。

考えてみると福島原発の爆発事故は単に放射能汚染で広大な地域の人々を強制移住させただけでなく、全日本人の考え方や思想へ大きな変化をもたらしたのです。その大変化は原発事故と大津波の恐ろしい映像が重なって、人々の心を根底からゆさぶり、将来への考え方、人生観まで変えてしまったのです。

変わったことは幾つもありますが、今回は2つの事を指摘したいと思います。

一つは「結局、原発も原爆も同じだった」という印象を人々が持ってしまったことです。

もう一つは日本は二流国家になっても良いから原発をやめようという「階段を下りる」風潮が広がっていることです。

広島の原爆は26万人、長崎は6万人の人が一瞬にして死にました。爆風と熱線で死んだのです。福島原発では犠牲者は居ませんでした、しかし放射能汚染は原爆以上に広いものでした。風評被害は広がり、その上、半径20以内と飯舘村や浪江町には今後40年、50年と人が住めなくなったのです。

日本各地にまだ50基ほどの原発が残っています。それらが水素爆発すれば原爆以上に広い範囲に放射能汚染地帯を作るのです。

雑な理解で残念ですが、原発も原爆も同じだという印象が広がってしまったのです。この結果、今後の日本のエネルギー政策には原発を段階的に少なくして行く方向にならざると得ません。

従来は日本のGDPはアメリカの次で世界2位でした。それが昨年、中国に抜かれてしまいました。その事と今回の大津波や原発事故で国民は意気消沈しました。もう世界の一流国になろうという希望は捨てて、経済規模が縮小しても安全で、誰もが安心して暮らせる国にしようと考え始めました。

先日アメリカの知日派のアーミテージ元国務副長官がこの傾向を指摘し、それは敗北主義で良くないと日本人を鼓舞していました。

アメリカの国際指導力が低下しつつあるとき、その同盟国の日本が弱気になってしまっては困るのです。

戦前生まれで戦後の復興、そして高度成長期に人生を送った私にとっては、上のような傾向を悲しく思われます。

原爆と原発は本質的に異なるのに、同じと理解することも大変残念な風潮です。

それを同じとして原発へ感情的に反対する態度は雑過ぎると思います。

この夏は節電に成功して停電はありませんでした。原発を何個、廃止して、何基残せば電力が不足しないかという現実的な議論をすべき時だと信じています。そして電気代が大幅に高くならなければ実験用の原発施設だけを残せは良いと思います。

そろそろ国民が冷静になって将来のエネルギー政策を考えるべきと思います。東北地方の災害復旧は今後も何年間も続く仕事です。それと並行して原発や将来のエネルギー政策を考えるのが良いと信じています。

皆様のコメントを頂ければ嬉しく思います。(続く)


ひまわりArtboxの2011絵画展のご報告

2011年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今年も9月9日(金)から12(月)まで ひまわりArtboxの、2011絵画展が八王子駅北口の八王子東急スクエアビル学園都市センターの11階ギャラリーで開催されています毎年、大学時代の同級生のTSさんが作品を出展しています。

今日は車で八王子の絵画展へ行ってきました。

ここ2、3年、TSさんは肖像画に精魂を込めていましたが、今年の肖像画は大変上手に描いてありました。肖像画が上手になると他の絵画もおのずと上達するようです。他に出展した3枚の花の絵も見事な出来あがりでした。

TSさんの描写技術は年々上達しています。

このグループの指導者は稲恭子さんという方ですが、余程指導方法が良いのではないかと想像しています。今年は精鋭、16名の出品でしたので全ての絵のレベルが高かったです。

展覧会場をゆっくり歩きながら丁寧に仕上げた絵画を一枚一枚楽しんで来ました。すべて自然な美しさをオーソドクスに描いていますので、見て心地良いものばかりです。不快な絵は一枚もありません。

会場は八王子駅前の八王子東急スクエアビル11階ですので中央線沿線にお住まいの方々は是非お出掛け下さい。下にTSさんの作品とご本人の写真を示します。

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下らないブログ記事の実例・・・うちの夫婦喧嘩の五大原因

2011年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、ブログの下らない記事と下る記事の違いを書きました。ブログは落書きと同じで下らないと言う人も居ますが・・・下らないブログと下るブログの違い という題目の記事です。そうして、記事の後半に「下る記事」の実例を付け加えました。

今日は下らない記事の例として、うちの夫婦喧嘩の原因を5つ書きます。あまり馬鹿馬鹿しいのでお読みにならないで下さい。

老境に至っても夫婦喧嘩のたねは浜の真砂のように尽きないことに驚いています。思い返して見ると新婚の頃、中年の頃、そして現在と喧嘩の原因は少しずつ変わって来てはいますが相変わらず馬鹿な喧嘩をします。多くの場合は私に原因がありますが、老境の夫婦になってからの原因を5つだけ書きます。

(1)冷暖房の温度の争い。

冷房は家内がいつも私より1度高い温度を好みます。夏の間はこの1度の争いが大きな喧嘩の原因になることがしばしばです。特に車に一緒に乗るときは困ります。運転する私は徹底的に涼しくします。家内が震えあがります。これでは喧嘩になりますね。冬はこの逆です。

(2)テレビの音の大小の争い。

テレビが2台あるので別れて見ますが、時々、老い先も短いから一緒に見ましょうということになります。はじめは仲良くみています。しかし私は大きな音で見たいのです。家内は静かな音でみたいといいます。困るのは音の強弱の激しいドラマやオーケストラの演奏です。テレビの音量の事で争いが、やがて喧嘩に発展します。

(3)料理の味付けの争い。

家内は薄味、私は塩や調味料の多い味が大好きです。家内が折角丁寧に作った料理に、私が食卓で塩をふったり、醤油をかけたりします。家内の機嫌がみるみる悪くなります。

(4)服装の色の取り合わせの争い。

私が外出しようとして服装を整えます。するとそのネクタイの色が服と合わないと言って取り替えさせます。ハンカチの柄がいけないと取りかえます。靴の色とネクタイが合わないと玄関で靴を変えます。こんな調子なので門を出る前に喧嘩になってしまいます。

(5)冠婚葬祭の事での争い。

兎に角家内は即刻対応します。間髪を入れません。私は状況と相手の心理を考えて遅い対応を提案します。無視されます。喧嘩になります。しかし後で考えると家内のほうが正しいのです。一層腹が立ちます。

こうして書いていているとあまりにもばかばかしいのでこれでお終いにします。

あまり内容の無い記事なので、せめて挿絵代わりに使う写真を吟味しました。先日、ちひろさんのブログに載っていた芙蓉の花を使わせて頂く事にしました。朝から夕方まで次第に美しい色を変化させる不思議な花だそうです。

なお、ちひろさんのブログは推薦したいブログ欄に出してありますが、最近そのペンネームをちひろから紫さんへ変えたそうです。今後のお写真を期待したいと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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江戸時代の遺産に感謝しながら散歩して来ました

2011年09月09日 | 写真

徳川家康が江戸幕府を作ってすぐに玉川上水を掘りました。多摩川の上流の羽村の堰から綺麗な水を取り入れ、延々40kmほどの掘りを作ったのです。それはほぼ直線で江戸の四谷の堰まで続いていました。

明治になり、他の水源を用いた水道が完備され、玉川上水は不要になりました。

しかし現在は上水に少量の水を流して緑地帯にしています。玉川上水に沿ってクヌギやケヤキがびっしりと茂り、その下には気持ちの良い遊歩道が延々と続いています。羽村の堰からJR中央線の三鷹駅まで30kmほども遊歩道があるのです。それは長い、長い緑の公園のようです。

私がよく歩くのは小平運動公園から上下へ向かって数キロです。広い無料駐車場があるのでゆっくり歩けます。今日も3kmほど歩いて来ました。木陰の気持ち良い道です。これこそ江戸時代の貴重な遺産として、いつも感謝しながら散歩をしています。

緑豊かな写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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ブログは落書きと同じで下らないと言う人も居ますが・・・下らないブログと下るブログの違い

2011年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム

いきなり雑な言い方で恐縮ですが、子育て日記や食べ物のことばかり書いてあるブログには下らないものが多いようだと言う人がいます。

書くことによって、書いている人の喜びと慰めになっているからそれだけで良いのですと言う人も居ます。

しかしその一方、子育て日記や毎日、何を食べたという記録には全く興味が無いと言う人もいます。

世の中は様々で、人々もさまざまです。それで良いのです。

私自身は下らないブログと下るブログを混ぜこぜにして書いているつもりです。

つまらないブログとは一般にあまりにも個人的な興味で狭い視野で書いたもののようです。

社会性が無いのです。日本全体や国際社会を念頭に置いていなのです。歴史的な視点が皆無なのです。人類がえいえいとして築いてきた文化や宗教に一顧だにしないのです。

一つの例を示します。昨日、埼玉県の聖天寺というお寺を見物して来ました。

とても綺麗な建物が山の斜面に配置してあり、庭も綺麗でしたとだけ書いたら単なる見物記になってしまいます。

しかしそのお寺の裏には日本が朝鮮を領土としていた36年間に亡くなった韓民族(白衣民族)の無縁仏の慰霊塔があったと報告すると、それは単なる見物記ではなくなります。

この短い文章には社会性があります。歴史が書かれています。宗教の一部が書かれています。白衣民族という美しい言葉が彼等の白い伝統的な衣装を思い出させます。

草取りをしていた住職様が、「山の上にある無縁仏の慰霊塔を是非見ていって下さい。本堂までの石段が急ですが、ゆっくり登って下さい」、と言ってニッコリしていました。

下に写真を示します。くどい説明はこれでお終いです。

それはそれとして、

今日もご縁があってこの文章をお読み頂いた皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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ある壮大な歴史ロマン・・・亡命してきた高句麗の王族、若光の菩提寺と墓が埼玉県に

2011年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

朝鮮半島にあった高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に居た王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。

703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。

そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。

高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっています。

高麗王の部下に農産物の増産を指導する人もいたらしく高麗郡は豊かになったそうです。そして無理な増税は強制しなかったようです。要するに大変評判の良い統治をしたのです。

高麗王は武蔵国の高麗郡に移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高来神社を作りました。

兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。

その高麗王、若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。

高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。

聖天院の後には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。

朝鮮から亡命した王様が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。

時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながら境内の写真を撮って来ました。

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死ぬ前に整理しておく事(1)故人達との関係を修復すること

2011年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

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老境にいたると死ぬことが現実的に身近に感じられるようになります。

誰でも死ぬのは厭ですが、幸いにも充分高齢に達した人々は毎日、毎日、達観した境地に進んで行くものです。

そうして自分は死ぬ前に何をしておいたら良いかと考えるようになるものです。

上の写真のように夕闇が近づいて来る感じがします。夕闇がせまる事は淋しい感じもしますが、やっと静かな夜が来ると思い、何かホットし、安心もいたします。老境とはそのような感じです。

そんな境地になると、死に前に何をして置くべきかいろいろ考えるものです。

職業として選んだ仕事はもう充分しました。ずいぶん前に止めましたので心残りはありません。夫婦仲も家族の間も少しずつ良い方向にして来ました。

あとは以前に亡くなってしまった父母、おじ・おば、親戚の人々、恩人、友人、知人などなどを思い出して自分との関係を修復して置く事です。

故人とは話も出来ませんので自分の心の中で恨みを感謝の気持ちへ変えて、冥福を祈ることです。自分の心の中を整理整頓して、残った人生を気持ち良く過ごすのです。

例えば、飲んだくれで、ろくに仕事もしなかった父が居たとします。いつも貧乏で学校は中学校までしか行けませんでした。中卒なので、懸命に働いても、職場ではつらい思いだけをしました。ただ母親だけは何時も優しくしてくれました。

戦中戦後の日本の激動の時代にはそんな家庭が少なくなかったのです。そんな境遇に育った子供は父親を一生恨みます。とうに故人になってしまった父を恨んでいます。自分がつらい一生を送った原因を作ったのが父なのですから当然です。

しかし自分が老境に入ると、別な見方をする努力が出来ます。

戦中戦後の激動の時代には父も仕事が無くて辛い思いをしたのです。酒に溺れて、家庭をかえりみることが出来なかったのです。一番苦しかったのは本人だったのです。

そんな父親の事は忘れましょう。忘れることが出来たら、そんな父でも何か良いことがあったと考えることにします。少なくとも健康に老境まで生きることが出来た自分を生んでくれたのです。可哀想な父という思いが少しすると、少し許せます。

事実はそう簡単には出来ません。そこで時々、上に書いたように考える訓練をするのです。そうです自分で、自分を訓練するのです。なにせ仕事はありませんから訓練の時間だけはふんだんにあるのです。

この訓練が進むと、悪い父でもその冥福を祈る気持ちになれます。

一番大きな、重い恨みを解消できれば他のいろいろな故人との関係も簡単に修復出来ます。全ての故人があなたの味方になってしまうのです。

そうすれば何故か心の整理がつきます。全ての恨みや憎しみが消えるので、心が晴れやかになるのです。こういうことが出来るのは老人の特権です。老境の華やぎの一つです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


雑木林や樹木のお好きな方へ送る写真

2011年09月07日 | 旅行記

今日は一日中晴天で太陽が真夏のように輝いています。こういう日は良い写真が撮れるかもと思い小金井公園へ行ってきました。緑の梢が少し秋の色に変わっていました。季節の変化を感じながら散歩をして来ました。

雑木林や樹木のお好きな方へ5枚の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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ヨーロッパの趣味を25年続けて、深い、深い感動を感じています・・・それを断腸の思いで止める決断をしま

2011年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

明治、大正、昭和、戦後、そして現在と時が流れつつ、世相も大きく変化して来ました。思い返すと、この時代は日本にとって激動の時代でした。

人々の趣味に対する考え方も時代とともに大きく変化しました。戦前は富国強兵に忙しく、趣味を軽視する傾向がありました。

しかし現在の日本人は「趣味」を重要に考えています。人生を豊かな気分で過ごすためにもとても大切なものと考えている人が多いのです。

私は時々、趣味というものをいろいろな視点から分類して考えています。

分類の仕方の一つに、「西洋の趣味」と「日本の趣味」と分けて考える方法があります。勿論、西洋の趣味といえば、その一方は東洋の趣味になりますが、それでは問題が大き過ぎるので、今日は「日本の趣味」だけを考えて見ました。

日本の趣味といえば茶道、華道、書道、和歌、俳句、囲碁将棋、謡曲、日本舞踊、剣道、柔道、などなどいろいろあります。

ヨーロッパから輸入された趣味は、油絵、クラシック音楽、登山、スキー、テニスに野球、そしてヨットなどなと明治維新以来、多種多様のものが輸入されて来ました。

少し考えてみると、日本の趣味とヨーロッパの趣味には何か違いがあるようです。

私は50歳の時、ヨットという純粋にヨーロッパ的な趣味を始めて25年になります。体力の限界を感じて、この秋にはこの趣味を卒業しようと決断しました。断腸思いです。しかし大きな充実感を味わっています。

決断した後で、この25年のセイリングの趣味で得たもの、失ったものをいろいろ考えて反省しています。

得たものはヨーロッパ文化にたいする深い、深い感動です。

何故、感動したのでしょうか?

それはヨットこそヨーロッパ文化をギッチリと詰め込んだ構造になっているからです。ヨットの部品の工芸品としての見事さ。一つ一つの完璧な機能。そして全ての部品が必要不可欠に出来上がっているのです。

それは完璧な調和です。機能美の極致です。そして風を受けて走しるので自然になじんだ美しい形に出来あがっているのです。

部品一つ一つの設計が如何にもヨーロッパ的で、日本人の発想と非常に違います。

下に示した図面は、1989年にアメリカのエリー湖そばのサンダスキーという町でクルーザースクールへ通った時に使ったテキストのなかの図面です。

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(出典はGary Jobson著AmericanSailing Association監修「SailingFundamentals」出版社Simon & Shuster Inc.1987年版です。)

ヨットの構造で一番重要なものは、船底から下へ固定されているぶ厚い鉄製のキールという重い部品です。これが付いているからこそ強風が帆に当たっても船が転覆しなのです。

この構造は日本の帆船、例えば北前船には無かったのです。江戸時代の帆船がしばしば遭難したのはキールが無かったからです。

もう一つの驚異的な構造は三角形の帆を揚げ降ろし出来るように設計されていることです。帆の形を三角形にすると船は風上にも登れる性能を持つのです。最も真っ直ぐ風に向かって走ることは出来ませんが、45度の方向へは登れるのです。

このキールと三角形の帆のお陰でスペインやポルトガルが大航海時代を築くことが出来たのです。当時の帆船は横型の帆を何枚も上げましたが、マストの後には必ず三角形の帆を何枚もつけていたのです。しかし、帆船の絵画ではよくこの三角形の帆は省略されて、描かれていません。

もう一つのヨットの構造の素晴らしさは一つ一つの部品の完璧な機能と形の美しさにあります。無駄の無いワイヤーの張り方、そしてワイヤーを固定する滑車やシャックルの巧妙な設計にはヨーロッパ人の知恵と職人わざが詰まっているのです。

ヨーロッパ文化というとイギリスの近代産業革命以後の事がよく強調されます。日本が富国強兵に忙しかったのですから近代の科学、技術が重要視されました。

しかしヨットを25年間趣味にしていたお陰で、私はヨーロッパの古い文化や歴史に興味を持つようになりました。それこそがヨットの趣味から得た最大のものと信じています。

それはそれとして、

今日も、ご縁があってこの拙文をお読み頂いた皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


今日の散歩・・・名残りの蓮の花、ヤブランの花、秋の空

2011年09月06日 | 写真

府中市の郷土の森公園の側の多摩川沿いの遊歩道を歩き、蓮池の回りを歩いて来ました。おおかたハチスになってしまったのに、まだほそぼそと咲いている蓮の花とヤブランの花の写真を撮ってきました。上を見上げると秋の雲が空にかかっていました。今日も何事もなく、流れ行く日々の一日になりました。

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私の歴史観は完全に間違っていました・・・老境にいたって初めて気がつきました!

2011年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は所沢市にある戦国時代の滝の城の跡地から新座市の方向を見降ろした風景です。しばらく見とれていました。すると、その展望台の下に横穴墳墓についての看板を見つけました。

その瞬間、私の日本の歴史に対する考え方が完全に間違っていることに気がつき、急に別の理解が生まれました。2つの理由で大きな間違いを犯していました。

(1)学校で習う日本の歴史は国家意識の高揚を目的としたので、大和朝廷から日本は立派な統一国家だったと教えます。地方の文化や武力集団については一切教えません。

天皇や貴族の華麗な生活ぶりは学校で習いますが、同じ頃の地方では上の写真のように有力者を手厚く埋葬していたのです。学校で習う歴史だけを信じていた自分の愚かさと狭い視野に愕然としました。

(2)もう一つの大きな間違いは日本に文字が普及した後の歴史だけを歴史と信じ、それ以前の日本人の生活の歴史を完全に無視していた事です。記録されている事がらだけを人間の歴史と考える「文献実証主義」のみを金科玉条として居たのです。文字だけを見て人間の実態を見ないようにして来たのです。自分の狭量さと冷血さぶりに落胆してしまいました。

文字が有ろうと無かろうと人間は喜びも悲しみも乗り越えて生きて来たのです。そのように考えると日本人には約10万年以上の長い、長い歴史があるのです。それを連続的に考えるのが正しい歴史観と信じるようになったのです。老人になってから信じるようになったのです。

一つの実例を書きます。

我々の先祖はつい2万年前まで象を殺して食べていたのです。それを調べるために数年前に野尻湖へ一泊の旅をしました。

石器時代の日本人は国中に棲息していたナウマンゾウを集団で襲って、殺して、食べていたのです。日本人がこの列島に移り住んでから、約2万年前までの長い間続けていたのです。

その歴史的な事実はナウマンゾウの解体現場に残った骨とともに、解体に使った石器が多数発掘されたので明らかになったのです。特に野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。

発掘は専門家によってもなされましたが、1962年から一般参加者も交えて18回も発掘作業を行って来ました。発掘の成果は、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」に分かり易く展示してあります。展示が良く出来ていて人間がナウマンゾウを食べていたことが確信できました。

「野尻湖ナウマンゾウ博物館」で検索するとこの博物館の詳細が出ています。

石器時代の日本人の作った石器は多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるこの博物館は貴重な存在です。訪問して見て、その問題の重要性に感動しました。

我々は昔の人々の生活の実態を知らな過ぎると思います。

貴方は奈良時代や平安時代の農民の家や生活の実態をご存知でしょうか?

それは縄文後期、弥生時代の農民の生活とあまり変わらないものでした。

このように歴史は突然変化するのではなく重層的に連続的に進んで行くものなのです。

地方の歴史が重要なのはバランスの取れた客観的な歴史理解の為に大変重要と信じています。これも老人になってから身につけた考え方です。

下に野尻湖ナウマンゾウの棲息していた頃の古い富士山と、山中湖と忍野湖の合体した宇津湖の写真を示します。

このような風景の中をナウマン象が闊歩していたのです。そして石器時代の日本人はその象を捕って食べて居たのです。

このように日本の風景を人々の生活ぶりと合わせて見ると非常に興味深く見ることが出来ます。老境の楽しみの一つになりました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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つい1万年前までは富士山は無かったのです!

2011年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の各地を観光旅行をして来ました。特に各地の自然の風景の美に感動することがしばしばありました。

随分前から私は何故、そしてどのようにして美しい風景が出来あがって来たのかという疑問を持ち始めました。

そこで地質学を少しずつ勉強して来ました。この記事の下にある日本の高い山々は海底が盛り上がって出来ました!という記事はそのような勉強結果の一例です。

この記事の導入部になるので下に掲載したのです。

日本の自然の景観は、簡単に言えば次の3つの原因が組合って出来あがったのです。

(1)海底の堆積岩が盛り上がり高い山々になる。

(2)海底が盛り上がって山になる間に火山が重なって噴火して富士山や八ヶ岳のような独立峰を形成する。噴火によってカルデラ湖が出来て、芦ノ湖や山中湖、河口湖、そして十和田湖、摩周湖、屈斜路湖などが出来る。

(3)山々に降った雨や雪が川となり海へ流れる途中に岩石や土壌を削り河岸段丘をつくる。

この3つの自然現象の間に樹木や草原が山や平野を覆い自然の風景を作って来たのです。そして人間による農業や牧畜が自然の景観美を一層引き立てて来たのです。そんな事を考えて下の写真を見ましょう。

箱根の芦ノ湖から見た富士山と三国峠から見た富士山です。ここで箱根と富士山の火山活動の歴史をほんの少しだけ勉強します。

すると驚いた事に、箱根の火山は60万年前から始まって10万年前には芦ノ湖や仙石原湖が出来ていたのです。仙石原湖は現在の湿生花園になっています。

ところが一方現在のように高い富士山は1万年前にやっと出来た新しい山なのです。ですから下の写真にあるような富士山は存在していなかったのです。

当時の日本人が箱根に行っても西の方角には低い古富士火と愛鷹火山と小御岳火山が見えるだけです。むしろその向こうに高い南アルプスの山稜がくっきりと見えた筈です。

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新富士山が出来る前は小さな古富士火山と愛鷹火山と小御岳火山が存在していただけなのです。1万年前に新富士山ができた頃の絵を下に示します。

(出典http://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol1/fjhis02.html

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このように自然の景観の出来あがって来た歴史を少し調べると風景の美しさに奥行きが感じられます。

このようにして私は旅をする時、訪問する地方の地質学をほんの少しだけ調べます。旅を一層楽しくするのです。

最近はネット情報が完備しているので専門書を買う必要が無くなりました。ネット情報は素人にも分かり易く書いてあるので大変助かります。

如何でしょうか?貴方は地質学に興味がございませんでしょいうか?

詰まらない事を書いて失礼しますた。(終り)


日本の高い山々は海底が盛り上がって出来ました!

2011年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム

巨大な岩盤がグニャリと曲がる・・・でも脆性割れの連続でです

海底の堆積岩(水成岩)が湾曲して隆起して高い山々になる様子を説明した3枚の写真をお送りいたします。

まず一番上の写真の説明文を熟読してから、2枚目の写真をご覧下さい。湾曲した岩の上に生えている樹木と真ん中に立っている人間と比較して下さい。岩の大きさが分かりますね。

この岩を砕かないように慎重に切り取って、つくば研究学園都市の地質標本館へ運んで、展示してあるのです。3枚目の写真がそうですが、あまりにも大きくてその一部しか写せませんでした。

この3枚の写真を見ると、巨大な岩盤が飴か粘土細工のようにグニャリと曲がったように見えます。ですから塑性変形したと言いたくなります。

しかし、この前の記事で説明したように岩石は塑性変形しません。脆性割れをするだけです。

ですから一見、グニャリと塑性変形したように見えますが、岩盤の層と層の間に小さな脆性割れが無数に出来て岩盤全体が曲がったものです。

それは陶器の皿を割って、割れ目を少しずつ砕き、も一度接着剤で貼ると元の形とは少し違いますね。その連続が起きたのです。

平面の皿を二つに割って、割れ目を45度に磨きあげ、また貼っつけると直角に折れ曲がった皿ができあがりますね。それと似たような現象で、巨大な岩盤がグニャリと曲がったのです。「脆性割れ」こそが巨大地震の本質なのです。

前の、今回の巨大地震・大津波が何故予測出来なかった!!!という記事の補足説明です。

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小田原で営業中の国の有形文化財の「だるま料理店」をご紹介します

2011年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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(この写真の出典は「だるま料理店」のHPです。)

小田原駅の東口から伸びる大通りを500mくらい行くと左手に大正時代のような古い料理屋があります。現在も営業中の国の有形文化財の「だるま料理店」です。

以前から寄って見たいと思いつつ何年も過ぎてしまいました。先週、箱根に行った帰りに小田原に行き、念願のだるま料理店に行き昼食を食べて来ました。

創業は明治26年で、金沢出身の達磨仁三郎が初代店主なので、「だるま料理店」という名前にしました。大正12年の関東大震災で倒壊しました。

その後、大正14年に二代目の廣澤吉蔵が贅を尽くして作ったのが現在の小田原に残る建物です。

建物は唐破風入母屋造りです。下の写真は2階建の壮大な店の様子を示しています。

2階には広い宴会場があり1階は下の写真のように椅子席と畳席があります。

料理はゴマ油で揚げた天麩羅が有名で、評判が高いです。

新鮮な地魚料理も美味です。料金は高くも安くもなく、普通です。気楽に入って、国の有形文化財を観賞しながら大正時代や昭和時代を回想しながら食事をするのも良いものです。HPは、http://www.darumanet.com/ です。

駐車場は店の左と右の両方にあります。食事をすると無料券を貰えます。

それにしても小田原はアメリカによる空襲を受けた筈ですが、だるま料理店は戦災をまぬがれたようです。天井や壁の材料が大正時代のままです。小田原に行ったら是非お寄り下さい。話の種になると存じます。(終り)

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