後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ジオパークを楽しむために(1)地質標本館を調べみる

2013年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ジオパークという広域公園が最近出来てきました。直訳すれば地質学公園ということになります。

日本には以下のような数多くのジオパークがあります。

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世界ジオパーク:洞爺湖有珠山糸魚川山陰海岸島原半島室戸

日本ジオパーク:アポイ岳南アルプス恐竜渓谷ふくい勝山隠岐阿蘇天草御所浦白滝伊豆大島霧島男鹿半島・大潟磐梯山茨城県北下仁田秩父白山手取川八峰白神ゆざわ銚子箱根伊豆半島

これらの公園を散策して楽しむためにはいささかの地質学的な知識があったほうが良いと思います。

私自身は地質学の素人ですが、以前から趣味として初歩的な勉強をしてきました。

そこでジオパークを楽しむための参考情報を連載としてお送りしたいと思います。

今日の第一回は国立地質標本館へのご案内です。

茨城県つくば市に経済産業省の巨大な研究所があります。産業技術総合研究所という規模壮大な研究所です。現役の間に仕事の都合でよく訪ねたところです。その一角に「地質標本館」という博物館があります。何年も行ってみたいと思いつつ果たせなかったので、数年前に訪れました。

地球が出来てから46億年。始めの15億年は生物の全く居ない海と陸地だけの広がりでした。約、30億年くらい前から三葉虫やオウムガイやウミユリのような原始的な生物が出てきました。その後、いろいろな植物や動物が現れ、繁栄し、衰退し、絶滅を繰り返して来ました。

そして最後の最後になって人間がやっと出現したのです。

この長い地球の歴史を解き明かすのが地質学です。地球の火山活動の歴史や、大陸の移動、海底の隆起や岩石の生成などを体系的に研究する学問です。

いろいろな地層には化石が」あります。それらを精密に調べ、考えて行くと地球の生成の歴史が明らかになるのです。

ロマンあふれる学問分野と、以前から憧れていました。

下に産業技術総合研究所の構内風景と地質標本館の入り口の写真を掲載します。そしてその下に館内の展示物の風景写真を示します。

今日は取りあえず、以下の写真だけをご紹介いたします。地質標本館で検索すると詳しい情報が出ているHPがあります。

入場料は無料の上、広い無料駐車場があります。東京からは東京駅八重洲口から つくば行きの高速バスが間断なく出ていて、「産業技術総合研究所」前の停留所で下車すると徒歩3分です。遠路行っても落胆しない立派な博物館です。

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ジオパークに見る日本列島の風景の美しさ(2)生きている火山地帯、洞爺湖有珠山ジオパーク

2013年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

洞爺湖有珠山ジオパークは雑にいえば洞爺湖と昭和新山と有珠山の3つからなっている生きている火山活動地帯です。

世界的にも珍しい活発な火山活動を繰り返しているので世界のジオパークとして認定されています。世界のジオパークは日本に5つしかありませんので、その珍しさは格別です。

特に昭和新山は1943年に平らな麦畑が突如噴火し、1945年には海抜400m位の山になってしまったのです。観光バスがすぐ下の駐車場まで行きますのでこの真新しい山を見上げることが出来ます。

さらにその向かい側には有珠山がありケーブルカーで頂上に上がり、1977-78年の噴火で出来た新有珠山も見ることが出来ます。

昭和新山や有珠山の山腹からは盛んに白い蒸気が上っていて、今にも噴火が起きそうで怖い思いをしながらの散策になります。

まさしく生きているジオパークという感じです。

さて有珠山の眼下に蒼く光る洞爺湖は一目見てカルデラ湖と分かります。中に島があるのでカルデラの底が何度か噴火した様子が素人にも分かります。

最初の巨大噴火は11万年前に起き、カルデラの底の噴火は5万年前に起きました。洞爺湖の底も含めて11の火山爆発があったことが分かっています。

この洞爺湖の南地区で2万年前に噴火が起き、有珠山が出来ました。その火山活動は7、8000年前に止まり、江戸時代の1663年に火山活動を再開し、2000年までに9回の激しい活動を繰り返しました。その度に溶岩ドームが出来たり、山の形が変わったのです。

江戸時代に火山活動を再開するまでの約7000間は平穏な時代が続きましたので洞爺湖周辺には縄文時代から多くの人が住みついていました。

特に洞爺湖温泉が観光地になってからはホテルや旅館が増え、火山の被害も受けるようになって来ました。

その歴史を考えて、「変動する大地との共生」がこのジオパークのテーマになっています。

従って地殻変動で使えなくなった建物を保存し、人々の教育にために公開しています。

そんな様子を写真で下にしめします。写真の出典は、(洞爺湖有珠山ジオパーク: http://www.geopark.jp/geopark/touyako/index.htmlです。

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上は洞爺湖です。

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上は昭和新山です。中腹まで遊歩道がついていますが、数年前に訪れたときは怖くて入って行けませんでした。

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有珠山の頂上までケーブルカーで上がりました。遊歩道が完備しているので荒々しい山容がよく観察できました。

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上と下は西山山麓の様子です。蒸気が盛んに吹き出しています。下のように地殻変動で変形した建物を保存し、展示しています。人々が地質学への興味をもっと、もっと強く持つようにするのがジオパークの活動目的なのでこのような展示物があちこちに保存してあります。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


ジオパークの目的の不明瞭さと問題点

2013年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ジオとは地質学を意味するgeology を短縮したgeoです。ですからジオパークはgeoparkになります。公園ですから人々が自由に出入りし、散歩して、その景色を楽しむものです。

ジオパークのWikipedeaの説明を末尾に付けますが、これを読んで意味の分かる人はよほど頭が良い人です。

しかもジオパークは広すぎて散歩というよりも、トレッキングあるいは登山と言うべきなのです。

その上一番の問題は、ジオパークを作る目的が不明瞭なのです。関係する人々によって活動目的が違いすぎるのです。例を書きます。

(1)地質学者は地質学の宣伝と普及を念頭におきます。そしてついでに研究費の増加を願っています。

(2)火山学者は火山学の宣伝と普及を目的にしています。

(3)地方自治体は県庁や中央省庁からの補助金の獲得の目的を持っています。地質学など念頭にありません。

(4)地方自治体は地区経済の活性化のためにジオパークを利用し観光客を呼び込もうとしています。活発な火山や温泉は宣伝しますが、地質学には興味がありません。

(5)官僚はジオパーク認定組織や関連博物館などの天下り先を考えているかも知れません。地質学などにはあまり興味がありません。

以上の(1)や(2)のように学者が自分の専門分野の活性化のために始めたジオパーク構想が中央官僚の補助金支給システムや地方の官僚の補助金獲得運動に利用されているのです。

これでは一般人は愛想をつかして興味を持ちません。

ジオパークを提唱したヨーロッパ人達の自尊精神や独立精神は何処かに飛んでしまい、日本では中央官庁や県庁からの補助金にぶら下がる構図になってしまっています。

独立独歩の精神の旺盛なアメリカはジオパーク構想の曖昧さの故か、ジオパークは敬遠の姿勢です。ですから北米にはジオパークは存在していません。

私自身は地質学は非常に重要な学問分野なのに地味過ぎるとかねがね思っていましたので、ジオパークは大変良い構想だと思っています。

従って、このブログでは上に書いた5つの目的の(1)と(2)に限定して、ジオパークのいろいろを記事にして行きたいと思っています。

皆様のご意見をお聞かせ下さい。

=====参考資料=============

ジオパークとはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF

ジオパークの活動は以下の3つに要約される。

  1. 保全(conservation) - 地元の人たちが大地の遺産を保全する。
  2. 教育(education) - 大地の遺産を教育に役立てる。
  3. ジオツーリズム(geotourism) - 大地の遺産を楽しむジオツーリズムを推進し、地域の経済を持続的な形で活性化する。

2004年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の支援により、世界ジオパークネットワーク(英語版) (GGN) が発足。ジオパークを審査して認証する仕組みが作り上げられた。ジオパークの活動はヨーロッパで始まり、ヨーロッパと中国に多くの GGN 加盟ジオパークがある。北アメリカ大陸とアフリカ大陸には、今のところジオパークはない。

日本では、2008年に国内の認定機関として日本ジオパーク委員会(JGC) が発足。JGC が2008年に認定した地域により、2009年に日本ジオパークネットワーク(JGN) が設立された。JGN 加盟地域は、JGC の審査を受け推薦を受けると GGN 加盟申請を行うことができる(2008年は JGN 設立前であったため、JGN 加盟認定と GGN 加盟申請への推薦の審査が同時に行われた)。2009年8月22日、洞爺湖有珠山(北海道)、糸魚川(新潟県)、島原半島(長崎県)の3か所が GGN に加盟を認められ、「世界ジオパーク」となった。


美しい花々を追い求めて(6)潮来のアヤメ、水元公園のアヤメ

2013年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アヤメは水郷に群生して一面に咲いているのが美しいものです。周辺を小さな舟で巡ったり、遊歩道を6月の川風にふかれながら散策していると桃源郷に迷い込んだような境地になります。

霞ヶ浦の西端の土浦港から遊覧船に乗り、1時間かけて東端まで縦断すると、その先に潮来があります。霞ヶ浦に23年間クルーザーを係留し、ヨットをしていたので何度も行きました。

根株のついた潮来のあやめを数株買ってきて、この窓の下に植えてあります。毎年6月になると見事な花を咲かせます。

水郷に群生しているアヤメといえば、東京都立の水元公園のアヤメも桃源郷のようです。

6月になるとその他の公園のアヤメも求めて右往左往します。

下に2008年6月に撮った潮来のアヤメの写真を3枚と同じく水元公園のあやめの写真3枚をその下にお送りいたします。お楽しみ下さい。

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潮来は毎年6月にアヤメ祭りをします。切り花も根株付のアヤメも沢山道端で売っています。

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ここから下の3枚が水元公園のアヤメの写真です。水元公園は水郷をテーマにした広大な公園です。広い駐車場もあります。

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130年前の日本の風景(4)アイヌの写真と私の唯一のアイヌの友人の思い出

2013年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。

彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。

その数多くの写真が散逸しなかったのは実業家として成功したジョージ・ピーボディーが多額の寄付をしてピーボディー博物館を存続させたからです。

その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。

このブログではその本に収録されている300枚の写真から数枚ずつ5回の連載としてご紹介してきました。

1890年(明治23年)頃から1900年(明治33年)頃の写真が多いです。

今日は明治20年代の北海道のアイヌの写真をお送りします。明治時代のアイヌは伝統的な服装と家に住み純然たるアイヌ文化を維持していたのです。一緒に写っている白人はクラーク博士でアイヌにも興味があったそうです。これらの写真は彼がアイヌ人を集めて撮影したと思われます。

エドワード・モース氏とジョージ・ピーボディー氏、そして小学館へ深い感謝と敬意を表します。

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北海道のアイヌ人は明治以後は日本の小学校に行くようになり次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。

しかし、第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。

そして、昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。

アイヌ村落を復元した展示もあります。

北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。しかし現在はアイヌ人だけの村落は消えて無くなってしまったのです。

北海道に行くと、私は復元した村や博物館を見て回ります。

私には、少年の頃、一人のアイヌ人の友人がいたのです。

アイヌ人の写真を見るとそのアイヌの友人のことを思い出すのです。そして悲しい思いを心に抱きながら見るのです。

終戦後に、いろいろな事情でアイヌ人が北海道から私の住んでいた仙台市に移住して来たのです。仙台の郊外の雑木林を切り開く人もいました。私はそのアイヌ人と仲良くなったのです。

仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。77歳になっても、その頃の事をよく思い出します。

終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいました。その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいました。同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり、炊事や食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。 

少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。

夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。

アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。60年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。

第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。

以前、北海道・日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もあります。敗戦後の仙台の郊外で付き合ってアイヌ人一家のことを懐かしく思いながら感慨深く見て回りました。茫々、あれから60年、あの一家の運命はどうなったのでしょう。

ウィッキペデアのアイヌ民族の項目には1904年、北海道で撮影したアイヌでの集合写真があります。どう見ても日本人とは全く違う民族です。この民族が消えてしまったのです。明治以後の日本人が消してしまったのです。

私の付き合っていたアイヌ一家の夫はこの写真の右から3人目のような風貌でした。妻は右端の女性のように見えました。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない人々でした。いつもニコニコしていましたが何かもの悲しく、消えゆく民族の運命を悲しんでいたようです。皆様でアイヌの人々と直接交わったご経験がおありでしたなら是非体験談をお聞かせ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上の写真のように、明治時代まではアイヌは誇り高い民族だったのです。その民族の名誉を後世に伝えた4人の人を以下に示します。

民族の名誉を守ったアイヌ人、知里幸恵さん、知里真志保さん、川村カネトさん、萱野茂さん

民族の豊かな文化を日本人へ伝え、アイヌ民族の名誉を守ったアイヌ人を4人上げれば幸恵さん、弟の真志保さん、カネトさん、そして萱野さんと私個人は思っています。幸恵さんの事は有名ですが、弟の真志保さんは秀才で旧制一高、東大を卒業し、言語学者になり、後に北海道大学教授になった人です。金田一京助さんの指導でアイヌ語を学問的に研究し、特に日本の多くの地名がアイヌ語に依ることを立証した研究も彼の業績です。萱野茂さんは二風谷に民族博物館を作り、アイヌ民族文化の復権運動を広く、精力的に勧めたことで有名な人です。後に参議院議員に当選し、国会でアイヌ語で質問、論戦をし、日本にはアイヌ民族が現存していることを示しました。

この中で川村カネトさんは少し変わった経歴です。北海道に陸蒸気(汽車)が走っているのを見て、鉄道建設の技師になった人です。鉄道敷設に先立って行う測量技師です。そして東海道線と中央線を結ぶ飯田線開設の為の困難な測量を完遂したのです。アイヌ人だけで編成した測量隊を北海道から引き連れて行って、天龍山峡の難所を突破して飯田線の線路の路線を決定したのです。国鉄の技術史に残る大きな功績です。その後、彼は出身地の旭川へ帰り、民族博物館を作りアイヌ文化を保存に努めました。彼の業績に感動した日本人が少年、少女むけに物語を書きました。沢田猛著、こさか しげる絵、「カネトー炎のアイヌ魂」という本です。子供向けの本ですが私は興味深く読みました。感心してこの本の出版元へ電話をしてみました。浜名湖の弁天島にある地方の出版社で、「ひくまの出版」という会社です。この本は1983年2月が初版ですが版を重ねて、現在も売っています。一冊1570円だそうです。「ひくまの出版」のホームページから注文出来ます。この出版社は「ひくまのノンフィクションシリーズ(小学校中・高学年以上向)」という真面目な本を何冊も出版している会社です。良い本を出せば本屋さんはいつまでも存続出来るとことが分かりました。インターネットがいくら栄えても、本の重要性は変わらないと感心したので少し紹介しました。(終り)


琵琶湖畔の庭に遊に来たヒヨドリの写真

2013年02月13日 | インポート

このブログに左欄に「推薦したいブログ」という項目があります。その中に「ちひろさんのブログ」があります。ちひろさんは他に「紫」さんという名前もお使いです。

ちひろのデジカメ遊び:http://www.eonet.ne.jp/~hanamusasi/ の中の紫のブログは私のお気に入りで毎日のように見て楽しんでいます。四季折々の琵琶湖畔の花々や水鳥の写真が美しいのです。美しいだけでなく心が静まり、すがすがしい気分になります。仕合せな感じがします。写真を撮っているちひろさんの心が写っているのでしょう。

このブログを始めた2007年11月のすぐ後からのお付き合いなので5年以上になります。心優しそうなご主人と悠々と暮らしています。

デジカメを持って、ご自分専用の高級車に乗って琵琶湖の周辺のドライブを楽しみながら写真を撮ります。

写真も感動的ですが、それに添えられた文章が楚々としています。すべてのものへ感謝しています。何度も写真をお借りして、このブログでご紹介してきました。

今日はちひろさんの家の庭に遊びに来たヒヨドリの写真をお送りします。

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ちひろさんのご趣味は日本舞踊です。そこで自己紹介欄にあったお写真を下にお送りいたします。

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ジオパークに見る日本列島の風景の美しさ(1)南太平洋から流れついた伊豆半島

2013年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

どういう理由か分かりませんが私は樹木を眺めるのが若い時から好きです。それは趣味のようなもので美しい森や林を眺めていると幸せな感じが味わえるのです。独立した樹木も美しいものです。特に大木には魅了されます。

そのような趣味をもって日本のあちこちを旅します。すると直観的に面白いことを思いつきます。

ああ、伊豆半島は南の太平洋から流れついたとか、北海道はシベリアの半島が流れて来たのだと思います。それはそれぞれの地方の森や林の樹林の種類を見ると思いつくのです。

北海道も伊豆半島も樹木の種類が本州と明らかに違うのです。それは素人にも判然と分かったのです。

北海道はヨーロッパの樹木に似ているし、伊豆半島の林は亜熱帯の樹林です。

長年、心の中で確信してきていましたが根拠が無いので他人へはあまり言いませんでした。

ところが昨日、ジオパークという公園はどんな公園でしょうか?・・・それを知ると日本の地質の形成の歴史が分かるという記事を書くために伊豆ジオパークを調べていたら伊豆半島は流れついた南の島だったと明記してあるのです。

すなはち伊豆半島は2000万年前は現在より数百キロメートルも南にあった火山島群だったのです。それがフィリッピン・プレートに乗って北へながれ本州に流れ着いたのです。それが60万年前のことでした。

長年の疑問が氷解しました。

ついでに言えば真鶴半島の先端も南から流れ着いたようです。

それで俄然ジオパークというものに興味が湧いてきました。

それを調べると日本の美しい風景がどのようにして出来てきたかが判然と分かるのです。そこでこれから各地のジオパークを調べて日本の美しい風景がどのようにして出来てきたか探る旅に出たいとおもいます。

その手始めに今日は伊豆半島の美しい風景写真を下に示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は上から順位に、吉佐美・田牛(きさみ・とうじ)の海岸の竜宮窟、堂ヶ島天窓洞、そして伊東市のそばにある大室山です。このような美しい景観がどのようにして出来たかは伊豆ジオパークのホームページに明快に書いてあります。

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====参考資料:日本のジオパーク=========

世界ジオパーク

洞爺湖有珠山糸魚川山陰海岸島原半島室戸

日本のジオパーク

アポイ岳南アルプス恐竜渓谷ふくい勝山隠岐阿蘇天草御所浦白滝伊豆大島霧島男鹿半島・大潟磐梯山茨城県北下仁田秩父白山手取川八峰白神ゆざわ銚子箱根伊豆半島

「伊豆半島の形成の歴史」
静岡県の東部に位置する伊豆半島ジオパーク。その成り立ちは、本州の他の地域と大きく異なります。

 3つのプレートがひしめき合う本州で、唯一フィリピン海プレートの上に位置する伊豆半島は、約2000万年前には、数百kmも南の海底火山群でした。フィリピン海プレートの上にできた火山島は、プレートとともに北に移動。やがて本州に衝突し、現在のような半島の形になりました。約60万年前のできごとです。

 その後もプレートによる地殻変動、火山活動が続いた伊豆。二重三重の地質学的特異性は、美しい景観や温泉、深い海など、独特の自然環境を生み出しました。豊かな自然に惹きつけられた人々は、そこに住み、文化と歴史を育みました。伊豆半島のテーマは「南から来た火山の贈りもの」。


日本政府が沖縄県へ与えている巨額な補助金の実態・・・あなたはどのように納得しますか?

2013年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログの2010年7月24日掲載の、「普天間基地はもう移転しない!そして嘉手納基地は永久に沖縄に居座る」という題の記事に対して、777さんという方からコメントを頂きました。

その内容は日本政府が沖縄県へ与えている巨額な補助金の実態を項目別に具体的な金額や補助金の支給割合を説明したものです。

この項目別補助金の実態を見て私はその多額さに吃驚しました。大げさに言えば絶句しました。

それを仕方がないと納得するまで数日を要しました。

この巨額の支払いは次の理由で仕方がないと私は納得したのです。

(1)明治維新にとき琉球王朝を「琉球処分」と称して日本へ吸収したことへ対する沖縄人への慰謝料として。

(2)第二次大戦末期にアメリカ軍の上陸と続く地上戦で数多くの沖縄県の民間人が犠牲になったことへの慰謝料として。

(3)米軍基地の75%が沖縄県に集中していることに対する慰謝料として。

この(3)は、増強を続けている中国海軍に対抗するための国防費と考えれば納得がいきます。これは日本の広い意味での自衛隊予算と理解すればもっと納得できます。

歴史に「もし」という仮定ほど無意味なものは無いと云います。しかしもしアメリカ軍が沖縄へ上陸しないで四国に上陸し、血みどろの地上戦で四国を占領したらどうなったでしょうか?

そうなれば米軍基地の大部分は四国に集中したでしょう。

沖縄県には基地が出来ませんから基地経済効果も日本政府からの補助金がありません。沖縄県は経済的には苦しいが、平和なのんびりとした南の島々になっていた筈です。

そのほうが幸せだったと私は確信しています。

しかし基地経済効果と日本政府からの補助金を一旦貰った以上は、もう後戻りはできないのです。お金は人間の考えも変えるからです。それが人間の宿命です。

すべての日本人は軽々しく基地撤廃、基地海外移転などと言ってはいけないと私は考えています。

さて皆様がどのようにお考えでしょうか?深く考えながら以下の777さんからのコメントをお読み下さい。

====777さんからのコメント====================

沖縄米軍基地の経済効果は年間約1680億円にも達し、返還されれば過重負担の軽減どころか、沖縄の破産を導き、すべての県民に、より一層の苦難辛苦をもたらすことになり、また本当の平和運動をも放棄することになるのです。

沖縄県民は、よく『米軍基地が沖縄に75%も集中していて不公平だ』と言い、各地で基地撤去の抗議行動を起こしているが、本当に基地が無くなったら、平和でのんびりとした沖縄が待ってるって思ってるのでしょうか?。いいや、とんでもない話なのです。

皆様はご存じでしょうか? 沖縄は基地集中の、その不公平と引き換えに、沖縄県だけが以下のような多くの高率補助金を受けているのです。

まず沖縄県は、自主財源が25%しかない全国一の弱体経済県なのです。つまり、国の補助金と借金で県経済はかろうじて成り立っているのです。

例えば道路保全に沖縄は国から95%の補助を受けられますが、これが他府県は70%以下なのです。 

他にも、学校建設整備では沖縄県は85%国庫補助、それに対して他県は50%国庫補助です。同じ様に沖縄県と他県の国庫補助金の比較をすると、漁港整備は90%対66%、公営住宅建設75%対50%、水道施設整備75%対33%、空港整備95%対66%と続き、ほとんど全産業分野に及んでいいます。

また沖縄県は本土より、ガソリン税がリッターあたり7円安く、沖縄自動車道の通行料金は本土より約4割引です。航空機燃料税は那覇-羽田間は他路線より半額なのです。
さらに、那覇文化てんぶす、沖縄こどもの国(こども未来館)、北谷ミライセンター、嘉手納水釜町営住宅、嘉手納町マルチメディアセンター、沖縄市コザミュージックタウンなど、これらは基地関連の国庫予算で建設されていることを皆様はご存じだったでしょうか?

それに加え、各自治体へも「多額の軍関連の交付金」が支給されています。

県民の中には「自分は軍用地料などもらっていないし、自分には基地は何らメリットはない」と考えている人も多く居るでしょう。
しかし、例えば、台風で道路が不通になったら、国から95%の補助金があるため、修理できるのです。もし、他府県並みの70%以下になったら、財政難にあえぐ沖縄県の自治体は修理することにも困るのです。

さて少し話題は変わりますが、「基地関連収入」と「観光収入」の根本的な違いって何かお分りでしょうか?

基地経済を論じるときに重要な視点は、軍関係の中味とその本質なのです。

県民総所得の中で基地関連収入と観光収入が同じように並べられているが、実は、観光収入は「売上額」なのに対して、基地関連収入は「利益額」にあたるわけなのです。
観光収入の「利益額」は10%~30%と試算してもその中味の違いは大きなものです。

しかも、「軍用地料」は不況に強いという特徴があります。軍用地料が「市場相場」ではなく「政治相場」で借料が決定されるからです。
過去、軍用地料は、1991年には前年比で110%、1992年には前年比107%と上昇しているます。
沖縄での基地返還要求が強まると、軍用地料が必要以上に引き上げられる傾向にあるんだな。
そのため、復帰後は軍用地との再契約を拒否する「反対地主」が減少して、契約に応じる「軍用地主」の増加につながっているわけです。

沖縄の道路舗装率や上下水道普及率は全国のトップレベルです。

基地が無ければ北部の自治体などに軍用地料が入らず、このような普及率や本土以上に立派な校舎など、絶対に無理なはずです。

また、あなたが軍用地料を貰っていなくても、そのお金が、沖縄の最大の民間資本として、例えば地域のレストランの開業資金などになって、沖縄の雇用の維持や食材料店の売上に役立っているわけです。そして県民全てに、大きな恩恵を与えているのです。
この経済波及効果が大きいがゆえに、沖縄県の人口を2倍にも増やす力となったのです。
もし、基地が縮小・撤去されたら、この高率補助金も他府県並みに減らされ、また軍用地料も減り、県民全体に大きな損失をもたらすことでしょう。

そして更に今回、「補助金3000億円ありがとう。でも米軍基地は県外で」と主張している沖縄県民もいるのですから驚きます。
自衛隊関連では、もし与那国に自衛隊が移駐すれば、島で急患が出ても短時間で那覇まで輸送できるのです。 
陸自の第15飛行隊の急患輸送は、全国の県知事からの災害派遣要請により実施され、年間約250回出動し、365日24時間体制になっているのです。
「ドクターヘリ」があるからいいと言う人がいるが、ドクターへりは残念だが与那国までは行けません。
航続距離がなく、夜間飛行設備も十分でなく、おまけに維持費がない。ドクターヘリは実質、沖縄本島周辺のみの活動に限定されます。

与那国自衛隊移駐はいろいろな面でプラスがあると確信し、ほぼ全ての島民の願いであります。

以上のようないろいろな理由で米軍基地を完全に無くすのは非常に困難のです。(終わり)


ジオパークという公園はどんな公園でしょうか?・・・それを知ると日本の地質の形成の歴史が分かる

2013年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム

老境になると公園が好きになり実に数多くの東京の都立公園や国立公園へ行きました。その景観はこのブログに掲載した沢山の写真でご紹介してきました。

所が最近、「ジオ・パーク」という公園に興味を持ち、いろいろ調べ始めました。

地質学的に興味ある特別な地殻変動した場所や活発な活動をしている火山のある場所を国に登録して認定されれば日本のジオパークになります。国連へ登録し、認定されれば世界のジオパークになります。

現在、国内のジオパークは20個所くらいあり、その他に5ケ所は世界のジオパークとして認定されています。

ジオパークに認定されるには特徴的な地殻という条件の他に、地域の教育に参加しているという条件と地域の活性化に貢献してているという2つの条件が要求されます。

この日本にあるジオパークの地質学的な情報はそれぞれのホームページで公開されています。

ジオパークの詳細は、ジオパーク:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF に説明されています。

日本国内のジオパークについては、http://www.geopark.jp/geopark/ に紹介されています。

関東地方の一例として「下仁田ジオパーク」があります。(http://www.geopark.jp/geopark/shimonita/index.html)。

このホームページを見ると奇怪な形をした古い火山の妙義山がどのように形づいてきたか、その地質学的な歴史が書いてあります。

そして山の上部と根元の岩石成分が全く異なる根無し山の存在が紹介してあります。この根無し山は跡倉クリッペと呼ばれています。

この「下仁田ジオパーク」のホームページから妙義山の写真を2枚と根無し山の写真を下にしめします。

尚、地質学会とジオパーク:http://www.geosociety.jp/geopark/world_geo.htmも参考になる情報があります。皆様もジオパークにご興味を持たれることを祈っています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上と下は妙義山です。

日本三大奇勝の一つ妙義山は、周辺の丘陵地帯に突然屏風のような壁がそり立つような山で山肌がごつごつしているのが特徴です。この妙義山は、600万年前に活動した火山から噴き出た火山噴出物が長い年月雨風に削られることで現在のようなかたちになりました。

 また、妙義山には、自然が作り出した不思議な光景が広がっています。それらは、大砲岩やローソク岩などと呼ばれておりますが、中でも人気が高いのは石門です。この石門は自然が作り出したもので、なぜこのような石門ができたのかはよくわかっていません。この石門めぐりは散策道が整備されており、登山初心者でも気軽に行くことができます。

 また、春には桜、秋にはもみじがそれぞれ美しく、妙義山の魅力を引き立てています。

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上は跡倉クリッペです。

下仁田町の南部にそびえ立つ山々は跡倉クリッペで構成される山々です。

クリッペとは、地元では、根なし山とも呼ばれており、山の頂上とふもとで岩石がまったく異なるものをいいます。跡倉クリッペは青岩と呼ばれる緑色の岩の上に、よそで形成した地層が残っています。これは、クリッペを構成する地層は、よその場所で形成し、その後地殻変動で移動してきて、浸食されて山の上に部分的に孤立して残っているのです。

 この跡倉クリッペがいつどのようにできたか明らかになると日本列島がどのように現在の形になってきたか明らかになるかもしれません。

 町内では、青倉をはじめとする何カ所かでクリッペの境界(滑り面)が観察できます。また、南牧川流域では、移動してきたときの変動により、地層が折れ曲がったり、上下さかさまになったりしている様子が観察でき、ダイナミックな地殻変動を体感することができます

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上は奥栗山渓谷遊歩道です。

 奥栗山渓谷には、およそ2億年前の深海底に降り積もってできたチャートを川が削って深い渓谷を作っています。

渓谷内には「三段の滝」「昇龍の滝」と呼ばれる滝があり、滝のすぐ脇にはきれいな縞状のチャートを見ることができます。色とりどりのチャートを河川が削って、美しい景観を織りなしているのです。このような地層が『跡倉クリッペ』の基盤となっています。 

2時間ほどで周遊できるハイキングコースもあり、また秋の紅葉の時期にはまた違った風景を楽しむことができます。(終わり)


130年前の日本の風景(3)明治23年頃の笊・箒の行商、花売り、蕎麦屋

2013年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。

彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。

その数多くの写真が散逸しなかったのは実業家として成功したジョージ・ピーボディーが多額の寄付をしてピーボディー博物館を存続させたからです。

その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。

このブログではその本に収録されている300枚の写真から数枚ずつ5回の連載としてご紹介いたします。

1890年(明治23年)頃から1900年(明治33年)頃の写真が多いです。

その写真を見ると明治時代は江戸時代とあまり変わっていない事に吃驚します。

今日は、笊・箒の行商、花売り、蕎麦屋の写真を4枚お送りします。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。

エドワード・モース氏とジョージ・ピーボディー氏、そして小学館へ深い感謝と敬意を表します。

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カゴや箒を山のように積んだ様子が行商に命をかけた男の気持ちが伝わってきます。

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当時はカラー写真は無かったので、後で彩色した写真です。花を美しく並べて売ろうという気で行商したのでしょう。この写真には少し演出があるようですね。

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担いでソバを売り歩く商売です。職人風の男が出来上がるのを待っています。

ソバ屋が右手を入れている所にお湯が沸いている鍋とコンロがあるようです。右にはソバ玉、つゆ、丼を洗う水、かき揚げなどがしまってあるのでしょう。

天秤棒を肩に夜の町々を流して商売をしていたと言います。

辛そうな行商の写真をみると何故か胸にせまるものがあります。

現在も行商はありますが小型トラックに商品を積んでいます。

行商が成功して店を開けるようになることを祈りたくなります。(続く)


ブログの奇跡・・・亡くなった娘との最後のキャンプで世話になった人に20数年後に連絡が取れた!

2013年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

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この写真は白血病で中学3年生で亡くなった少女の写真です。この写真を掲載するか、しないか又迷ってしまいました。ご遺族へまた悲しい思いをさせると危惧します。その一方でこの人間の存在の証明になるとも思います。皆様もほんの少しだけでもこの少女を愛して下さい。

今日のこの記事ではこのブログで起きた奇跡のような話をご報告いたします。

昨年9月に、19年前に中学3年生の娘を白血球ガンで突然亡くした母の悲しみがつづられたブログを5回にわたってご紹介しました。(そのURLはhttp://yorikonoburogu.seesaa.net/article/298309079.htmlです)

5回の記事の題目は以下の通りです。クリックすると記事が開きます。

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(1)詩、「衣替え」

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(2)「告知」

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(3)お兄ちゃんへの手紙

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(4)頼子さん、家族と一緒に最後のキャンプへ行く

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(完結編)追悼集、橋本郁子著、「遠く広き国へ」より

そうしましたら、その母親から以下のような投稿があったのです。

「後藤和弘様:5回にわたりまして、私の拙いブログを皆様にご紹介いただきまして、誠にありがとうございました。・・・中略・・・
ネットの力と申しますか、本日とても思いがけないことがありました。
後藤様に4回目の記事でお取り上げ頂きましたが、新舞子浜のキャンプでお世話になった、福島県いわき市の志賀留蔵さんのお孫さんにあたる方から、本日メールを頂いたのです。
偶然ブログを読んで下さったとのことでした。ブログを読んで下さる方は限られた人数ですのに、とてもおどろいております。
志賀さんは98歳で、今もご健在で、警察官の菊地さんもお元気でご活躍とのことでした。本当に嬉しく感激致しました。

いろいろな弱さや至らなさから、いっとき途切れてしまったかと思うような人とのつながりを、もう一度紡ぎなおしてくださるのは何の力によるものなのか、ふと手を止めて考えてしまいました。どうもありがとうございました。・・・以下省略・・・」

上に書いてあることは何か奇跡のようです。私は不思議な感動を覚えています。亡くなった少女の霊魂がつないでくれたとも思っています。

ブログを書き続けているとこのような不思議なことが起きます。

もう一つの奇跡のような話は途切れた人間の絆がこのブログで繋がる・・・その心暖まるエピソード(1) です。数十年途切れていた絆が取り戻せたという話です。

自分にもいくつか同じ様なことが起きました。このブログを見た幼馴染の友から投稿を頂いたのです。中学校や高校の友人からコメントを貰ったのです。途切れていた友情がまた復活するのです。そんな事が起きるのでこのブログを続けています。

次の記事のコメント欄にもそのような例があります。(キリスト教と仏教の楽しい交流と融和・・・対立より愛を

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


130年前の日本の風景(2)明治の子供たちはよく遊び、よく働いた

2013年02月10日 | 写真

エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。

彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。

その数多くの写真が散逸しなかったのは実業家として成功したジョージ・ピーボディーが多額の寄付をしてピーボディー博物館を存続させたからです。

その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。

このブログではその本に収録されている300枚の写真から数枚ずつ5回の連載としてご紹介いたします。

1890年(明治23年)頃から1900年(明治33年)頃の写真が多いです。

その写真を見ると明治時代は江戸時代とあまり変わっていない事に吃驚します。

今日は、明治の子供たちはよく遊び、よく働いていた様子を写した写真を4枚お送りします。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。

エドワード・モース氏とジョージ・ピーボディー氏、そして小学館へ深い感謝と敬意を表します。

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ヨーロッパで横行する食品表示偽装・・・牛肉やオリーブオイルなど

2013年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨーロッパ諸国のスーパーで売られているハンバーグ、ミートソース、ラザニアなどの加工食品の多くに「牛肉100%」という表示があるそうです。ところが大量の馬肉が混入されていることが発覚して大騒ぎになっているそうです。製造元はイギリス、フランス、ポーランド、アイルランドなどで、その大手食品加工会社が疑われています。

その厳格さで知らされている欧州連合(EU)の食品表示の信頼性が崩れようとしています。今朝の読売新聞7面に出ている記事にその詳細があります。

一方、同じ新聞の22面、書評欄にはトム・ミューラー著「エキストラバージンの嘘と真実」という本が紹介されています。

スーパーなど並んでいるオリーブオイルによくエキストラバージンオリーブオイルという表示が大きく書いてあります。

先日、家内が買おうとしたので止めました。普通のサラダオイルのほうが安心だよと言って買うのを止めて貰いました。今朝の新聞を見た家内が珍しく褒めてくれました。

トム・ミューラー著の本によるとエキストラバージンオリーブオイルの本物は10%以下で残りの90%以上は安価で粗悪なオイルが混じっているそうです。

このヨーロッパのオリーブオイルの偽装表示は5000年前から存在していた伝統文化なのです。

人々は偽装が当たり前なので、本物を入手したい時は農家へ直接買いに行きます。街々の朝市が盛んで農民が来て農産物、乳製品などの自分で作ったものを売っています。

肉屋ではいろいろな枝肉をぶら下げていて客の好みの部分を切り取って売っています。他の家畜の混入はあり得ません。

今日の新聞を見て私はいささか自分の食品の選び方を誇らしく感じました。

それは「ブランドものは信用しない!」、そして「自分の舌だけを信用する」という信念です。

この信念は立派ですが、時々失敗します。やっぱりブランドものは美味しいのです。

しかし高価な割には美味しくない名前倒れのブランドものが多いのも事実です。

「ブランドものは信用しない!」、そして「自分の舌だけを信用する」という信念が成功するのは酒類です。

例えばジョニ黒やオールドパーは偽物が無くなりましたが、高価な割には美味しくありません。無名のスコッチウイスキーは実に手ごろな価格で美味です。

それから値段の割には敬遠したいのは有名、無名の地酒です。洗練されていない上に味をいじり過ぎています。

焼酎は九州ものが良いようです。先年、八丈島で飲んだ焼酎は美味でした。しかし薩摩焼酎の真似事のようでいけません。何故そうなったか調べてみました。その原因は下にあります。

「ブランドものは信用しない!」、そして「自分の舌だけを信用する」という信念には私の深い思いがあるのです。有名な絵描きだからといってその失敗作まで崇め奉らないという思いです。そして無名の画家でも良い絵は良いと公言することです。

この信念は全ての創造的な職業で同じように適用しています。

有名な作家でも駄作は駄作です。

自分の意見を持つことは民主主義の基礎ではないでしょうか?しかし自分の偏狭な意見は往々にして間違いも多いのです。民主主義はそのような間違いも含んでいるのです。人間の限界です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料、八丈島は焼酎の名産地 ==========

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八丈島では色々な焼酎が作られています。幕末に八丈島へ初めて芋焼酎の製法を伝えたのは薩州出水郡阿久根村の丹宗庄右衛門です。その伝統を受け継いで、現在でも薩摩流の焼酎醸造が盛んで色々な焼酎が売りだされています。上の写真は1月31日午後の八丈島空港の売店で写した写真です。写真にある焼酎の他にも実にいろいろな製品が販売されています。インターネットで取り寄せる方法もあります。

八丈島焼酎を検索すると全ての焼酎を見ることが出来ます。またインターネットで購入する方法もあります。焼酎好きの方々は既にご存知と思いますが、念の為にお知らせ致します。

尚、丹宗庄右衛門は島津藩御用の回漕問屋で苗字帯刀を許されていました。島津藩に保護されながら、藩財政立て直しのための密貿易をしていました。しかし、幕府に逮捕され嘉永6年八丈島に流されました。在島15年、漸く明治元年に赦免されました。島の新しい産業への貢献を感謝する記念碑があります。(終わり)


山林の小屋に忘れた車のジャッキを取りに行ってきました

2013年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

先週、帰り際に車が氷の上に乗ってしまって脱出出来なくなりました。ジャッキを使ったり砂を撒いたりして1時間後にやっと出発出来ました。うまく脱出出来たので有頂天になってジャッキをそのままにして帰って来てしまいました。

そこでタイヤをすべて雪用のラジアル・タイヤに替えて山林の小屋を目指しました。

一面の雪でしたがジャッキはそのままの場所にありました。周りにはイノシシや鹿の足跡が沢山ありましたが、彼らにとってジャッキは食欲をそそらなかったようで持ち去っていませんでした。

小屋で薪ストーブを焚き、家内と質素な昼食をとります。その後、近所の木内正夫さんを訪問し、庭で日向ぼっこをしながら雑談をしました。鹿の群れが見えたことやモリアオガエルのことなど話し合いました。家内は木内さんと草花の話をしていました。

南を見ると地蔵岳の前山があり、西を見ると甲斐駒岳です。北の方には雪の八ヶ岳が青く輝いていました。

そんな時間が幸せを感じさせます。

今日撮った写真を下にお送りいたします。

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下は小屋の窓に析出していた氷の結晶です。薪ストーブを焚く前に家内が撮りました。

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美しい花々を追い求めて(5)牛島の藤、山の藤

2013年02月09日 | 写真

関東地方で有名な「牛島の藤」が毎年4月下旬に咲きます。樹令1200年のものと800年のものが毎年、豪華な花を咲かせます。

明治7年まで存続していた真言宗蓮華院の境内にあったものです。廃寺以後は持ち主が変わりましたが、現在は小島すい子さんが所有していて、入場料1000円で公開しています。広大な無料駐車場があります。

昭和3年に文部省指定天然記念物になりました。

埼玉県春日部市牛島786番地ですが、分かりにくい場所にあります。

根気良く、探して下さい。藤の枝の長さと花の美しさは確かに文部省指定天然記念物だけのことはあります。

詳しくは、http://ushijimanofuji.co.jp にあります。

昨年4月に撮って来た写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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そして山に咲く藤の花の写真もお送りいたします。

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