例年5月下旬になると芦ノ湖のそばの古いホテルの庭のツツジを見に行きます。そして家内と昼食を食べます。湖畔の「山のホテル」です。
1963年ころに初めて泊って以来、庭のツツジの花を見るために度々行きました。引退した後は時間に余裕があるので毎年5月に行くようになりました。
広い庭に色とりどりのツツジの花々が咲いています。
昼食後、庭を散策しながら写真を撮ります。
新鮮な空気の中、碧い芦ノ湖の景色と相まって一段と素晴らしいツツジの競演です。下の写真は2010年5月28日に撮りました。
お楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。
・ホテルの詳細情報は、http://www.odakyu-hotel.co.jp/yama-hotel/restaurant/にあります。
・
・
・
25年もヨットに乗っていると、風や波が帆や船体の何処にどの様に当たっているか実際に目に見えるような錯覚に捉われます。
そこである疑問が湧いて来ました。「大型タンカーやコンテナ船、そして豪華客船の船長は帆船操作の経験をしているのだろうか?」、「していれば荒天のとき落ち着いて操船出来るに違いない!」、「まてよ、横浜の日本丸は昔、商船学校の練習船だったそうだ」、「そうだ、そこを訪ねて関係者に聞いてみよう!」、と。
早速、車を駆って首都高速を駆け抜け、横浜、みなとみらいの日本丸の係留してある岸壁に行きました。2008年4月のことでした。
そして1930年にイギリスのラメージ&ファーガソン会社によって製造された帆船・日本丸に乗船することになったのです。
乗船切符を買う窓口で少し専門的な説明をお願いしました。「それなら今日は、ボースン(水夫長)も船長もいるから紹介しますね」と言い、何処かへ電話をかけてくれました。
ペンキ塗りをしていたボースンが快く仕事を止めて4本のマストなどへ上げる合計29枚の帆の上げ方の概略を説明してくれました。そしてその後で私を大西船長へ引き継いでくれたのです。
大西船長によるとこの大型帆船は船舶検査にも合格し、いつでも東京湾へ出航できる状態で係留されていると言います。
上の写真をご覧下さい。潮の干満の影響が多少あるドック内に鉄の鎖でゆったり係留してあります。
29枚の帆の上げ下ろしは毎月1回以上行われているそうです。東京湾へ出るのは何年かに一度ですが、29枚のセールは強風用と弱風用に分けて3セットずつ整備保管してあります。
昔この練習船で船長や航海士をしていたOBと派遣された現役の船員や船舶専門の学生が共同で保守管理しながら、一般の人々の帆走準備訓練を実施しているのです。
説明してくれた大西船長もかつてこの日本丸の一等航海士をし、その後は、同じような練習用大型帆船の船長をしていたそうです。
大西船長へ、「タンカーなどのような大型船の船長は帆船の経験はあるのですか?」と聞きました。
すると、「日本人の船長なら全員この船か、同じような大型帆船で訓練を受けています。帆船によって船や海のことを学ぶのです。先生はこの帆船自身です。我々は船が無言で教えていることを時々練習生に説明します。大部分は練習生が直感的に理解します」と説明してくれるのです。
明快な回答です。そしていろいろ興味深い話を情熱的にしてくれました。
帰りぎわに売店で、杉浦昭典著、海洋文庫19「帆船」(舵社1986年発行)を購入し、帆船日本丸の詳細を知りました。なお杉浦昭典氏は神戸商船大学で大西船長の指導をしてくれた恩師とのことです。
さてこの帆船は横浜市民によって保守管理されています。その概略を以下に書いて置きます。
横浜市民は日本丸を直接、手入れや修理をする「甲板ボランティア」の会を組織しています。チーク材の甲板を椰子の実で磨き、写真のように舵輪やコンパスをピカピカに磨き上げたり、ペンキ塗りもしているのです。
また年間10回以上、29枚の全ての帆を上げる「総帆展帆(そうはんてんぱん)」や、祝祭日毎に船を飾る「満船飾(まんせんしょく)」を行うのも「展帆ボランティア」(2000人)です。年齢制限なして横浜市民が主体的にすすめているのです。
その他に「友の会」などがあり日本丸の動態維持へあらゆる協力・支援を行っているそうです。
また海洋教室や各種のイベントを多数開催し、海の無い県の小中学生へも貴重な体験の機会も与えています。
主体は横浜市民ですが他の都道府県の人々も差別無く入会出来ます。
尚、「総帆展帆」の行う日時は、http://www.nippon-maru.or.jp をご参照下さい。
日本丸を訪問すると、一番目が行くのはロープ類です。
ところが帆船の船乗りはロープという言葉は絶対に使わないのです。
使用目的別にハリヤードとかステイとか固有の名前で呼ぶのです。
日本丸では29枚の帆と横桁(ヤード)を動かすためのロープが245本ついているそうです。
甲板上の装置は全て人力で動かします。ロープを手で引っ張ってみて、何処が動くか見ればロープの操作方法が理解できるのです。
その上、日本丸では種々の修理方法を、以前この船の船長や航海士をしていた人々が直接、根気良く教えてくれます。
最後に2008年4月に訪問した筆者へ長時間、貴重なお話をしてくれた大西典一船長(財団法人帆船日本丸記念財団、常務理事)へ深甚の感謝の意を表します。
是非、帆船日本丸をご訪問なさることをお勧めいたします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
下に関連の写真を掲載いたします。
撮影日時:2008年4月25日午後2時、撮影場所:横浜市西区みなとみらい2-1-1岸壁にて(続く)
上は2008年4月に全ての帆を上げた状態の日本丸を後ろから撮りました。
上は全ての帆を上げる途中の状態で、帆は下の方から順序よく上げて行きます。
上は木造甲板と舷側にまとめてあるロープ類の写真です。
上は船尾部分の甲板にある大きな舵を動かす舵輪です。
下は横浜港の1970年から1975年頃の写真です。手前の右には氷川丸が係留展示してありますが、現在の大桟橋は出来ていませんでした。赤レンガ街も出来ていませんでした。
出典は、http://www.nippon-maru.or.jp です。
冬の北海道には大雪原が広がっています。特に富良野では優しい曲線を描いた丘が続き、晴れ上がった日には幻想的な風景が輝いています。
その富良野に住んで美しい写真を沢山掲載したブログを作っている方がいます。
「あとみん」さんという方で、ブログ名は、「富良野健康生活」で、URLは、
http://furano2008.blog95.fc2.com/blog-entry-1494.html#comment です。
このブログを見ると元気が出て、健康になったような気分になります。そこで何度か写真をお借りしてこちらのブログでご紹介してきました。
「あとみん」さんはご主人と甘えん坊の犬との3人暮らしです。
そしてノルディックウオーキングのリーダーとして地域の人々と共に富良野を縦横に歩いて雪道を楽しんでいます。今日は久しぶりに「富良野健康生活」から写真をお借りしてノルディックウオーキングで雪道を楽しんでいる様子を示します。
まず雪道の写真です。
・
そしてノルディックウオーキングを楽しんでいる人々の写真です。
実は私も先週、山小屋の入り口で車が雪で埋まってしまい、富良野のノルディックウオーキングの写真を思い出しながら雪道を歩いてきました。下はその時に撮った写真です。
・
こんな記事を書いていると又山の雪道を歩こうという元気が出て来ます。皆様も元気な気分になりますようにお祈り致します。(終わり)
第二次大戦中のドイツ人によるユダヤ人の大量殺戮ほど残虐なものは無いと思います。
しかし、はるか遠いヨーロッパで起きた事件であり、我々日本人には生々しい記憶がありません。その上、事が起きてからすでに70年ほど経過しましたので忘れている人も多いと思います。
昨日、テレビでチャップリンの「独裁者」という映画を見ました。ヒットラーの独裁とユダヤ人の迫害を描いた映画です。
このユダヤ人の大虐殺はホロコーストと呼ばれドイツ人の大きな負の遺産になっています。しかし視野を広げて考えると、この事件はヨーロッパ全体のユダヤ人迫害の歴史の延長上にある一駒なのです。
ヒットラーに協力したヨーロッパ諸国の民衆の罪でもあるのです。
そしてホロコーストに見られた残虐性は人類の普遍的な本質とも理解できます。規模こそ小ですが宗教の違いによって他民族を迫害したり、殺戮した事件は人類の歴史に枚挙にいとまがありません。
現在、日本は小さな領土問題で中国と争っています。こんな時、人類共通の悪魔の心を捨てるためにもホロコーストをもう一度思い出してみたいと思います。
さて、ホロコーストは第二次大戦中におもに東ヨーロッパとドイツ占領地域のロシアで起きました。
600万人とも言われるユダヤ人の大部分は東ヨーロパとソ連西部地域から狩り集められたのです。
この大量殺戮は、そこに住んでいたキリスト教徒の協力があったればこそ可能だったと考えるのが自然です。ヒットラー個人にだけ罪を負わせるのは行き過ぎと考えるのが公平な見方でしょう。
一体、東ヨーロッパやソ連のドイツ占領地域では何が起きたのでしょうか?少し冷静に、そして客観的に考えてみたいと思います。
我々日本人は東ヨーロッパ諸国の歴史や文化にあまり興味がありません。
明治維新以来の富国強兵の役に立たない国々であった為です。大日本帝国の軍隊組織は英国、フランス、ドイツを参考にし作られました。軍艦も戦闘機もイギリスなどの西ヨーロッパの国々から輸入したのです。チェコの機関銃以外、東ヨーロッパから輸入したものはあまりありませんでした。
その上、東ヨーロッパ諸国は第二次大戦後、ソ連の衛星国になってしまい、情報は途絶えてしまいました。
1945年から1989年の「ゴルバチョフによる情報開示」まで東ヨーロッパの情報日本へ来なかったのです。
従って、私は何故、アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに存在したか?その理由が全然 理解出来ませんでした。
しかしポーランドの悲劇を少し調べて見て分かりました。ポーランドには一番多くユダヤ人が住んでいたのです。270万人以上です。ヒットラーがユダヤ人絶滅の為には、まずポーランドのユダヤ人を殺すのが一番効率の良い方法だったのです。
そしてソ連のドイツ占領地域やハンガリーやチェコスロヴァキアなどにも多くのユダヤ人が住んでいたのです。
他の地方、例えばフランス、ドイツ、オランダ、ベルギーなどのユダヤ人は数も少なく、集める労力がかかり過ぎ、その殺戮率も少なくて終りました。
それに比べて、ポーランドのユダヤ人は99%殺されたのです。
ヒットラーによって殺されたユダヤ人は600万人と言われています。その出身国を以下に示します。ポーランド、ソ連、ハンガリーがず抜けて多いことにご注目下さい。
その原因はユダヤ人の人口が東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かったからです。
・・・・・・・・「ドイツ人に殺されたユダヤ人 の出身地」・・・・・・・・・・・
ドイツ: 165,000 、オーストリア: 65,000 、フランスおよびベルギー: 32,000 、
オランダ: 10,000以上 、ギリシャ: 60,000 、
ユーゴスラヴィア: 60,000 、チェコスロヴァキア: 140,000以上、
ハンガリー: 500,000 、ソ連: 2,200,000 、ポーランド: 2,700,000
この他も合計すると1100万人前後(ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人)となる。(数字の出典:Wikipediaの「ホロコースト」の項目より)
歴史的に西ヨーロッパ諸国ではキリスト教徒によるユダヤ人の迫害が続いたので東のヨーロッパ地方へ逃げて、移住して行ったのです。
東ヨーロッパでのヒットラーの殺戮が始まると、その地域のキリスト教徒がユダヤ人の逮捕と収容に協力したのです。人間とは権力に弱く、その上、他民族を支配、抹殺したいという本能を持っている悲しい存在なのです。
さて一方、日本では第二次大戦後68年間戦争がありませんでした。
皆が戦争のことを忘れ、その悲惨さも忘れようとしています。そしてユダヤ人の大量殺戮を忘れかけています。
ヒトラーとその協力者が600万人ものユダヤ人を理由も無く殺したのです。
そのドイツと日本は軍事同盟を組んで共に第二次世界大戦を戦ったのです。その事を考えると日本人には罪が無かったのでしょうか?
結論だけを先に書けば、ホロコーストに関しては日本人は完全に無罪なのです。
何故、ユダヤ人の大量殺戮に日本人は責任が一切無いと言えるのでしょうか?
日本軍部はユダヤ人を満州へ移民させ救おうとしたのです。その詳細はこのブログでも紹介した記事、奇想天外!関東軍のユダヤ人の大規模救済計画ー河豚計画 にあります。
この日本人の行いは現在のユダヤ人の間では有名な話になっているそうです。上の記事をご覧下さい。
それはそれとして、ユダヤ人の殺戮の背景には、長い間連綿として続いて来たユダヤ教徒とキリスト教徒の宗教的敵対関係が存在していたのです。
そのように理解するのがごく自然な理解の仕方と信じています。
悲しい事です。宗教の対立で殺し合うことこそ愚かなことはありません。
イエス様は汝の敵を愛せと言いました。人を殺してはいけないとも言いました。それなのにヨーロッパ人はその教えに反して大量殺人をしたのです。
私はキリスト教徒なので残念です。悲しいでです。一旦戦争が始まるとヨーロッパ人は神に背き、イエス様に逆らって殺戮の狂気に酔いしれたのです。
幸いにも佛教国だった日本の歴史には、宗教の対立でこれほど大規模な殺戮はありません。日本人が西洋人より優しい文化、柔らかい文化を持っていると思うのは間違いでしょうか?
しかしよく考えてみると日本人も西洋人と同じだった時代もあったのです。江戸時代の禁教令では30万人のキリシタンを拷問にかけて殺したのです。
人類の残虐性は皆同じです。普遍的な「悪魔の心」も持っているのが人間の本質なのです。
日清戦争、日露戦争、日中戦争、満州事変、太平洋戦争のような事が二度と日本民族に来ないようにお祈りせざるを得ません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人 )
下の写真は長崎にある26聖人の像です。彫刻家、舟越保武氏の作品です。
その下の写真は昨年11月に伊東の海岸から初島を撮った写真です。上の記事が暗い話だったので気分転換をして頂くためにお送りします。
・
舟越保武作品画像集:http://www.google.co.jp/search?q=%E8%88%9F%E8%B6%8A%E4%BF%9D%E6%AD%A6+%E4%BD%9C%E5%93%81&hl=ja&tbo=u&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=XisjUYDOEu6MmQWnuoG4Cg&ved=0CCsQsAQ&biw=834&bih=559
舟越保武:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E8%B6%8A%E4%BF%9D%E6%AD%A6
エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。
彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。
その数多くの写真が散逸しなかったのは実業家として成功したジョージ・ピーボディーが多額の寄付をしてピーボディー博物館を存続させたからです。
その多数の風景写真から重要なものを選び、編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という大判の写真集です。
このブログではその本に収録されている300枚の写真から数枚ずつを5回の連載としてご紹介いたします。
1890年(明治23年)頃から1900年(明治33年)頃の写真が多いようです。
その写真を見ると明治時代は江戸時代とあまり変わっていない事に吃驚します。
今日は、明治20年頃の働く日本人の写真をお送りいたします。撮影時期は正確に記録されていませんが、1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。
エドワード・モース氏とジョージ・ピーボディー氏、そして小学館へ深い感謝と敬意を表します。
上と下の写真は明治時代の漁師の写真です。藁製の腰蓑が古風です。担いでいるすくい網も無骨な作りです。
下の舟は五丁櫓の快速舟です。
下は遠い海を渡る運送用の和船です。江戸時代そのままの構造です。
下は駕籠を担ぐ人の休みどころです。現在ならタクシーの車庫のようなものです。庶民が乗る駕籠は簡素な造りで、簾などついていません。
下は裕福そうな家庭の夫人が着物の洗い張りをしている様子です。こんな光景は第二次大戦頃まで見られました。私の家でも祖母が洗い張りをよくしていました。その時使っていた洗い張り用の長い板がその後何十年もあったものです。
それにしても現在、絹織物の和服の洗濯はどうするのでしょうか?不思議です。
この連載記事の「130年前の日本の風景」はこの5回目で4一応終了致します。ご覧頂きまして有難う御座いました。(終わり)
第二次世界大戦は2000万人のロシア人がドイツ兵に殺され、400万人のドイツ人も死にました。
アジアでは1000万人の中国人が日本兵に殺され、300万人の日本人も死にました。人類の歴史に未曾有の大戦争だったのです。
ドイツが占領したフランスにはヴィシー政府が出来、ドイツに協力します。
同じように中国の南京には1940年に汪兆銘南京政府が成立し1945年まで日本へ協力しました。
下の写真は南京政府主席の汪兆銘が自分の軍隊を閲兵している場面です。
この様な社会の大激動の中で、汪兆銘南京政府が玄奘三蔵法師の遺骨の一部の頂骨を日本へ寄贈したのです。
その遺骨は日本の軍隊が発見し、汪兆銘南京政府へ届け出たものでした。日本人が玄奘三蔵法師を尊敬していることを知っていた南京政府が日本側へ寄贈したのです。
この様に南京政府は日本側へ協力し、日本軍の武力を背景にして重慶の蒋介石政権に対抗したのです。
戦争になれば文化遺産でも宗教遺産でも、なんでも利用出来るものは利用するのです。
さてこの玄奘三蔵法師の遺骨が本物であるかという大問題があります。
以下にその真贋の検討をしたいと思います。
この遺骨は第二次大戦中に日本軍が南京を占領したとき発見したものです。遺骨の届け出を受けた南京政府が日本へ寄贈したものです。
この前後のいきさつを軽く見過ごしてしまうと真贋の検討は間違うと思います。
いろいろ考えてみると、これが三蔵法師の遺骨であるという科学的根拠が無いのです。全然無いのです。
ですから偽物と思うほうが無難だという結論に到達します。
勿論本物である可能性はゼロではないかも知れません。
しかしその可能性が非常に小さいのに本物だと主張する態度は科学的に間違っているのです。
しかし一方この遺骨の一部を宗教的記念物として大切にするのは個人の自由です。
そこで信仰の立場からもう少し詳しく記述してみます。
三蔵法師の遺骨の一部である頂骨が昭和17年に偶然に南京で発見されました。お骨の入っていた石棺に、「宋時代の天聖5年(1027年)に、演化大師が西安から南京へ持って来た」と刻んであったのです。
この刻文が正しくても遺骨が三蔵法師のものだという科学的根拠にはなりません。他人の遺骨かも分からないからです。
この頂骨の一部が昭和19年に南京政府から日本へ寄贈されたのです。そして日本の仏教界の為に海を渡って来ました。
その遺骨は現在、埼玉県の岩槻の慈恩寺が守っています。
私は2009年9月14日にお参りして来ました。慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が、慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しました。
見順住職はこの遺骨は慈恩寺だけの所有物ではなく、日本の全仏教徒の為のものとして公開することにしたのです。
そこで見順住職は日本仏教連合会と相談をしながら、お寺とは独立した場所に13重の塔を建て玄奘三蔵法師のお墓にしたのです。更にその後、遺骨は日本仏教連合会の決定にしたがって、台湾の玄奘寺と奈良の薬師寺へ分骨されました。
慈恩寺へ行けば第51世住職の大嶋見順師にお会い出来ると楽しみにして参上しましたが、残念にも2年前に亡くなっていました。奥様と第52世住職の方としばしお話をした後に玄奘三蔵法師のお墓へお参りに行きました。家内と一緒に行きました。
13重の玄奘塔は広々した田畑の中にありました。参道には店も無く、人気の無い淋しい野原が夏の名残の日差しの中に輝いているだけでした。
下の写真が玄奘塔の入口の門です。中国の西安から、遠方の埼玉県まではるばる来てくれた三蔵法師の温かい慈悲の心が感じられるようです。
下の写真は13重の塔で東武鉄道の根津社長が昭和22年に寄進した見事な石塔です。この塔の基部に高さ8cm、直径7cmの水晶の壺に入れた玄奘三蔵法師の遺骨が埋めてあるそうです。
下の写真は長安にある玄奘三蔵法師のインドへの旅姿の絵画を忠実に模した大きなブロンズ像です。
下の写真は玄奘塔のある周囲の風景です。
場所は、http://www.jionji.com/に御座います。
広い敷地には参詣人は誰も居ませんでした。
玄奘三蔵法師の遺骨と南京政府の関係を思うと、どうしても日本軍の中国大陸への侵略のことを連想します。
残念でなりません。平和な時に玄奘三蔵法師の遺骨が日本へ来ていればもっと参詣人も増えたと思います。
複雑な思いで埼玉県の岩槻の慈恩寺を後にしました。
残暑の厳しい4年前の9月14日の午後でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
甲府盆地の西端に屏風のように立っている甲斐駒岳の麓に小屋があり、四季折々よく行きます。
空気が新鮮で、自然に溢れている場所です。鹿や猿や猪と時々会います。小屋の前には年中水が流れている小川があります。岩魚の棲んでいる小川です。
自分の敷地の中の端を流れ下っていますが、私のものではありません。水利権は下のほうに住んでる農家が共同で持っています。特に見回りに来るわけではありませんが、私はその水を絶対に汚さないように大切に使っています。
洗い物に水に使っています。雪が深くなって車が小屋まで上がらなくなると飲み水はこの小川から汲んで、薪ストーブで湧かしてから使います。小屋に泊まる時には貴重な水です。
その上、朝な夕なに、常に美しい水音を立てて流れ下っています。
この小川のお蔭で沢山楽しい思いをしてきました。
先日行ったときも一面の雪のなかで小川は変わらない清らかな水音をたてて流れていました。思わず数枚の写真を撮りましたので下にお送り致します。
小屋は上の写真の甲斐駒ヶ岳の東側の山麓にあります。写真の下の雑木林の中にあります。
小屋の窓から見ると小川がこんな具合に見えます。川の向う側のガーデン灯が雪のため傾いています。
庭の下流のほうには魚が上り下りできるように斜めに魚道をつけてあります。
写真の手前に小川が流れ、その向こう側は丘になっていて白樺が生えています。
雪景色をお楽しみ頂けたら嬉し思います。(終わり)
日本列島は太平洋プレート、ユーラシアプレート、フィリッピンプレートがぶつかり、盛り上がって出来ました。
この事実を理解するとジオパークの地質学的面白さが分かるのです。ですからまず日本列島の出来上がり方を理解しましょう。
一般に大陸に近い列島は大陸の地殻(大陸プレート)の下に大洋の底の地殻(海底のプレート)がもぐり込み、盛り上がって出来ます。
その様子を示した図面が下にあります。つくばの地質標本館の資料から転載しました。左の褐色の部分が日本列島で右の薄い青い色の部分が海です。
注意深く見ると褐色部分の海に近い所に付加体という字があります。
この付加体はもともと太平洋の底の堆積物が列島の表層に盛り上がって付加した地層や岩石です。日本列島の多くの地質はこの太平洋プレートの付加体で出来上がっています。
ついでに何故、地震や津浪が起きるか説明しておきます。
堅い海底の地殻が堅い大陸の地殻の下に滑り込むのですから界面はギザギザに割れ、ストレスがある部分に溜まります。
それが大きくなり過ぎて突然破壊と断層滑りが地下深くで起きます。当然大きな揺れが起き、それが地表へ伝わって地震となります。
そしてそれが海底で起きれば大津波が発生します。
原因がこれほどはっきり分かっているのに地震の予知は殆ど不可能です。大陸プレートと海底のプレートの界面は地下数十キロ以上と深いので局部的なストレスの溜まった場所を探すことが不可能なのです。
上の写真の真ん中近辺に横長の四角を描いた所が3ケ所あります。そこが地震の発生源になり易い大陸プレートと海底プレートの境目です。素人の私が描き込んだので正確ではありませんが大体正しいと思います。
海底の地殻(海底プレート)がゆっくり動くのは地球の内部で熔けているマントルが流れ動いているからです。太平洋プレートは毎年10cm位西へ動くそうです。
下の写真は地質標本館の展示です。
太平洋海底プレートとフィリッピン海プレートが西方向へ動いてユーラシア大陸プレートの下に潜りこんでい様子を示しています。潜り込むとき、盛り上がり、海底の付加体から日本列島が出来あがっていることをご理解下さい。
下は南日本の様子です。
下は北日本の様子です。
地下の岩石が地割れして地すべりする現象は、「脆性破壊」というもので、予測が原則的に不可能です。ストレスが溜まった所は日本列島に沿って太平洋側の海底にあります。誰も何時、地すべりが起きるか予想がつかないのです。
つくば市にある地質標本館には感動的な展示物がいろいろあります。その中の一つ、太平洋と日本海の深さ分布を示す立体模型があります。
日本列島に沿って日本海溝、伊豆・小笠原海溝、マリアナ海溝があります。よく見ると海溝は本当に深い谷間で、深さは6000m以上になるのです。その巨大な谷の沖側は太平洋ですが、太平洋そのものもかなり深い海と分かります。
日本海の深さ分布を示す模型もあります。日本海をよく見ると、かなり凸凹した海底になっています。浅い海と思っていましたが、意外に深いので吃驚します。佐渡ヶ島や隠岐の島の近海には海底山の様なものがあり、浅くなっています。
冨山深層水というものを使った商品がありますが、嘘ではありません。しかし山形や秋田の沖の日本海の方が深いのです。
海溝は太平洋プレートとユーラシア大陸プレートがぶつかり合い出来た巨大な溝です。現在でも2つのプレートが押し合っているので、海溝近辺が地震の巣のようになっています。このような地球の海底が一目瞭然に示してあるのが大変面白いのです。
ジオパークの説明に太平洋プレート、ユーラシアプレート、フィリッピンプレートなどの言葉や「付加体」という地質名が出て来ますので、その概略を説明しました。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
カトリックでは復活祭を大切にします。イエス様が十字架にかけられ処刑され、3日目に生き返って復活したのを祝うお祭りです。今年は3月31日(日)です。その前の40日を四旬節といい、復活祭を迎えるための準備をする期間です。
今日は四旬節の第1主日のミサがありました。カトリック小金井教会の今日のミサのあいだに復活祭の日に洗礼を受ける人々の洗礼志願式がありました。通常のミサのあいだに数分間の志願式をはさんで執り行います。
以下にその写真を示します。
洗礼を希望する老若男女8名ほどが代父、代母とともに祭壇の前に並びます。
主任司祭のディン神父様が一人一人に洗礼を志願しているか確かめています。
それが終わると神父様から祝福を受け、通常のミサ次第に戻ります。
上はミサで一番重要なパン片を神父様から信者一人一人が行列して頂く様子です。上の写真では、神父様は、パン片をイエスの体と言って一人一人へ与えています。
ミサは毎週、日曜日は10時から約1時間行はれます。
この記事をお読みになった全ての方々へ神様のおん慈しみが豊かにありますようにお祈りいたします。(終わり)
日本の表面の土壌を取り去った下にある岩石の種類を示した地図を地質図といいます。その図面は、http://gsj-seamless.jp/maps.html に出ています。
さてその地質図に出て来る地層の名前と化石の関係を知るとジオパークの理解が深まり、一段と面白くなります。
そこで何か簡単な道案内のHPは無いかと、いろいろ検索していたら、日本博物館協会制作の地層図:http://www.j-muse.or.jp/joyful/virtual_museum/sinkakan/sinkakan_menu.html を発見しました。
流石に素人を相手にした博物館協会だけあって実に簡単明快に図面で示しています。下にその一例を示します。
この図面のいろいろな層をクリックすると、その地質時代に生きていた動物の絵図が出て来るのです。一つの例として白亜紀をクリックすると下の様な恐竜の絵が出て来ます。
地質時代で重要なのはジュラ紀と白亜紀だけです。恐竜が大いに活躍し、地球上を覆っていた時代です。約6500年前の白亜紀の終り頃に大きな隕石がユカタン半島に落ちて地球が急に寒くなり恐竜が絶滅します。
前の記事の地質図を見ると日本列島はジュラ紀と白亜紀で出来ている部分が多いことが判ります。ですからこそ日本からもいろいろな恐竜の化石が出て来るのです。前の記事の地質図に出て来る地層の名前は上の日本博物館協会制作の地層図に説明があります。このように適切な道案内を手に持てば、どんな専門的な情報でも理解出来るのです。インターネットのお陰で、素人の為の案内情報が入手出来るのです。皆様も地質学のジャングル探検にお出掛け下さい。面白いですよ。(続く)
日本の各地を観光旅行をしてみますと、各地の自然の風景の美に感動することがしばしばあります。 何故、そして、どのようにして美しい風景が出来あがってきたのでしょうか?
(1)海底の堆積岩が盛り上がり高い褶曲山脈の山々になる。
(2)海底が盛り上がって山になる間に火山が重なって噴火して富士山や八ヶ岳のような独立峰を形成する。噴火によってカルデラ湖が出来て、芦ノ湖や山中湖、河口湖、そして十和田湖、摩周湖、屈斜路湖などが出来る。
(3)山々に降った雨や雪が川となり海へ流れる途中に岩石や土壌を削り河岸段丘をつくる。また氷河が山々を削り山容を美しくする。
この3つの自然現象の間に樹木や草原が山や平野を覆い自然の風景を作って来たのです。
そして人間による農業や牧畜が自然の景観美を一層引き立てて来たのです。
さてそこで、日本の代表的な美しい風景の富士山と箱根についてその形成の歴史を少し詳しく調べてみました。
まず富士山は8万年位前から3つの大きな火山爆発で出来た山です。ですから三つの山が重なって居ます。古富士火山は約8万年前~約1万年、そして新富士火山は約1万年前以降に爆発しています。
富士山の溶岩には流れにくくするSiO2 の含有量が少ないので、溶岩がサラサラと麓まで流れて美しい流線型の山になりました。そして爆発後の陥没も非常に少ないのが特徴です。これが富士山の美しい形を作ったのです。
日本には、このような条件をそなえた火山は非常に少ないのです。
多くは箱根山のように陥没していまい複雑な形をしたカルデラ地形になっています。
富士山の3つの山は下の写真の青色、ピンク、褐色の3つの色に塗り分けて示してあります。つくば市にある地質標本館で撮ってきました。
一方、隣の箱根はずうっと古く、16万年前の火山で出来ました。
富士山のように高い山でしたが、爆発のあと地下がガランドウになって山が陥没してしまい、カルデラ湖の芦の湖だけになったそうです。
そこで富士山と箱根の関連を歴史的に見てみましょう。
箱根の火山は60万年前から始まって10万年前には芦ノ湖や仙石原湖が出来ていたのです。仙石原湖は現在の湿生花園になっています。
ところが一方現在のような高い富士山は1万年前にやっと出来た新しい山なのです。ですから下の現在の写真にある富士山は存在していなかったのです。
当時の縄文時代の日本人が箱根に行っても西の方角には低い古富士火と愛鷹火山と小御岳火山が見えるだけです。むしろその向こうに高い褶曲山脈の南アルプスの山稜がくっきりと見えた筈です。
上が箱根の芦ノ湖から見た富士山と、下は三国峠から見た富士山です。昨年小生が撮った写真です。
上の写真にたいして、1万年前に新富士山ができた頃の絵を下に示します。
(出典:http://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol1/fjhis02.html)
新富士山が出来る前は小さな古富士火山と愛鷹火山と小御岳火山が存在していただけなのです。
このように自然の景観の出来あがって来た歴史を地質学的に少し調べると面白いものです。
上のような予備知識を持って、箱根ジオパークのホームページを開くとその面白さが一段と深く理解出来るのです。
(箱根ジオパーク:http://www.geopark.jp/geopark/hakone/index.html)
ジオパークの面白さはその周辺の火山や地殻変動を少し詳しくしらべると理解できるのです。ですからジオパークは自分で地質学を調べるための糸口やヒントになっているのです。(続く)
群馬県の山の中に下仁田という所があります。水田が無く、小麦やコンニャク、ネギなどの野菜しか採れない山郷です。しかし、養蚕業や織物産業もありかなり裕福です。
その名産品の下仁田ネギと下仁田コンニャクは全国的に有名です。
この山の里で少年期を過ごした横山美知彦さんの思い出の記をこのブログで何回か掲載いたしました。(末尾参考資料に一覧表があります)。その横山さんから、「名産 下仁田コンニャク」と題する本が先日送られて来ました。里見哲夫氏が書いた本です。
すぐに読んでみました。感動的な本でした。文章が分かりやすく、コンニャクの植物学的な説明から始まって、日本へ照葉文化時代(縄文時代)につたわってきた歴史が書いてあります。そして史実にみられる記録からコンニャクは昔から日本人に好まれてきた食材だったことが書いてあります。
続けて、コンニャク芋の栽培方法、コンニャク粉の製法、そしてコンニャクの作り方まで丁寧に説明してあります。そして新しいコンニャク料理まで紹介してあります。コンニャクを入れた下仁田カレー、下仁田のおまんじゅう、下仁田こんにゃくステーキ、玉こんにゃくのフライ、下仁田餃子、などなど珍しい料理の作り方が紹介してあります。
この本に感動した理由は分かりやすいことだけではないのです。著者の里見哲夫さんの溢れようなる郷土愛に感動したのです。ああ、郷土愛というものはこういうものだと感動したのです。
そこで最後ページにある著者の紹介欄を見ました。
1928年下仁田生まれ、1949年埼玉県農民講道館農業専門学校卒業、小中学校の理科教師、中学校長、下仁田町教育長、下仁田自然学校名誉顧問、同評議員、群馬県自然環境調査研究会顧問、と書いてあります。
成程と納得しました。
さて何時ものようにこの本の入手方法をご案内しようと思い、本の奥付を見ました。そうしたら非売品で会員だけに配布した本でした。
編集発行者は、「下仁田自然学校運営委員会、下仁田自然学校文庫6編集委員会」となっています。
問い合わせ先は「下仁田町自然史館内、下仁田自然学校」(電話:0274-70-3070)です。Mail address はnesasi@juno.ocn.ne.jp です。
この本の緒言に下仁田自然学校と下仁田ジオパークのことが紹介してあります。下仁田自然学校は14年前から活動を継続しています。
下仁田ジオパークは2011年9月に国の認定を受けました。
私の趣味の一つは地質学です。そこで早速、下仁田ジオパークを検索してその公式ホームページを見ました。
ジオパークとは地質学的に特徴のある特別な地域を保護、保全し将来の研究と一般への公開を目的にした広大な公園なのです。
下仁田ジオパークには不思議な形状をした妙義山があります。周囲の榛名山、赤城山、浅間山などは典型的な新しい火山ですが、妙義山は600万年前に活動した火山から噴き出た火山噴出物が長い年月雨風に削られることで現在のようなかたちになりました。
その上、下仁田ジオパークの地殻変動は非常に複雑で興味深い研究対象になっています。下仁田ジオパークの地質学的特徴はジオパークという公園はどんな公園でしょうか?・・・それを知ると日本の地質の形成の歴史が分かる という記事で紹介しました。
最後にこの原稿を校閲してくれた、下仁田自然学校文庫6編集委員の大河原順次郎氏へ感謝の意を表します。
尚、下に示した5枚の写真は上から順に「里見哲夫著、「名産 下仁田コンニャク」の表紙の写真、目次の写真、コンニャクの植物の絵の写真、そして下仁田町の現在の写真、最後は町を流れる鏑川の写真です。
横山美知彦著「戦中・戦後の山里の生活の思い出」(3)電気スタンド
横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(2)落し物
横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(1)夜網(よあみ)
横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景
「横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出」と
横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)
・
・
・
・
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘
===参考資料================
海底の堆積岩(水成岩)が湾曲(褶曲)して隆起して高い山々になる様子を説明した3枚の写真をお送りいたします。地質標本館の展示物です。
まず一番上の写真の説明文を熟読してから、2枚目の写真をご覧下さい。湾曲した岩の上に生えている樹木と真ん中に立っている人間と比較して下さい。岩の大きさが分かりますね。岩石の湾曲を地質学では褶曲(しゅうきょく)と言います。
この巨大な岩は宮城県牡鹿半島の海岸にありますが、今から1億1千万年前ころの白亜紀に褶曲して出来た堆積岩の写真です。なお堆積岩そのものは1億5千万年まえのジュラ紀に出来たものです。
つくば研究学園都市の地質標本館に大きな写真が展示してあります。
下の3枚目の写真は巨大な岩石が褶曲の実物大のレプリカです。褶曲の様子が明瞭に分かります。
地球上の高い山脈は海底が褶曲して盛り上がってできたので褶曲山脈といいます。アルプスもヒマラヤも褶曲山脈です。勿論、日本の北アルプ、中央アルプス、南アルプスも褶曲山脈です。
しかし日本は火山列島なので褶曲山脈の中の所々で火山が爆発して、山脈に火山が混じっています。温泉もおちこちに湧き出しているのです。
下の3枚目の写真を見ると、巨大な岩盤が飴か粘土細工のようにグニャリと曲がったように見えます。ですから塑性変形したと言いたくなります。
しかし、岩石は塑性変形しません。脆性割れをするだけです。
ですから一見、グニャリと塑性変形したように見えますが、岩盤の層と層の間に小さな脆性割れが無数に出来て岩盤全体が曲がったものです。
それは陶器の皿を割って、割れ目を少しずつ砕き、も一度接着剤で貼ると元の形とは少し違いますね。その連続が起きたのです。
平面の皿を二つに割って、割れ目を45度に磨きあげ、また貼りつけると直角に折れ曲がった皿ができあがりますね。
それと似たような現象で、巨大な岩盤がグニャリと曲がったのです。「脆性割れ」こそが盛り上がって褶曲山脈になる現象の本質なのです。
地質学とはこのような岩石の堆積や褶曲現象を研究する学問分野です。勿論、山々の生成過程における氷河による削り取り変形や水による浸食作用も研究します。
地球が生まれてからどのような自然現象が起き、地球がどのような地質構造になっていおるかを研究する自然科学の一分野なのです。
ジオパークとはこの地質学的現象が集中して明らかに観察出来る所とも言えます。従ってジオパークは地質学者の協力が無ければ指定も、認定も出来ません。
日本のジオパーク25ケ所:http://www.geopark.jp/geopark/
下の写真の真ん中に地質調査中の人間が写っています。その大きさと岩全体の大きさを比較してください。このようにして堆積岩が盛りあがって岩山になるのです。
巨大な岩の上に生えている樹木の大きさも注意してご覧ください。
下の写真は硬い岩石がすこしずつ割れて褶曲した様子を示していましす。
