後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人はアメリカ軍と共に戦う決心をすると中国は攻撃をしてこない!

2013年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事は、憲法改正で日本の自衛隊は今後、こんな多国籍軍として本格的に出陣する の続編です。

この記事ではまず中国の脅威も説明します。そして前回の記事で書いた多国籍軍をもっと具体的に書きます。

日本が将来戦争の惨禍に見舞われるとしたら、中国の先制攻撃で戦争が始まる場合です。その可能性が一番大きいのです。

それを避けて日本が平和であり続ける為には、アメリカとの軍事同盟をもっと強固にすることが一番有効なのです。

中国が日本へ攻め込んでも、アメリカ軍は動かないと中国側が判断すれば、中国が戦争を仕掛けてくる可能性があります。ですからこそアメリカとの軍事同盟を強化して中国が攻めて来ないようにしなければなりません。

安倍政権が集団自衛権を問題にしているのは、アメリカとの軍事同盟をもっと強固にし、日本を守ろうとているのです。

それを国連軍なら参加するという条件をつけて、国民に受けやすい言い方をしています。しかし本音はもっと危険な考えなのです。

アメリカとの軍事同盟をもっと強固するためには、国連が承認しなくてもアメリカが同盟国と共同で戦争をする場合には、日本が参戦すべきだという考えなのです。

ベトナム戦争で韓国兵がアメリカ兵と共に血を流して奮戦したのです。そのお蔭でアメリカと韓国の軍事同盟は非常に強固なのです。

ですからこそ北朝鮮は韓国へ攻め込んで来ません。アメリカ軍が間髪を入れずに前線へ出陣するから北朝鮮は手が出せないのです。

日本とアメリカは共に血を流して戦争をしたことがありません。日本人は戦いを極端に嫌がります。

日米安保条約で今まではアメリカ軍が一方的に戦争の抑止力になって日本を守って来たのです。しかしアメリカの世界のリーダーとしての指導力が低下しているのです。弱気になりつつあるアメリカ人は、一緒に血を流そうとしない日本人へ内心嫌気がさしています。

日本とアメリカの間に隙間が出来つつあるのです。

この隙間を埋め、強固な軍事同盟にしようとしているのが安倍政権の言う「集団自衛権」なのです。

昨日の読売新聞の一面に、集団自衛権の行使に関する政府の懇談会の座長代理をしている北岡伸一氏が日本の安全保障に関して実に明快な解説を書いています。

この解説では昔の日本が何故やすやすと戦争を始めたかという5つの条件を明示しています。

(1)昔の日本人は領土が拡大できれば日本の安全と繁栄が保障されると確信していた。

(2)攻め込む中国の軍隊は弱いので日本軍の損害が少ないと信じていた。

(3)国際社会は無力で日本が中国へ攻め込んでも有効な干渉が出来ないと判断していた。

(4)日本にはシビリアンコントロールが無かったので、日本軍には政治家の統制が効かなかった。軍の勝手な判断で戦線を拡大出来た。

(5)戦前の日本には言論の自由が無かった。軍が言論統制を強化し国民の戦意を扇動出来た。

以上の5つの条件は現在の日本にはあてはまらないので自衛隊の装備を強化したり、アメリカ軍との連携を強めても日本が先制攻撃をすることはありえないと解説しているのです。

そして以上の5つの条件を現在の中国に当てはめてみると言論統制の強い独裁国家の中国にはかなりあてはまると書いています。

ですからこそ日本を攻撃してくる可能性がある国として中国を指摘しています。

アメリカとの軍事同盟を強化するためには日本が共同で作戦に参加出来るように日本の法律を変える必要があるのです。その方向の努力をしているのが安倍政権です。

しかしアメリカとの軍事同盟強化には法整備だけでは達成できません。

日本人の一人一人がアメリカ兵と共に戦場で血を流す決心をしなければなりません。その覚悟の有無をアメリカ人は注意深く見ています。

例えば仮にアメリカ軍がイランへ攻め込んだとします。日本の自衛隊が間髪を入れずにイランの前線に出陣するでしょうか?日本人の一人一人がアメリカ兵と共に戦場で血を流す決心さえしていれば出陣が可能です。

集団自衛権とはそういう事なのです。

以上の考え方に対する反論はこの続編で書く予定です。

あなたは戦場で血を流す覚悟が出来るでしょうか。(続く)

それがそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下に中国軍の航空母艦と、戦闘機と戦車隊の写真を示します。

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上高地の魅力(3)巨木の下の道を歩く楽しさ

2013年09月22日 | 写真

上高地の大正池から河童橋までの4kmほどの遊歩道は高齢者でも歩けるように平らにならした道がついています。梓川ぞいの湿地帯に大きな樹木が茂り、その下を歩くのです。

暗い樹林の中を抜けると明るい草地に出ます。

田代池の美しさに見とれた後は又暗い森の中の道です。田代橋の欄干から上流と下流の風景写真を撮ってまた歩きます。

中の瀬を過ぎると明るい梓川ぞいの白樺並木道になります。

歩いていると風景が次々と変わって行くので楽しいのです。こんな魅力的な遊歩道は他には知りません。

下にそのような楽しい遊歩道の写真をお送りいたします。ご自身が散歩しているとご想像しながらお楽しみ下さい。

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上は大正池から田代池へ続く樹林の中の道です。田代池までは徒歩25分です。

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田代池のそばまで来ると上のような明るい草原が広がっています。草紅葉が綺麗です。田代池はこの場所から右へ40mほど入り込んだ場所にあります。

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上のような道を田代池から25分歩くと田代橋に出ます。

そこから中の瀬を通過して河童橋の見える所まで来ると下の写真のように白樺並木道になります。田代橋から河童橋までは徒歩20分です。

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田代橋の所で右折して帝国ホテルによって一休みしました。

巨木に会うと写真を撮ったりします。そんな道草をするので大正池から河童橋まで2時間ほどかかりました。

昼食は何時ものように帝国ホテルで摂うとしましたが時間が早すぎてレストランが開店していませんでした。河童橋の向うの白樺荘で「山賊バーガー(トリの唐揚げ)」とコカコーラで済ませました。

食後、河童橋の近くのベンチに長い間座って、まじかに迫る穂高連峰と梓川をあきずに眺めていました。そこからバスの駐車場までは徒歩8分でした。

下に巨木の写真をお送り致します。静かな楽しい散歩道です。(終わり)

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今日はお彼岸、亡くなった人を思い出しましょう!お墓詣りをしましょう!

2013年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム

月日の流れは早いもので秋のお彼岸になりました。春と秋のお彼岸と、夏のお盆には亡くなった父母や祖父母、伯父叔母や恩人達のことを思い出します。

私の父母や祖父母の墓は遠方の仙台市と兵庫県にあるので墓参りにめったに行けません。仙台に住む弟夫妻が良く参ってくれているので安心しています。小金井の近くにある家内の父母、祖父母の墓にはよく行きます。ついでに私の祖先の冥福も祈って来ます。

世の中には先祖の墓の無い人も多いものです。その方々はお彼岸やお盆に父母のことをを思い出し、いろいろなことを考えます。これも墓参りと同じことです。

亡くなった人へ感謝と憐れみを感じます。別に墓参りに行く必要はありません。

私は墓が有っても良いが、墓が無くても良いと信じています。亡くなった人々を偲び感謝することが広い意味での「墓参り」だと信じています。

そして血縁は無くても遠く外国から来て、日本の土になった人々のお墓も想います。その墓の写真を見て憐みを感じます。冥福を祈ります。

そのような墓の写真を下にお送りします。

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上と下の写真は下田にある玉泉寺にあるアメリカ水兵5人、ロシア水兵3人のお墓です。玉泉寺の代々の住職が異国の土になった水兵たちを憐れんで供養を続けているお墓です。

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下は函館にあるロシア正教の墓地です。信者だった神の僕(しもべ)のロシア人と日本人が一緒に眠っています。墓地は現在の日本正教の信者が守っています。

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上は横浜の山の手にある外人墓地の風景です。いろいろな国の人が眠っていますが、イギリス水兵の墓が多いようです。

日本人は上の写真のように無名の外国人の墓を大切にしています。異国の土になった死者を憐み、その冥福を祈っているのです。

わたしはそのような日本人が大好きです。誇りに思っています。

外人墓地といえば普通欧米人の聖職者でない人々の墓地のことです。聖職者の墓地は別にあります。下にその一例としてお世話になったヨゼフ・ムニ神父様のお墓を示します。

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写真の右側の質素な木の十字墓がヨゼフ・ムニ神父様のお墓です。

この隣にはカトリック東京司教区の全ての神父様を合葬した黒大理石の立派な墓があります。

その神父様たちの名前の列の中にある塚本金明神父様の名前に触って冥福を祈ります。私たち夫婦へ洗礼を授けてくれた神父さまです。

さて、下田の外人墓地は日本で初めての欧米人の外人墓地になります。

ちなみに中国人や百済、新羅、高句麗の人々の墓地は外人墓地とは言いません。

埼玉県の高麗郡にある高麗王の墓地は古いほうです。高麗王は戦いに敗れ、日本へ亡命し、大和朝廷から埼玉県に領地を貰ったのです。

そして唐の僧、鑑真のお墓は何処にあるのでしょうか。

この記事を読んで下さった方々はきっとご自分の父母、祖父母、親類縁者や恩人達のことを思い出していたと信じています。それは広い意味での墓参りと私は固く信じています。

(示した墓地の写真は全て私が折々に撮った写真です。)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====玉泉寺について===================

 玉泉寺略年表      

天正年間
            (1573-1592)
創建
嘉永元年
            (1848)
現本堂落慶
嘉永7年 日露和親条約第2回、第3回の交渉の場となる。
安政3年 アメリカ総領事館が開設
安政6年 アメリカ総領事館を閉鎖
昭和2年 ハリス記念碑の建立
昭和26年 国の文化財「史蹟」に指定される。
昭和54年 第39代アメリカ合衆国ジミー・カーター大統領の来寺
平成3年 天皇、皇后両陛下の行幸啓を賜る。

日本にある世界遺産と海外の世界遺産と比較して見よう!

2013年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

世界遺産とは国連のユネスコが人類共通の貴重な遺産を認定して公表したものです。その種類は大雑把にいうと2種類で、自然遺産と文化遺産です。

日本の世界遺産は自然遺産が4カ所で、文化遺産は13件です。

これをアジア各国や世界全体の自然遺産と文化遺産に対して比較してみると日本の自然景観の特徴や文化的な特徴がより鮮明に理解されると思います。

そこで先ず日本の世界遺産の図面と一覧表を示します。

(図面の出典は、http://search.seesaa.jp/%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3/index.htmlです。)

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文化遺産:(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3です。)

法隆寺地域の仏教建造物1993年12月)

姫路城(1993年12月)

古都京都の文化財1994年12月)

白川郷・五箇山の合掌造り集落1995年12月)

原爆ドーム1996年12月)

厳島神社(1996年12月)

古都奈良の文化財1998年12月)

日光の社寺1999年12月)

琉球王国のグスク及び関連遺産群2000年12月)

紀伊山地の霊場と参詣道2004年7月)

石見銀山遺跡とその文化的景観2007年6月)

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群2011年6月)

富士山―信仰の対象と芸術の源泉2013年6月) 

自然遺産:

白神山地(1993年12月)

屋久島(1993年12月)

知床2005年7月)

小笠原諸島(2011年6月)

さて上記の日本の世界遺産に対してアジア各国にある世界遺産の一覧表を以下に示します。(出典は、http://wh.sekaiisan-yay.jp/alllist/alllist.phpです。)

国名国別件数世界遺産名種別登録年
インド 01 アジャンター石窟群 文化   1983  
インド 02 エローラ石窟群 文化   1983  
インド 03 アーグラ城塞 文化   1983  
インド 04 タージ・マハル 文化   1983  
インド 05 コナーラクの太陽神寺院 文化   1984  
インド 06 マハーバリプラムの建造物群 文化   1984  
インド 07 カジランガ国立公園 自然   1985  
インド 08 マナス野生生物保護区 自然 1985  
インド 09 ケオラデオ国立公園 自然   1985  
インド 10 ゴアの教会群と修道院群 文化   1986  
インド 11 カジュラーホの建造物群 文化   1986  
インド 12 ハンピの建造物群 文化   1986  
インド 13 ファテープル・シークリー 文化   1986  
インド 14 パッタダカルの建造物群 文化   1987  
インド 15 エレファンタ石窟群 文化   1987  
インド 16 大チョーラ朝寺院群 文化   1987 2004
インド 17 スンダルバンス国立公園 自然   1987  
インド 18 ナンダ・デヴィ国立公園及び花の谷国立公園 自然   1988 2005
インド 19 サーンチーの仏教建造物群 文化   1989  
インド 20 デリーのフマユーン廟 文化   1993  
インド 21 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群 文化   1993  
インド 22 インドの山岳鉄道群 文化   1999 2005,2008  
インド 23 ブッダガヤの大菩提寺 文化   2002  
インド 24 ビンベットカのロック・シェルター群 文化   2003  
インド 25 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(旧名ヴィクトリア・ターミナス) 文化   2004  

インド 26 チャンパネール-パーヴァガドゥ遺跡公園 文化   2004  

インド 27 レッド・フォートの建造物群 文化   2007  

インド 28 ジャイプールにあるジャンタール・マンタール 文化 2010
インド 29 西ガーツ山脈 自然 2012
インド 30 Hill Forts of Rajasthan (ラージャスターン州の山城群) 文化 2013
インドネシア 01 ボロブドゥル寺院遺跡群 文化   1991  

インドネシア 02 ウジュン・クロン国立公園 自然   1991  
インドネシア 03 コモド国立公園 自然   1991  
インドネシア 04 プランバナン寺院遺跡群 文化   1991  

インドネシア 05 サンギラン初期人類遺跡 文化   1996  

インドネシア 06 ロレンツ国立公園 自然   1999  
インドネシア 07 スマトラの熱帯雨林遺産 自然 2004  
インドネシア 08 バリ州の文化的景観:トリ・ヒタ・カラナ哲学に基づくスバック灌漑システム 文化   2012  
韓国 01 石窟庵(ソックラム)と仏国寺(プルグクサ) 文化   1995  

韓国 02 八萬大蔵経の納められた伽倻山海印寺(カヤサンヘインサ) 文化   1995  

韓国 03 宗廟(チョンミョ) 文化   1995  

韓国 04 昌徳宮(チャンドックン) 文化   1997  

韓国 05 華城(ファソン) 文化   1997  

韓国 06 慶州(キョンジュ)歴史地域 文化   2000  

韓国 07 高敞(コチャン)、和順(ファスン)、江華(クアンファ)の支石墓群跡 文化   2000  

韓国 08 済州火山島と溶岩洞窟群 自然   2007  

韓国 09 朝鮮王朝の王墓群 文化 2009

韓国 10 韓国の歴史的集落群:河回と良洞 文化 2010
カンボジア 01 アンコール 文化   1992  
カンボジア 02 プレア・ヴィヘア寺院 文化   2008  
北朝鮮 01 高句麗(コグリョ)古墳群 文化   2004  
北朝鮮 02 Historic Monuments and Sites in Kaesong (開城(ケソン)の文化財と遺跡群) 文化   2013  
シンガポール - - - - - - -
スリランカ 01 聖地アヌラーダプラ 文化   1982  
スリランカ 02 古代都市ポロンナルワ 文化   1982  
スリランカ 03 古代都市シギリヤ 文化   1982  

スリランカ 04 シンハラジャ森林保護区 自然   1988  

スリランカ 05 聖地キャンディ 文化   1988  

スリランカ 06 ゴール旧市街とその要塞群 文化   1988  

スリランカ 07 ダンブッラの黄金寺院 文化   1991  

スリランカ 08 スリランカ中央高原 自然 2010
タイ 01 古代都市スコタイと周辺の古代都市群 文化   1991  

タイ 02 古都アユタヤ 文化   1991  

タイ 03 トゥンヤイ-ファイ・カ・ケン野生生物保護区群 自然   1991  
タイ 04 バン・チアンの古代遺跡 文化   1992  

タイ 05 ドン・パヤーイェン‐カオ・ヤイ森林群 自然   2005  

中国 01 泰山(タイシャン) 複合   1987  
中国 02 万里(ワンリー)の長城(チャンチョン) 文化   1987  

中国 03 北京(ベイジン)と瀋陽(シェンヤン)の明(ミン)・清(チン)朝の皇宮群 文化   1987 2004

中国 04 莫高窟(モーガオクー) 文化   1987  

中国 05 秦の始皇陵(チンシーホワンリン) 文化   1987  

中国 06 周口店(チョウコウティエン)の北京原人遺跡 文化   1987  

中国 07 黄山(ホワンシャン) 複合   1990  
中国 08 九寨溝(チウチャイゴウ)の渓谷の景観と歴史地域 自然   1992  

中国 09 黄龍(ホワンロン)の景観と歴史地域 自然   1992  

中国 10 武陵源(ウーリンユワン)の自然景観と歴史地域 自然   1992  
中国 11 承徳(チョントー)の避暑山荘(ピーシュシャンチョワン)と外八廟(ワイパーミャオ) 文化   1994  
中国 12 曲阜(チュイフー)の孔廟(コンミャオ)、孔林(コンリン)、孔府(コンフー) 文化   1994  
中国 13 武当山(ウータンシャン)の古代建築物群 文化   1994  
中国 14 ラサのポタラ宮歴史地区 文化   1994 2000,2001  
中国 15 廬山(ルーシャン)国立公園 文化   1996  
中国 16 峨眉山(オーメイシャン)と楽山(ローシャン)大仏 複合   1996  

中国 17 麗江(リジャン)旧市街 文化   1997  
中国 18 古都平遥(ピンイャウ) 文化   1997  

中国 19 蘇州古典園林(スゥツォグデンイェンリン) 文化   1997 2000
中国 20 頤和園(イホウイワン)、北京(ベイジン)の皇帝の庭園 文化   1998  

中国 21 天壇(ティエンタン):北京(ベイジン)の皇帝の廟壇 文化   1998  

中国 22 武夷山(ウイシャン) 複合   1999  
中国 23 大足石刻(ダァズシク) 文化   1999  

中国 24 青城山(チンチャンシェン)と都江堰(デゥジャンイェン)水利(灌漑)施設 文化   2000  

中国 25 安徽(エンフィ)南部の古村落-西逓(シーディ)・宏村(ホンツゥン) 文化   2000  
中国 26 龍門(ロンメン)石窟 文化   2000  

中国 27 明(ミン)・清(チン)朝の皇帝陵墓群 文化   2000 2003,2004

中国 28 雲崗石窟(ユンガンシークー) 文化   2001  

中国 29 雲南(ユナン)三江併流の保護地域群 自然   2003  
中国 30 古代高句麗(コグリ)王国の首都と古墳群 文化   2004  
中国 31 マカオ歴史地区 文化   2005  
中国 32 殷墟(インシー) 文化   2006  
中国 33 四川(スツゥアン)ジャイアントパンダ保護区群 自然   2006  
中国 34 開平の望楼群と村落 文化   2007  
中国 35 中国南部カルスト 自然   2007  

中国 36 福建の土楼 文化   2008  
中国 37 三清山国立公園 自然   2008  
中国 38 五台山 文化 2009
中国 39 中国丹霞 自然 2010
中国 40 河南登封の文化財”天地之中” 文化 2010
中国 41 杭州西湖の文化的景観 文化 2011
中国 42 澄江の化石産地 自然 2012
中国 43 上都(ザナドゥ)の遺跡 文化 2012
中国 44 Xinjiang Tianshan (新疆の天山) 自然 2013
中国 45 Cultural Landscape of Honghe Hani Rice Terraces (紅河のハニ族の棚田の文化的景観) 文化 2013
日本 01 法隆寺地域の仏教建造物 文化   1993  
日本 02 姫路城 文化   1993  
日本 03 屋久島 自然   1993  
日本 04 白神山地 自然   1993  
日本 05 古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市) 文化   1994  
日本 06 白川郷・五箇山の合掌造り集落 文化   1995  
日本 07 原爆ドーム 文化   1996  
日本 08 厳島神社 文化   1996  
日本 09 古都奈良の文化財 文化   1998  
日本 10 日光の社寺 文化   1999  
日本 11 琉球王国のグスク及び関連遺産群 文化   2000  

日本 12 紀伊山地の霊場と参詣道 文化   2004  
日本 13 知床 自然   2005  

日本 14 石見銀山遺跡とその文化的景観 文化   2007  
日本 15 小笠原諸島 自然 2011
日本 16 平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群- 文化 2011
日本 17 Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration (富士山-信仰の対象と芸術の源泉) 文化 2013

ネパール 01 サガルマータ国立公園 自然   1979  
ネパール 02 カトマンズの谷 文化   1979 2006
ネパール 03 ロイヤル・チトワン国立公園 自然   1984  
ネパール 04 仏陀の生誕地ルンビニ 文化   1997  
パキスタン 01 モヘンジョダロの遺跡群 文化   1980  
パキスタン 02 タキシラ 文化   1980  
パキスタン 03 タフティ-バヒーの仏教遺跡群とサライ-バロールの近隣都市遺跡群 文化   1980  
パキスタン 04 タッターの文化財 文化   1981  
パキスタン 05 ラホールの城塞とシャーリマール庭園 文化 1981  
パキスタン 06 ロータス城塞 文化   1997  
バングラデシュ 01 バゲルハットのモスク都市 文化   1985  
バングラデシュ 02 パハルプールの仏教寺院遺跡群 文化   1985  
バングラデシュ 03 シュンドルボン 自然   1997  
東ティモール - - - - - - -

フィリピン 01 トゥバタハ岩礁自然公園 自然   1993 2009
フィリピン 02 フィリピンのバロック様式教会群 文化   1993  
フィリピン 03 フィリピン・コルディリェーラの棚田群 文化 1995  
フィリピン 04 古都ビガン 文化   1999  
フィリピン 05 プエルト-プリンセサ地下河川国立公園 自然   1999  
ブータン - - - - - - -

ブルネイ - - - - - - -

ベトナム 01 フエの建造物群 文化   1993  

ベトナム 02 ハロン湾 自然   1994 2000

ベトナム 03 古都ホイアン 文化   1999  

ベトナム 04 ミーソン聖域 文化   1999  

ベトナム 05 フォンニャ-ケバン国立公園 自然   2003  

ベトナム 06 ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区 文化 2010
ベトナム 07 ホー王朝の城塞 文化 2011
マレーシア 01 キナバル自然公園 自然   2000  
マレーシア 02 グヌン・ムル国立公園 自然   2000  
マレーシア 03 マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群 文化 2008
マレーシア 04 レンゴン渓谷の考古遺跡 文化 2012  
ミャンマー - - - - - - -
モルディブ - - - - - - -
モンゴル  / ロシア 01 ウヴス・ヌール盆地 自然   2003  
モンゴル 02 オルホン渓谷文化的景観 文化   2004  
モンゴル 03 モンゴル・アルタイ山系の岩絵群 文化 2011
ラオス 01 ルアン・パバンの町 文化   1995  
ラオス 02 チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群 文化   2001  

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上の表で顕著なことは古くから文化の栄えたインドと中国には実に数多くの世界遺産、とくに文化遺産が存在している事実です。

これらに比較して日本の世界遺産は数が少ないと思われます。

さて国連のユネスコに世界遺産として認定されるとどんな良いことが起きるのでしょうか?

認定されたからといって国連から補助金が出るわけではありません。

しかし世界中の旅行代理店が観光客の訪問先として世界遺産を紹介します。

そして世界遺産を数カ所組んだパック旅行の企画も作ります。

兎に角、観光客がどっと訪問するのです。宿泊代金や交通費やお土産購入金などど多額のお金が入るのです。

この経済効果は莫大だと言われています。

そういう観点から見ると日本の世界遺産の数は少な過ぎるようです。

関係各位の一層の努力を期待しています。

下に今年決まった富士山の写真、白川郷の合掌造りの家の写真、そして姫路城の写真を示します。

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上高地の魅力(2)梓川や田代池の水の美しさ

2013年09月21日 | 写真

上高地は昔は神河内と書いていました。

田代池や梓川のほとりを歩いていると、透明な水が豊かにながれているのが見えます。

水はあくまでも透明で川底まで見えます。よく見るとヤマメや虹鱒が数匹泳いでいるのも見えます。

そんな清流を眺めていると、自分の穢れや罪をさっぱりと流してくれているようなのです。

伊勢神宮の五十鈴川の岸辺に立って、その透明な流れを眺めていた頃を思い出しました。上高地はやはり神河内と書いたほうが良いと感じます。

そんな水辺の写真をお送り致します。

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大正池から帝国ホテルに行く40分位の道の丁度、中間に田代池という美しい池があります。

柔らかくおだやかに水が流れています。それは本当にいやされる風景なのです。不思議な景観です。上と下がその写真です。

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帝国ホテルの下の田代橋から下流の方向を見ると焼岳が見えます。

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中の瀬付近から見た梓川です。向うに岳沢の雪渓が見えるので雪渓の解けた水も合流しているようです。

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同じ梓川でも歩いて行くにしたがって風景がいろいろ変っていって飽きません。疲れを忘れつい歩いてしまいます。撮影は9月19日でした。(続く)


憲法改正で日本の自衛隊は今後、こんな多国籍軍として本格的に出陣する

2013年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

安倍総理は憲法を改正して自衛隊の海外派兵を自由に行いたいと思っています。

憲法を改正しても日本独自に他国を攻撃を始めて、戦争をすることは固く禁じるのは当然です。

しかし中国の武装漁民や中国軍が尖閣諸島に上陸すれば即座に反撃し、駆逐出来るように憲法を改正し、即座の出陣を合法的にするための関連法規を作る方向を考えています。

多くの国民は尖閣諸島や竹島問題で頭にきていますので上記の憲法改正と法整備には賛成しているようです。

しかしここには非常に大きな落とし穴が待っているのです。

安倍総理の本当の考えは軍事同盟国のアメリカが軍隊を動かせば即刻、自衛隊も出陣し、参戦することを可能にする法整備をしたいのです。

尖閣諸島の問題よりもこちらの方向が非常に危険な方向なのです。

国連が反対してもアメリカが主体になって多国籍軍を編成したら日本の自衛隊も即刻出陣するようになるのです。

今度のシリア攻撃の発想は国連の安保理の否決にもかかわらず、米英仏を中心に30ケ国が多国籍軍を編成に参加すると言っていたのです。

幸いプーチンさんの説得で、シリア政府が化学兵器の国連管理、廃棄に同意したのでアメリカの武力攻撃は回避できたのです。

しかしもし武力攻撃が始まった場合、安倍総理は自衛隊の補給艦くらいは中東地区へ派遣して、アメリカ軍の作戦を支援したと思います。

掃海艇や補給艦や駆逐艦(自衛艦)の中近東地区への派遣の前例は既にあるのですから問題ありません。

このようなアメリカを主体にした多国籍軍への従来の参加はあくまでも後方支援でした。しかし憲法を改正すると、アメリカ軍とともに最前線に出て戦う方向へ変わって行く可能性があるのです。

戦場の現場では後方支援中でも敵が押し返して来たら、そこは最前線になるのです。ですから現場感覚としては最前線も後方支援も区別をすることは無意味なのです。

アメリカ軍が武力攻撃をする場合は規模が大きく犠牲者の数も多いのです。

憲法改正の向うにはこのような危険な、そして大きな落とし穴があるのです。

しかし自衛隊の海外出陣を国連の平和維持軍(PKF)に限定するという原則を厳守すれば自衛隊の海外派兵による犠牲者の数を最小限に出来るのです。

下に付記したアメリカ軍が主体になった国際連合軍の3つの例国連平和維持軍(PKF) の一覧表をご覧下さい。

ソ連崩壊後の1990年代以後の国連の平和維持軍の活動地目的は主にアフリカの国内戦争の監視と停戦にあります。

将来の自衛隊の海外派兵もその多くはアフリカになると予想されます。

それに備えて自衛隊ではアフリカのさまざまの民族の文化や行動様式を研究して派兵の準備をしているよいうです。

自衛隊の海外派兵で将来、日本人が戦死する可能性があるのです。

この可能性に対して日本人は心の準備をしているでしょうか?戦死に対する国家的償いはどうなるのでしょうか?法整備は出来ているのでしょうか?

安倍総理は「日本を取り戻す!」と叫んでいますが、彼は皆様へ心の準備をしないさいと叫んでいるのです。

重大な問題なので続編で。「日本人の心の準備」について書いてみたいと存じます。

それはそれとして、 

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

以下に参考一覧表と自衛隊の装備の写真を付けます。

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アメリカ軍が主体になった国際連合軍の3つの例:

(以下の一覧表の出典は、http://ichiranya.com/society_culture/080-allied_forces.phpです。)

国際治安支援部隊 アフガニスタンの治安維持とアフガニスタンの政府支援を目的とした多国籍軍で、 2001年のボン合意及び、2001年12月20日の国連安保理決議1386号を基に設立されました。

現在は多国籍軍からNATO軍に移譲され、2014年までの撤退を計画しています。
有志連合 Coalition of the willing

2003年のイラク戦争時の多国籍軍で、アメリカ合衆国を中心に、イギリス、オーストラリア、ポーランドなどが参加し 「イラクの自由作戦」としてイラクに侵攻を行いました。
イラク駐留軍 2003年のイラク戦争後にイラクに駐留した各国の軍隊でMulti-National Force(多国籍軍)と呼ばれています。

イラク駐留軍には、アメリカ、イギリス、韓国、イタリア、ポーランド、ウクライナ、スペイン、オランダ、オーストラリア、 日本、ルーマニア、デンマーク、ブルガリア、タイ、エルサルバドル、ホンジュラス、ドミニカ、ハンガリー、シンガポール、 グルジア、アゼルバイジャン、フィジー、モンゴル、ポルトガル、ラトビア、リトアニア、ニカラグア、スロバキア、フィリピン、 チェコ、アルバニア、トンガ、エストニア、マケドニア、カザフスタン、モルドバ、ノルウェーが参加しました。

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国連平和維持軍(PKF)
国際連合スーダン派遣団 (UNMIS) 2005年3月24日から2011年9月30日にかけて国際連合安全保障理事会決議1590に基づき行われた国連平和維持活動で、 北部スーダン政府とスーダン人民解放軍の停戦監視などを行いました。

日本からも陸上自衛隊の自衛官2名が派遣されていました。
アフリカ連合ダルフール派遣団 (AMIS) 2004年7月から2007年12月にかけて国際連合安全保障理事会決議1590に基づき行われた国連平和維持活動で、 国際連合スーダン派遣団が起源となっています。

活動内容はスーダン政府とスーダン人民解放軍の包括的和平合意の維持を目的としています。
国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団 (UNAMID) 国際連合安全保障理事会決議1769に基づき、2007年7月31日から行われた国連平和維持活動で、 アフリカ連合ダルフール派遣団の内容を引き継いでいます。

国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団の兵員や文民警察官を含む26000人の人員が予定されています。
国際連合南スーダン派遣団(UNMISS) 国際連合安全保障理事会決議1996に基づき、2011年7月9日から行われた国連平和維持活動で、 北部スーダンから分離独立した南スーダン共和国の平和維持や治安維持を目的としています。

国際連合南スーダン派遣団は8000人規模の人員で行っています。
国際連合リベリア・ミッション(UNMIL) 国際連合安全保障理事会決議1509に基づき、2003年9月19日から行われた国連平和維持活動で、 第二次リベリア内戦の停戦合意の検証、武装勢力の武力解除、治安維持、和平合意の推進などを目的としています。
国際連合コンゴ民主共和国ミッション(MONUC) 国際連合安全保障理事会決議1291に基づき、2000年2月24日から行われた国連平和維持活動で、 第二次コンゴ戦争の停戦監視を行う平和維持部隊です。

兵員、文民警官を含む約1万7000名の規模を予定しています。
国際連合西サハラ住民投票ミッション(MINURSO) 国際連合安全保障理事会決議690に基づき、1991年4月29日から行われた国連平和維持活動で、 独立を目指すポリサリオ戦線とモロッコとの戦闘の停戦、独立の是非を問う住民投票の実施を目的としています。
国際連合中央アフリカ・チャド・ミッション(MINURCAT) 国際連合安全保障理事会決議1778に基づき、2007年9月25日から行われた国連平和維持活動で、 ダルフール紛争で状況が不安定となっている、中央アフリカとチャドにおいて治安維持や住民の人権保護などを目的としています。
国際連合コートジボワール活動(UNOCI) 国際連合安全保障理事会決議1528に基づき、2004年2月27日から行われた国連平和維持活動で、 コートジボワール内戦の停戦監視、武装解除、人道支援を目的に行っています。
国際連合東ティモール統合ミッション(UNMIT) 国際連合安全保障理事会決議1704に基づき、2006年8月25日から行われた国連平和維持活動で、 独立直後の東ティモールの治安維持、選挙の実施支援などを目的としています。
 
国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK) 国際連合安全保障理事会決議1244に基づき、1999年6月10日から行われた国連平和維持活動で、 コソボの文民統治、コソボの自治、インフラの整備、各種人道支援、避難民の帰還などを目的としています。
国際連合グルジア監視団(UNOMIG) 国際連合安全保障理事会決議858に基づき、1993年8月24日から行われた国連平和維持活動で、 アブハジア紛争に伴い戦闘の停戦監視や平和維持を目的としています。 
 
国際連合レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)

国際連合安全保障理事会決議425に基づき、1978年3月19日から行われた国連平和維持活動で、 レバノンに侵攻したイスラエルの撤退の監視、戦闘の防止、レバノン市民への支援などを目的としています。   

 


上高地の魅力(1)山々の景観の美しさ

2013年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日の晩は平湯の奥飛騨ガーデンホテル焼岳に泊まり、昨日上高地を3時間ほど散策しました。

大正池でバスを降りて、梓川ぞいに田代池、田代橋、帝国ホテル、中の瀬、河童橋、そしてバスセンターに戻って来ました。大正池から田代橋まで45分、そこから帝国ホテルまで10分弱、そして中の瀬を通って河童橋まで30分、延べ4Km程の散歩です

滔々と流れる梓川の清流が見え隠れする湿地帯に広がる森の中に木道が完備していて歩きやすい道です。

空気が新鮮で樹木が美しいのでこの道は毎年家内と一緒に歩いています。何度行っても飽きないのです。

上高地の魅力を(1)山々の景観の美しさ、(2)梓川や田代池の水の美しさ、(3)巨木の下の道を歩く楽しさ、という3つのテーマに分けて写真を撮ることにしました。

今日の一回目は(1)山々の景観、をお送りいたします。

晴天でしたので山々がくっきりと見えました。下に昨日、撮った写真をお送り致します。

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大正池から見た穂高連峰です。学生の頃の1959年に行ったときは立ち枯れの木が林立していましたがその木々も朽ち果てて、ほんの数本が残っている状態になりました。風景も年を取って変わって行くのです。

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田代橋から河童橋の中間にある中の瀬から見た穂高と明神岳です。明神岳は右端の色の暗い山です。真ん中の白いものは岳沢の雪渓です。

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梓川を挟んで明神岳と対峙している山です。六百山と言うそうですが登山道もなく人が登らない山です。紅葉の季節に行くと川岸のカラマツ林が見事に紅葉し、素晴らしい風景になります。六百山のなかにカラマツが混じっていて、それも紅葉して美しい風景を作ります。

昨年は10月29日に行ったので下のような見事な黄葉でした。

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河童橋付近から梓川の下流の方向を見ると上の写真のように焼岳が見えます。大正年間に噴火して、流れ下った溶岩が梓川をせき止めて大正池ができました。

写真を撮ってくれた家内が大学生のころ小梨平にキャンプしてこの焼岳に登ったそうです。誰でも若い時は体力があるものです。

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大正池から4Kmほど上流の河童橋まで来ると岳沢の雪渓も真近かに見えます。

年老いて上高地を歩きながら大学生の頃、有房温泉から燕岳、常念岳、槍、南岳、大キレット、北穂、涸沢、徳合小屋と縦走して上高地に降りて来た時のことを思い出していました。

梓川の河原に茂っていた白樺の幹が白く輝いていました。そして上高地特有の川原の泥柳の枝が風で揺れている風景をとても神秘的に感じたものです。あれから茫々50年以上の歳月が流れてしまったのです。
ところで山々の名前にご興味のある方々のために名前を説明した写真を、http://www.kamikochikanko.com/kamikochi_mountain.htmlからお借りして下にお送りいたします。

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乗鞍岳、畳平へ登って先の戦争の狂気を想う

2013年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

乗鞍岳スカイラインという自動車道路が出来ています。

松本から高山への道を、上高地入口からさらに登り、安房峠トンネルを抜け、平湯バスセンターで一息つきます。1時間以上の狭い山岳道路を巨大な観光バスがゆっくり上ります。

そして平湯バスセンターからさらに1時間かけて「乗鞍スカイライン」を登ります。一般の自動車は通行禁止なのでバスとタクシーしか通っていません。

そこを登ると標高2700mの畳平という広大な駐車場に着きます。

その駐車場を囲むように魔王岳、恵比寿岳、不動岳、富士見岳、大黒岳、がぐるりと囲んでいます。

そして不動岳と富士見岳の間の尾根高くに、昔のコロナ観測所の白いドームが小さく見えます。

そのドームの奥には標高3026mの最高峰、剣ケ峯に続く険しい道があります。

大黒岳の足元には鶴ケ池という小さな火口湖のようなものがあります。

この畳平を取り囲むようにある峰々を総称して乗鞍岳と言っています。ですから乗鞍岳という峯はありません。

バスで登って畳平を1時間散策して来ました。

美しい高山植物の花の季節も過ぎ、樹木も無い、ただ岩稜が見えるだけのつまらない場所です。剣ヶ峰への登山を楽しむだけです。

穂高連峰や槍や常念岳、あるいは唐松岳、五竜岳、白馬や大キレットのような変化に富んだ風景がありません。登山としてもつまらない山です。

乗鞍岳は月の表面のように荒々しい岩稜があるだけです。

そこへ自動車道路が出来ているのです。標高2873mの旧コロナ観測所まで自動車道路が出来ているのです。

何故、こんな所に自動車道路があるのでしょうか?それを作った人は狂気のような情熱を持っていたに違いありません。

大変興味を持ち、乗鞍岳博物館というささやかな展示室に入り、展示の文章を丁寧に見て回りました。

そうしたら昭和17年、18年の頃に、旧日本軍が「陸軍航空研究所」を完成させるために軍用トラックの登れる道を作ったことが判りました。

陸軍航空研究所とは高高度で飛行機を飛ばすためのエンジンの開発研究をしていた施設だったのです。

空気の薄い高い空でエンジンの出力が落ちないように工夫を重ね、空気のスーパーチャージャーのようなものの開発をしていたのではないかと私は想像しました。

その為には敵のスパイが近よれないように、周囲に樹木の無い山でなければいけません。登山客も居ないような場所が好都合だったのです。

これで納得しました。戦争の狂気で道路建設作業を続けたのです。

戦後、その旧軍隊の道路を使ってコロナ研究所を作ったのです。

しかし太陽のコロナの研究も終わり、平成23年からは自然科学研究機構が管理している遺物になっています。何かに有効活用するようにいろいろ考えているようです。

乗鞍岳の畳平を散策しながら時代の移り変わりの激しさを想っていました。

下に一昨日撮った写真をお送りいたします。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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畳平に上がる乗鞍スカイラインは上の写真のような森林限界を過ぎやがて何も無い岩稜の風景に変わります。

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標高2700mの所に広い駐車場があります。上の写真は、その畳平から富士見岳を撮ったものです。富士見岳の中腹を斜め上の方向に上がっている道路がのコロナ観測所への自動車道路です。

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上は鶴ケ池です。左が大黒岳で右が富士見岳です。その間の鞍部まで歩いて行くと、やっと下界が見下ろせる展望台に出ました。

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上の写真はその展望台から見た山並みです。私には山々の名前が判りませんでした。

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上の写真の右側の岩稜が不動岳で真ん中の鞍部の左に小さくコロナ観測の白いドームが見えます。

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畳平から旧コロナ観測所まで40分かかるので登るのは諦めました。左の写真は、http://www.shimintimes.co.jp/yomi/isan/isan81.html からお借りしたものです。

右の写真は畳平の周囲の岩稜の名前の案内図です。一番高い剣ヶ峰まで健脚の人で90分かかるそうです。畳平から往復3時間の登山です。


昭和記念公園(3)大きな樹木の写真をお楽しみ下さい

2013年09月19日 | 写真

昭和記念公園の魅力の一つは巨大な樹木が亭々と梢を空高く伸ばしている光景です。土地が広いので根が深く、広く伸びているのです。写真は一昨日撮りました。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

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宇宙の写真を用いて、無宗教の人、仏教の人、キリスト教の人 を分類する方法・・・そして人生の達人になろ

2013年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム

宇宙は約136億年前に出来たと言われています。そして地球のある天の川銀河系は129億年前に出来ました。我々の住む地球は46億年前に出来たのです。

宇宙の半径は460億光年で、天の川銀河系の半径は5万光年で、隣のアンドロメダ銀河までは250万光年も離れています。

そして宇宙には1000億個の銀河が存在していると言われています。

それでは宇宙の写真を見てみましょう。

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(写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99 )

そしてついでに太陽系惑星を見ましょう。

Gplanetj1 

(写真の出典:http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9021/gplanetj.jpg

上に書いた宇宙の歴史と写真を用いて、それに対する理解の仕方で無宗教者、仏教徒、キリスト教徒を分類してみましょう。

(1)無宗教者

現在の人類につながる新人が生まれたのは約20万円前です。

神は人間が考えた空想のものですから宇宙の全ては単なる物理現象と化学現象です。

宇宙のすべてのの星や惑星は人間の科学の進歩で理解が詳細になるだけです。

人間の死は宇宙の中の小さな、極く小さな生物現象に過ぎないのです。

(2)仏教信者

お釈迦様はこの世の全てのものは必ず変化する。そして変化こそが物質の本質なのですと教えてくれました。

宇宙の中で星が生まれ、惑星が生まれ、お互いに衝突し、やがて消滅して行くのもお釈迦様の教え通りなのです。

ですからお釈迦様の教えは真理なのです。私はお釈迦様が全ての知恵の本質と信じています。その知恵を少しでも自分のものになるようにと毎日、お経を唱えています。

人間の死も宇宙の中の極く小さな変化の一つだけです。悲しむほどのことではありません。

(3)キリスト教信者

ただ独りの神様が136億年以上前から存在していて全宇宙を作ったのです。

半径460億光年というとてつもなく大きな宇宙の隅から隅まで作ったのです。

20万年前に人間を作りました。そして2000年前にイエス様をこの世に送ってくれたのです。

神は人間をも愛しています。その愛はイエス様を通うして、より一層強く人間へ働き掛けているのです。

人間の死はこの世から神様の足元に呼び集めてくれた結果起きるのです。

そして最後の審判の時、全ての人間は復活して生き返るのです。

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さて皆様は上に書いた3つのうち、どれがお好きでしょうか?どれを信じているのでしょうか?

その答えは他人へ言う必要など一切ありません。時々、自問自答してみれば良いだけの話です。

ところが答えは明確でないのが普通です。上の3つとも好きな人も多いのです。その上、神道や道教のような民族宗教も好きな人も多いのです。

そんな事も含めて宗教のことを気軽に考えるのが人生の達人なのだと思います。

達人は狂信しません。達人は宗教を軽蔑しません。達人は人を非難しません。

達人は全ての他人を許します。そして悠々と日々を過ごしているのです。

私もそういう達人になりたいものです。

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それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


 蜜蜂の好きな花々の写真をお送りいたします

2013年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム

石器時代や縄文時代の日本には砂糖がありませんでした。

しかし人間は甘い味が好きです。当時は野生の渋柿を乾した干し柿の甘さを楽しんだのでしょうか?あるいは野山にある蜂の巣から蜂蜜を採って賞味していたに違いありません。日本書紀には養蜂の記述があるそうです。平安時代にはアマヅラと言う植物から取った甘味を削った氷に掛けて食べるという話が「枕草子」にあります。

江戸時代には養蜂業が各地で行われていました。

明治維新以後は西洋風の養蜂技術が導入され、蜂蜜の生産量も増大します。

そこで興味が持たれるのは蜂達はどんな花々から蜜を集めているのかとう問題です。

いろいろ調べましたが、一番参考になったのは、「山田養蜂場ミツバチ研究支援サイト、(http://hobeey.bee-lab.jp/hobeeydb/db00/index.html)でした。

そこには蜜蜂の好きな花々が下のように紹介してありました。

蜜蜂の好きな花々の写真は以下のようになっています。花々の名前はこの記事の末尾に写真の順番通りに掲載してあります。

Astragal1_2Clover1

Corneliancherry1 Cornflower1 Dandelion1

Dogwood1 Elm1 Japaneseknotweed1

Maple1 Pea1 Pepperbush1

Plantain1 Robinia1 Sage1

Skunkcabbage1 Squash1 Sweetchestnut1

Touchmenot1 Vetch1 Horsebean1

Goldenrod1 Sunflower1 Holly1

そして養蜂の歴史についても「山田養蜂場ミツバチ研究支援サイト」の中に以下のように紹介されています。

(1)ヨーロッパの養蜂の歴史

 人間とミツバチとハチミツの歴史は古い。1919年には、スペインの東部、バレンシア近くのアラニア洞窟 Araña Cave で発見された壁画の中に、高所に梯子を掛け、穴の中にあるミツバチの巣から何かを採集している人の絵が見つかっている。壁画の描かれた年代は紀元前6000年頃と推定されている。次は数千年下って、ハチミツを濾すのにつかわれた、穴が穿かれた新石器時代の粘土容器がスイスで見つかっている。その後、スメール、バビロン、ヒッタイト、古代インド(ヴェーダ)などの古代文明の中に、ミツバチやハチミツの記述が登場する。
さらに古代エジプトでは、紀元前3500年頃、エジプトの2つの王国が統合された時、一方の王国の象徴としてミツバチのヒエログリフが使われている。そのエジプトでは、ハチミツの採集から保存までの様子を描いた絵が残されている。ギリシアでは、紀元前450年頃の巣が発掘されている。こうした技術はローマに継承された。その後、ヨーロッパ各地で養蜂が試みられた歴史は詳しくしらべられている。西洋におけるこうしたミツバチの文化は、彫刻、ガラス細工、コイン、宝石などの工芸品として残されている。こうした歴史は、Crane Ransome の本、(Crane83Ransome04) あるいは、International Bee Research Association British Bee Books79)などに紹介されている(Ransomeの本は、1937年に出版された本のDover社による復刻版である)。

(2)日本における蜜蜂の歴史
   
日本におけるミツバチとハチミツ利用の歴史も古く、最初の記述は日本書記に遡るという。平安時代の後期には、藤原宗輔(むねすけ)という公卿が、蜂飼大臣(はちかいのおとど)として今鏡や十訓抄に登場する。虫愛ずる姫君と同じで、これは珍談、奇談の主人公としてであるが、ハチが飼われていた証拠とも言える。江戸時代になると各地で養蜂活動が行なわれるようになり、その様子は、貝原益軒の「大和本草」、久世敦行の「家蜂畜養記」などに伺えると言う(飯田07)。中国の書を翻訳した「国訳本草綱目」にも、ミツバチとハチミツに関連した記述が断片的に紹介されている。江戸時代から明治初期には、養蜂はハチミツとロウを産生する地場産業に成長していた。これらのミツバチはニホンミツバチである。
日本にセイヨウミツバチが持ち込まれたのは、1877年(明治10年)であり、それ以後、西洋式の養蜂が広がり、ニホンミツバチを利用した養蜂は廃れていった。 

============終り=====================

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

レンゲ

Astragal

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ソバ

Buckwheat

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シロツメクサ

White Dutch clover(Ladino)

セイヨウサンシュユ

Cornelian cherry


昭和記念公園(1)広々した景観をお楽しみく下さい

2013年09月17日 | 写真

今日は3時間ほど昭和記念公園を散歩してきました。少し暑かったですが、空気が乾燥していて秋の風が吹いていました。昨日の台風に拭われて、空は抜けるような蒼さで広がっていました。

この公園はいろいろなテーマに別れた部分から成り立っていますが、兎に角広いのが魅力です。中心に「みんなの原っぱ」という芝生の広場があります。

その広々とした景観を下にお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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私は怒っている!・・・宮内庁は458基の陵墓を学術調査へ開放すべし!

2013年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は台風一過で、抜けるような青空が広がっています。気持ち良い日なのでカメラを持って少し遠方の公園にでも遊びに行きたいと思います。

しかし、その前に最近私が怒っているある問題をご紹介しておきます。

一言で云えば、宮内庁が数百におよぶ天皇家の古墳や墓の学術調査をかたくなに厳禁し続けている事実です。

宮内庁が天皇家の古墳と称して、学術調査を厳禁しているものの大部分は間違いなのです。それは今まで考古学者や古墳歴史学者によって度々、明快に指摘されています。

特に私自身も以下のような記事を掲載したので古墳の被葬者についてはいささかの見解があります。

関東地方の606基の古墳(1)埼玉県行田市の古墳群

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(5)山梨県にある30基の古墳とその分布

701年の大宝律令によって大和地方の豪族達から天皇制が生まれた

これらの記事を書いてしみじみ思うことは日本にある606基の古墳の被葬者は殆ど絶対に判明されないだろうという事実です。日本に漢字が伝承される前に大部分の古墳が造営されていますので古墳の石室内部には誰の墓と書かれていないのです。

下に茨城県ひたちなか市にある国史跡の虎塚古墳の石室の内部の写真を示します。

201003291935401
文字を知らない人々が作ったので意味不明の宗教的な図が描かれているだけです。(写真の出典は、http://d.hatena.ne.jp/kofun_info/です。)

これでは誰を葬ったか判りません。

それなのに宮内庁は末尾の一覧表のように存在さえ疑わしい古代の天皇の古墳まで考古学者の立ち入りを厳禁しているのです。

この表の天武天皇と持統天皇だけは当時の文献に天皇の号が用いられています。それ以前の天皇は後から天皇名を尊称として送り、天皇家の神聖さを宣言しているだけです。

それでは誰が天皇の古墳と決定(治定)したのでしょうか?

それは江戸幕府が何回かにわたって文獻や伝承を調べ以下の表のようにそれぞれの天皇の古墳を決定したのです。

しかし最近の考古学や古墳学の進歩によって大部分は天皇家の古墳だったという証拠が無いと判断されています。決定的に間違いだという結論も出ている古墳もあるのです。

宮内庁は古墳へ学者が入り、研究をすると大部分が間違いだと判明するのが怖いのです。

古墳は天皇家の信仰の対象だから学問調査が厳禁だと主張しています。

それは信仰というものを理解していない非常に未熟な宗教観なのです。

私はイエス様の行った奇蹟は全て信じています。しかし科学的にはその記述が完璧に間違っていることも理解しています。信じることと理解することの違いが宮内庁のお役人さんには判らないのです。無宗教であればこの矛盾が全く重要でないことが理解できないのです。

その上、そもそも古墳は日本国民の共通の文化財なのです。宮内庁という一役所の所有物でないのです。

私は天皇制に反対しているわけではありません。

科学的研究と信仰は全く別ものだと主張しているだけです。

宮内庁管理下の古墳研究厳禁にひどく怒っています。こんなことが近代国家である日本で許されて良いものでしょうか。

皆様のご意見を頂ければ嬉しく存じます。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====以下の表の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5 ======

天皇名陵名(読み)形式古墳名所在地治定時期
神武天皇 畝傍山東北陵
(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
円丘 四条ミサンザイ古墳
(神武田古墳)
奈良県橿原市大久保町 文久年間
綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵
(つきだのおかのえのみささぎ)
円丘 四条塚山古墳 奈良県橿原市四条町 1878年2月28日
安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵
(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)
山形 奈良県橿原市吉田町 文久年間
懿徳天皇 畝傍山南纖沙溪上陵
(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)
山形 奈良県橿原市西池尻町 文久年間
孝昭天皇 掖上博多山上陵
(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)
山形 奈良県御所市三室 元禄年間
孝安天皇 玉手丘上陵
(たまてのおかのえのみささぎ)
円丘 奈良県御所市玉手 文久年間
孝靈天皇 片丘馬坂陵
(かたおかのうまさかのみささぎ)
山形 奈良県北葛城郡王寺町本町3 元禄年間
孝元天皇 劔池嶋上陵
(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)
山形 中山塚1~3号墳 奈良県橿原市石川町 元禄年間
開化天皇 春日率川坂上陵
(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)
前方後円 念仏寺山古墳 奈良市油阪町 元禄年間
崇神天皇 山邊道勾岡上陵[12]
(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)
前方後円 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 文久年間
垂仁天皇 菅原伏見東陵
(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)
前方後円 宝来山古墳 奈良市尼辻西町 元禄年間
景行天皇 山邊道上陵
(やまのべのみちのえのみささぎ)
前方後円 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 文久年間
成務天皇 狹城盾列池後陵
(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
前方後円 佐紀石塚山古墳 奈良市山陵町 元禄年間
仲哀天皇 惠我長野西陵
(えがのながののにしのみささぎ)
前方後円 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺4 文久年間
應神天皇 惠我藻伏崗陵
(えがのもふしのおかのみささぎ)
前方後円 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田6 元禄年間
仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵
(もずのみみはらのなかのみささぎ)
前方後円 大山古墳 大阪府堺市堺区大仙町 元禄年間
履中天皇 百舌鳥耳原南陵
(もずのみみはらのみなみのみささぎ)
前方後円 石津丘古墳 大阪府堺市西区石津ヶ丘 元禄年間
反正天皇 百舌鳥耳原北陵
(もずのみみはらのきたのみささぎ)
前方後円 田出井山古墳 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2 元禄年間
允恭天皇 惠我長野北陵
(えがのながののきたのみささぎ)
前方後円 市ノ山古墳 大阪府藤井寺市国府1 文久年間
安康天皇 菅原伏見西陵
(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
方丘 奈良市宝来4 文久年間
雄略天皇 丹比高鷲原陵
(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
円丘 高鷲丸山古墳 大阪府羽曳野市島泉8 元禄年間
清寧天皇 河内坂門原陵
(こうちのさかどのはらのみささぎ)
前方後円 白髪山古墳 大阪府羽曳野市西浦6 元禄年間
顯宗天皇 傍丘磐坏丘南陵
(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)
前方後円 奈良県香芝市北今市 1889年6月1日
仁賢天皇 埴生坂本陵
(はにゅうのさかもとのみささぎ)
前方後円 野中ボケ山古墳 大阪府藤井寺市青山3 文久年間
武烈天皇 傍丘磐坏丘北陵
(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)
山形 奈良県香芝市今泉 1889年6月1日
繼體天皇 三嶋藍野陵
(みしまのあいののみささぎ)
前方後円 太田茶臼山古墳 大阪府茨木市太田3 享保年間
安閑天皇 古市高屋丘陵
(ふるちのたかやのおかのみささぎ)
前方後円 高屋築山古墳 大阪府羽曳野市古市5 元禄年間
宣化天皇 身狹桃花鳥坂上陵
(むさのつきさかのえのみささぎ)
前方後円 鳥屋ミサンザイ古墳 奈良県橿原市鳥屋町 元禄年間
欽明天皇 檜隈坂合陵
(ひのくまのさかあいのみささぎ)
前方後円 平田梅山古墳 奈良県高市郡明日香村大字平田 文久年間
敏達天皇 河内磯長中尾陵
(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
前方後円 太子西山古墳 大阪府南河内郡太子町大字太子 元禄年間
用明天皇 河内磯長原陵
(こうちのしながのはらのみささぎ)
方丘 春日向山古墳 大阪府南河内郡太子町大字春日 元禄年間
崇峻天皇 倉梯岡陵[13]
(くらはしのおかのみささぎ)
円丘 奈良県桜井市大字倉橋 1889年7月16日
推古天皇 磯長山田陵
(しながのやまだのみささぎ)
方丘 山田高塚古墳 大阪府南河内郡太子町大字山田 元禄年間
舒明天皇 押坂内陵
(おさかのうちのみささぎ)
八角 段ノ塚古墳 奈良県桜井市大字忍坂 元禄年間
皇極天皇
→重祚して齊明天皇
孝徳天皇 大阪磯長陵
(おおさかのしながのみささぎ)
円丘 山田上ノ山古墳 大阪府南河内郡太子町大字山田 元禄年間
斉明天皇 越智崗上陵
(おちのおかのえのみささぎ)
円丘 車木ケンノウ古墳 奈良県高市郡高取町大字車木 文久年間
天智天皇 山科陵
(やましなのみささぎ)
八角 御廟野古墳 京都市山科区御陵上御廟野町 元禄年間
弘文天皇 長等山前陵[注釈 4]
(ながらのやまさきのみささぎ)
円丘 園城寺亀丘古墳 滋賀県大津市御陵町 1877年6月15日
天武天皇 檜隈大内陵
(ひのくまのおおうちのみささぎ)
八角 野口王墓古墳
(持統天皇と合葬)
奈良県高市郡明日香村大字野口 1881年2月15日
持統天皇 檜隈大内陵
(ひのくまのおおうちのみささぎ)
八角 野口王墓古墳
(天武天皇と合葬)
奈良県高市郡明日香村大字野口

1881年2月15日

以下省略


土浦市の田中宣之様からのコメントと「75歳で神学校に入学して」というビデオをご紹介します

2013年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

後藤様
お久しぶりです。土浦港の田中です。昨年まではVICTORYに乗っておりましたが、現在は「さくら(YAMAHA24)」になりました。
4月に早期退職し、現在東京バプテスト神学校(夜間)に通っております。講師の教会のホームページに「75歳で神学校に入学して」という証しのビデオが公開されており、大きな励ましを受けました。後藤さんにもお知らせしたいと思いついた次第です。よろしければご覧ください。篠崎キリスト教会のホームページです。(http://shinozaki-baptist.jp/modules/video/movie.php?id=132

それでは、どうぞお元気で。
土浦市 田中宣之

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土浦市の田中宣之様

久ぶりにお便りを頂きまして大変嬉しく思いました。
コメント有難う御座いました。

私のヨットを売ろうとした折りに、いろいろご相談乗って頂き有難う御座いました。ご厚情は忘れません。あれから早いもので、もう2年も経ってしまいましたね。

その時、田中さんがバプテスト派のクリスチャンとお聞きし、バプテスト派のことを少し調べて私のブログで紹介などしました。

それにしても早期退職をなさって勇気ある決断をし、東京バプテスト神学校に入学なさったことに大いなる敬意を表します。

さっそく「75歳で神学校に入学して」という証しのビデオを拝聴しました。(http://shinozaki-baptist.jp/modules/video/movie.php?id=132

私の 感想をこのコメントのコピーと共にブログの本文の記事として掲載いたします。

イエス様のお慈しみが田中宣之様の上に豊かに注がれるように祈っています。
有難う御座いました。 
敬具、後藤和弘

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「75歳で神学校に入学して」というビデオの感想:

最近は早期退職して自分の趣味を楽しむ方々が多くなりました。体がまだ元気なうち世界一周の旅を楽しんだり、ヨーロッパの国々へ美食を求めて旅をする人もいます。

しかしこのビデオの講師の方は全然違う第二の人生を歩んでいるのです。

真面目に会社を勤めあげ60歳で退職します。真面目なクリスチャンであったので教会の牧師さんが神学校へ入学することを薦めてくれたのです。

しかしこの方は小学校しか卒業していないのです。そこで夜間中学校を卒業し、高校も終えました。そして仏教系の大学も卒業したのです。

そして75歳の時、キリスト教の神学校に入学したのです。

それは感動的な第二の人生の選び方です。

キリストの近づくために勇気を持って神学校に入ったのです。その燃えるような信仰にまず圧倒されます。人生には歳を取りすぎたということは絶対に無いと身をもって教えてくれているのです。何事も遅すぎたということは絶対に無いのです。

もう一つの感想は、「学歴なんて無くても良い」などと気楽に言ってはけないという教えです。学歴が無いくても良いと気楽に言う人は大抵立派な大学を出ています。

小学校しか出てない人間が、この日本でどんなに差別され、踏み付けにされ、悲しい思いをしているかを深く考えるべきです。学歴の無い人に向って、「学歴なんて無くても良い」などと絶対に言ってはいけません。言う人は勇気づけるために言っているつもりですが、言われた人は悲しい思い出をもう一度思い出すだけです。

「75歳で神学校に入学して」というビデオの感想でした。

こころある方々は是非このビデオをご覧になって下さい。

田中宣之さん有難う御座いました。

下に田中さんがヨットを係留している土浦港の風景写真を示します。

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