後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

701年の大宝律令によって大和地方の豪族達から天皇制が生まれた

2013年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

西暦300年から700年までの古墳時代には全国に有力な豪族が跋扈し、巨大な古墳を作りました。(下の参考文献にあります。)

 豪族達が武力闘争でより広域の支配を目指すのは自然の勢いでした。そのような時代にあって大和地方の豪族は連合して強大なヤマト王権を確立し、次第にその支配を近畿地方の外側まで広げていったのです。

 下の図は古墳時代に大和地方に居た豪族達とその領地の場所を示しています。

下のURLをクリックしてその図面をご覧ください。

http://www.hamajima.co.jp/rekishi/shiryo-katsuyo/12.pdf

この図を見ると、大和の三輪山の周囲に大王氏、物部氏、蘇我氏、大伴氏、平群氏、土器氏、羽田氏、巨勢氏など10人の豪族の名前がそれぞれの領地を持っている様子が判ります。

これらの豪族たちの抗争と連合の過程の結果、一番の有力者になったの者が後の天皇になったのです。その豪族の名前は不明ですが、大王と主張する人もいます。

その後、天皇の権力が確立すると、その権威を神聖なものにするために「天皇は豪族の一人だった」という事実を消して、「万世一系の天皇」と言い出したのです。

当然、神武天皇は架空の存在です。我々戦前生まれの日本人は、その紀元2300年間の歴代の天皇の名前を暗記させられたのですから驚きです。

それでは天皇という尊称が明確に言われ出したのは何時でしょうか?

天武天皇の命で701年に完成した「大宝律令」に天皇の尊称が初めて明記され、その天皇を中心にした政治組織が完成したのです。この701年は藤原京の時代でした。次の天皇は有名な天武天皇の妻であった持統天皇です。持統天皇は傑出した女性の天皇でした。

天武天皇は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7 によると40代目の天皇になっています。

天武天皇の前に39人の天皇が居たということは到底信じられません。

それは天皇を神聖化するために後から付けた架空の「おくり名」だったのです。

ですから私は天武天皇とその妻の持統天皇以後の天皇様は「天皇」と呼びますが、それ以前は有力豪族と呼んでいます。

そしてその有力豪族は出雲にも九州の日向にも居ましたから、誰が天皇というのか特定することが出来ません。

勿論、私は聖徳太子は実在していたと信じています。しかし聖徳太子の時代には天皇という称号が無く、「太子」だったのです。

なお天皇の号は南北朝の頃からあまり強力な政権を暗示することは無くなりましたが、明治維新で復活したのです。

大和地方にいた天武天皇とその妻の持統天皇の全国統一の夢は、741年の聖武天皇の国分寺建立の命令と、律令国家の国衙を全国に設置したころに実現したと考えるのが良いと思います。それは710年に平城京へ遷都した後31年後の事でした。

地方には古墳時代の豪族がそのまま残っていて、表面上だけは大和の天皇に帰順したのです。この頃の甲斐l国の実態は下の参考文献にあります。

しかし大和朝廷はその後も蝦夷、熊襲、隼人などの地方の勢力と根気よく戦い続けなければならなかったのです。

日本の中央集権が名実ともに完成するのは明治維新になってからなのです。それが正しい歴史認だと私は信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考文献====================

ヤマト王権:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9

大和の十大豪族:http://book.akahoshitakuya.com/b/4569760333

大宝律令:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう!(1)山梨、北杜市の考古学

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(2)八ヶ岳山麓から出土した土器

驚異の三内丸山遺跡と縄文時代に繁栄した青森県

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(3)八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(4)八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展

弥生時代の代表的な遺跡、「吉野ケ里遺跡」の概略

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(5)山梨県にある30基の古墳とその分布

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(6)山梨県、甲斐の国風土記の時代

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(7)律令時代の甲斐の豪族三枝氏と、その後の甲斐源氏

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(8)鎌倉、室町、戦国期の山梨県の領主(国衆)たち

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(9)甲斐駒山麓、旧武川村柳沢地区の歴史

北海道には弥生時代も古墳時代も無かったのです

関東地方の606基の古墳(1)埼玉県行田市の古墳群

関東地方の606基の古墳(2)府中市の熊野神社古墳のご紹介

関東地方の606基の古墳(3)相模原市の田名向原遺跡公園に復元された古墳のご紹介

以下には学術的には大山陵古墳と呼ばれている古墳の写真を示します。

この古墳は宮内庁が仁徳陵と呼んでいましたが学術調査の結果、誰の古墳かは不明となっています。現在は学校の教科書では大山陵古墳として教えているのです。

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詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3をご覧ください。


宗教によって幸せになる方法と、不幸になる方法の違い

2013年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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宗教は本来、人間を幸福にするのが目的です。しかしその使い方を間違うと逆に不幸になってしまいます。とても危険なものです。

日本人の多くが無宗教なのは、さわらぬ神にたたり無しと宗教に近づかないためのようです。

私はカトリック信者になって40年、仏教愛好家になって50年になり、その長い間、宗教と人間の関係を見て来ました。丁度、自然現象を観察するように見てきました。

その結果、宗教によって幸せになる方法と、不幸になる方法の違いが少し明快に理解できたような気がします。以下にその違いを個条書きにします。

(1)まずどんな宗教にも優劣が無いと信じれば幸福になれます。信じられなければ不幸になります。

自分の信じている宗教だけが本物で、他は全て邪教だと思えば不幸になります。全ての宗教は本物だと考えると幸せになれます。

(2)自分の考えが正しいと主張すると不幸になります。

人間には何が正義か判断出来ないと思えば幸せになれます。

神だけが、そしてお釈迦様だけが正義を見分ける能力があると考えれば幸せになります。自分が正義を主張すれば不幸になります。

(3)神様や仏像に「自分を金持ちにして下さい」と祈れば不幸になります。「私は貧乏でも良いですが、毎日の食べ物だけは与えて下さい」と祈れば幸せになります。

「良い人と結婚できますように」と祈れば幸せになれます。「あの人は悪い人だから天罰を下してください」と祈れば不幸になります。

(4)宗教組織へ無理をして多額の献金をすると不幸になります。無理でない金額を少しずつ献金すると幸せになります。

人間は無理して多額の献金をするとどうしても見返りを内心期待するものです。神様は沈黙するだけです。不幸な気分になります。

(5)牧師や神父や僧侶を尊敬し過ぎると不幸になります。道で会ったら自分が道をあける位のエチケットを示せばそれで良いのです。彼らと個人的に付き合わなくても良いと考えると幸せになります。

しかし彼らの信仰の深さを見逃さないようにすると幸せになります。

逆に牧師や神父や僧侶を軽蔑すれば不幸になります。

(6)無宗教の人を軽蔑したりすると不幸になります。人間として尊敬すれば幸せになれます。人間を差別すると不幸になります。逆は幸せへの道です。

(7)宗派の規則や教理に捉われてしまうと不幸になります。教条的になると不幸になるのです。イエス様やお釈迦様の言ったことだけが真理なのです。

つまり規則や教理は後の人々が作ったものなので常に正しいとは限りません。

結論は、上の写真に示しました。

砂浜をゆったり洗う海のように、大らかな気分で宗教と付き合えば幸福になれます。狂信や教条主義は不幸への道です。

正しい宗教も邪教もありません。ましてや正義の戦争なんてある筈も無いのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


何も無い、あるのは樹林ばかり・・・のんびりした気分になって下さい

2013年09月14日 | 写真

とにかく面白いものが何にもありません。あるのは蝉の声とはてしなく広がっている樹林だけです。

落ち葉焚きをして、岡へ登る急坂の補修をしました。部屋の中にころがり窓の外の緑の葉を見上げてのんびりした気分を楽しみました。

老境なので、東京の自宅にいてものんびりしています。しかし甲斐駒山麓の山林の中の小屋へ行くと、もっと深くのんびり出来るから不思議です。「のんびりの度合い」が各段に違うのです。

下の写真をご覧になって、のんびりした気分になって頂けたら嬉しく思います。

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・自宅から袋に入れて運んで来た 落ち葉や切り枝を炉で燃やします

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・良い香りの白い煙が立ち上る それだけの事ですが

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カーペットに寝ころがって窓の外の梢をぼんやり見ていました

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小川のせせらぎもあいかわらず

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陽も大分傾いてきたので家路に着きます  ただこれだけの一日です


自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(9)甲斐駒山麓、旧武川村柳沢地区の歴史

2013年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム

小生の山林は柳沢の水田地帯から山林深く登った所にあります。

小屋の現在の住所は山梨県北杜市武川町柳沢4562番地小山平122号です。

これは法務省白州支所の公式の台帳上の住所で、誰もその場所を探しだせません。番外地なのです。東京電力の毎月の請求書には番外地とは書けませんから、柳沢1番地などといい加減な住所を書いた請求書が毎月、小屋のドアに挟んであります。

北杜市に住民票を届けて、山林に住んで居る人は法務省白州支所の公式の台帳上の住所で、郵便局や地元の宅配会社からものが届きます。

しかし水田の広がっている柳沢地区の歴史が気になり、昨日、写真を撮りながら現地で調べてきました。

この地域の歴史が文献に明確に現れるのは、平安末期から鎌倉時代にかけて土着武士の「武川衆」が稲作を主にして住み着いていたことが書かれています。

その事は昨日の記事、自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(7)鎌倉、室町、戦国期の山梨県の領主(国衆)たち で詳しく書きました。

そして柳沢には鎌倉末期(あるいは室町時代の初期)から武田信玄が滅びるまでの約300年間弱、柳沢氏が在住し、この地区を統治して来たのです。

甲斐守護の一条家の子供の弥十郎信興(やじゅうろうのぶおき)が柳沢に封を受け、住みはじめたのが最初です。この年号があまりはっきりしません。鎌倉時代の末期(1333年)か室町時代の初期と考えられます。

その後、弥太郎から6代続き、最後は柳沢信俊です。

1590年に徳川家康が江戸城に入り、この柳沢信俊は、他の武川衆と共に現在の埼玉県の寄居町へ移住させられたのです。

この信俊の孫の柳沢吉保は江戸の老中、川越城主、甲府城主として再び歴史の表舞台に現れるのです。

さて柳沢には鎌倉末期から武田信玄が滅びるまでの約300年間弱、柳沢氏が在住したという痕跡は残っているのでしょうか?

結論をさきに書けば柳沢氏が開基した「柳澤寺」の石塔や墓石が集められて保存公開されているだけです。そのほか柳沢氏の屋敷のあった場所が「弥太郎屋敷跡」として言い伝えられているだけです。

それでは昨日撮って来た写真を示します。

まず国道20号線(甲州街道)で韮崎市を過ぎると以下のような武川町の境界にある看板が出て来ます。

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武川町という名前は、この看板の手前に流れている小武川(こむかわ)と町の中央を流れている大武川(おおむかわ)という川の名前に由来しています。

この看板の先にある「牧原交差点」を左折して柳沢方面への道を走りますと下のような柳沢氏の屋敷跡に建てられてた石碑があります。周囲は広い水田です。

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この石碑を過ぎて柳沢のに入ると「六地蔵」という案内板が出て来ます。道をそれて左に入ると「柳澤寺」と「六地蔵」の標識があります。下は六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)の写真です。石灯篭のようなものが立っていて上の傘の中に6体の小さな地蔵さんが祀られています。

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こういう形式の六地蔵石幢は室町時代に中国から伝承されました。この石幢には1496年(明応5年)献白(作)と刻んであり、室町時代のものと明確に判ります。

したがって柳澤寺は曹洞宗の寺で室町時代の初期に柳沢氏によって開基されたと推定されています。曹洞宗の寺であったことは「甲斐国志」という文献に書いてあります。

この柳澤寺の跡地には山門も本堂も庫裏も残っていません。

 

何度も焼失したり水害で流されたりして、廃絶と再興の繰り返しだったと伝承されています。

本堂があったらしい場所に地区住民の集会所らしい建物が立っていました。そしてその裏には下の写真のように拾い集めたような地蔵さんや墓石が並んでいました。
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この墓石をよくみると曹洞宗のお寺の住職のお墓が一つだけあります。

後列の左から4番目の墓の頭が丸くなっていて住職の墓であることが判ります。住職は何代も居た筈ですからもっと墓があってもよいのです。しかしたった一つしか残っていません。

お寺や神社は永遠に続くように思えますが、実は多くのお寺や神社が廃絶と再興を繰り返すのが普通なのです。なかには廃絶したまま忘れられてしまうお寺も多いのです。お寺の名前だけが地名として残っている場合もあります。そこにはお寺の影も形も無いのです。

上の写真にある住職様のお墓を見ながら、私はお釈迦様の言ったことを思い出し、溜息をつきます。

お釈迦様が、死んだら自分の墓を作るな、骨は遠い荒れ野に捨てよと言って亡くなったことを、考えていました。やっぱりお釈迦様は偉いと感じるのです。

それはそれとして柳沢のにある伝統的な屋敷の写真を下に示します。石組の空堀に囲まれた昔の武川衆の一つの屋敷を彷彿させる家です。

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こんにちはと声をかけて、石橋を渡り、門を入りましたが誰も居ません。振り返って見ると下の写真のように武川米が実っている水田が広がっていました。

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もっと詳しく知りたい方の為に説明板の写真を示します。クリックすると拡大します。

Img_0169 Img_0185 Img_0188
そして参考資料は下記にあります。

http://www.webtoday.jp/2010/10/post_1123.html

http://www.xhotzone.net/xdb/fth/jiin19.php?p=21

http://gallery1999.web.fc2.com/singen/siseki-hokuto6.htm

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(8)鎌倉、室町、戦国期の山梨県の領主(国衆)たち

2013年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は甲府盆地を東西に横切っている中央高速道路の写真です。

道路の左側が南方向で、写真の左に写っている山々は南アルプスです。写真には写っていませんが右手の奥の方角に八ヶ岳があります。

写真の手前は富士山の外輪山です。

甲府盆地は八ヶ岳と南アルプスと富士山の外輪山に囲まれた広い盆地です。この外輪山の向う側の上の高原に山中湖、河口湖などの富士五湖があります。

甲府盆地では、夏は気温が非常に上がり、釜無川と笛吹川の豊かな水があるので弥生時代から水稲栽培が行われていました。下の写真は北杜市の武川米が実っている様子です。

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この写真は昔、武川村と呼ばれていた場所で、現在は北杜市武川町と呼ばれています。

この北杜市南部の武川地区で稲作が始まったのは甲斐の国衙や国分寺が甲府盆地の東の方の笛吹市に出来た頃からと想像できます。朝廷に献上する馬や農産物が必要になったので開墾が進み、稲作も広まったのではないでしょうか?

この旧武川村には山高、横手、柳沢、旧武川村役場のある牧原と村落が別れていて、それぞれに、在地の領主が居たと言います。

このような在地の領主たちのことを、古墳時代から平安時代の末期までは「豪族」と呼ぶのが一般的です。

そして鎌倉期になるとこれらの在地の領主は豪族とは呼ばないで、「国人」あるいは「国衆」と呼びます。

豪族も国人も形式的には大和政権に服従していますが、地方の小さな独立国のように領民を統治していたのです。

それが戦国時代になると有力な武将、例えば武田信玄のような強大な武将が現れると起請文(誓約書)を書いてその配下になります。言ってみれば契約で雇われた家臣たちなので武田勝頼が敗けそうになると蜘蛛の子が散るように自分の領地へ帰ってしまうのです。

それでは鎌倉期以降に甲斐の国にはどのような領主達(国人たち)が居たのでしょうか?

Wikipedeaの日本全国の国人一覧表を見ると以下のようになります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA

穴山氏小山田氏跡部氏甘利氏板垣氏波木井氏南部氏)、市川氏大井氏飯富氏小佐手氏馬場氏諸角氏横田氏

これらの中で現在の北杜市の範囲の領主(国人)は馬場氏です。

この馬場氏については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%B0%8Fに説明があります。

馬場氏はもともとは他の土地から武川村の東隣の教来石という土地へ移住して来た外来人でした。教来石は現在でもある地名です。

始めは教来石氏と名乗り、武川地区の下記のような在郷武士団の配下として、教来石の一領主になったのです。

それが後に信玄の命令で馬場の名前を貰って、馬場美濃守信治と名乗り、信玄の重臣として活躍したのです。在郷武士団とは武士がそれぞれ田畑を持っていて、使用人に耕作させている武士たちです。それに対して領主とは広い農地や財産を所有していて小作人に耕作させている有力者のことです。

ところで小生の山小屋の以前の住所は山梨県武川村柳沢と言いましたが、その武川村には鎌倉時代前後から武川衆という土着の武士団が住んでいたのです。

甲斐国では特定地域に土着する「~衆」と呼ばれる辺境武士団が存在し戦国期には武田家臣化しています。武川衆は北杜市須玉町の津金に居た津金衆や上九一色村に居た九一色衆とともにその代表的存在でた。鎌倉時代に一条時信(源八)の子孫から分出したと言われています。

このことは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9D%E8%A1%86に書いてあります。この資料にようると、この武川衆には下記の人々が居たと分かっています。

家康安堵状中より、

青木尾張守時信

柳沢兵庫丞信俊

折井市左衛門次昌

折井長次郎次正

米倉六郎右衛門信継

米倉左大夫豊継

米倉加左衛門定継

曲淵彦正正吉

小沢善大夫

横手源七郎

青木弥七信安

折井九郎次郎次忠

このうち柳沢兵庫丞信俊は、戦国時代の武将で江戸幕府旗本。甲斐武田氏の家臣で、江戸時代中期に5代将軍徳川綱吉のもとで側用人として活躍した柳沢吉保の祖父として知られている。

 上のように小生の小屋がある旧称の武川村には鎌倉時代から在郷武士が多く住みついて居たことが分かります。それを支えてたのが武川米だったのです。

尚、水田のある地区と小生の小屋のある山林の境界線は実に厳然としています。

冬に行くと、その境界線の山林側だけに雪が降るのです。水田地帯には降っていなのです。ですから山林側には昔からの人は住んで居ません。

山林側を本格的に開拓したのは第二次大戦後に外地から引き揚げて来た人々だったという話を聞いたことがあります。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


日々が淡々と流れ行く(4)花園を独り歩みつつ何事も無く今日も暮れて行く

2013年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

今日も何事もなく無事暮れて行く気配です。

カメラを持って花園を独り歩きして来ました。

幼児をつれた母親が挨拶をしてくれました。暇な好々爺に見えたのかと思います。

そして本当に好々爺になれれば良いと思い、足もとの小さな花々を大切にし、慈くしみながら写真を撮ってきました。

こうして流れ行く日々の一日が過ぎていきます。

明日も晴天になるように祈っています。

下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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プーチン外交の勝利・・・アメリカはシリア武力攻撃を断念!

2013年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

プーチン大統領の柔道をテレビで見たことがありますが、小柄で柔軟な体を敏捷に動かし、相手の攻撃を返し技(かえしわざ)で一本取るのが得意のようです。

今回、2020年のオリンピックが日本で開催されることが決定されると、プーチンさんは、安倍総理にお祝いの電話をくれました。

そして柔道の審判がみんな日本へ贔屓するからロシアはメダルが取れなくなると冗談を言いました。安倍総理は真面目に審判は客観的に判断するからご心配なくと答えたそうです。

相手が冗談を言ったのですから、もっと面白い冗談を返してギャフンと言わせれば良かったのです。残念です。大阪人だったら上手く返したと思います。

今回のアメリカが言い出したシリアの武力攻撃をめぐる国際間の抗争で、プーチン大統領は奇想天外な返し技でアメリカに一本勝ちしてしまったのです。

その返し技とはシリアの化学兵器を国際管理するという提案です。提案だけでなくシリア政府の同意を得た後でこの返し技を世界へ向けて発表したのです。

シリアの化学兵器の国際管理のアイデアはこれまでマスコミに出ていなかった全く新しい手段なのです。私は、アッと驚きました。

オバマ大統領も一本取られたことを素直に認め、9月10日の公開演説でこのプーチン大統領の提案は建設的だと明言し、化学兵器が国際管理されれば武力攻撃をしないと発表したのです。

これでアメリカの上院と下院の武力攻撃に関する決議は延期されることになったのです。

シリアの化学兵器の国際管理は何処まで厳密に実行されるか不明です。しかしシリア内戦に強大な外国が介入して死傷者を激増する方向は無くなったのです。

外交努力で解決する方向に変換されたのです。

これはプーチン大統領の見事な返し技の勝利です。喜ばしいのです。

しかし日本はこれから、この卓越した業師(わざし)を相手にして、北方四島返還の交渉をしなくてはならないのです。

プーチンさんはいろいろと小さな技をまじえて日本を攻めたて、最後にどんでん返しの大技をかけて来ると思います。この勝負ははじめから日本の敗けと決まっているようで寒心に堪えません。

安倍総理がオリンピック開催決定で喜ぶのは良いことですが、プーチンさんとの外交交渉で勝ってください。

相手の返し技に用心しながら、最後は寝技で押さえつけて下さい。プーチンさんが参った!と畳を手で叩く場面を見せて下さい。

冗談はさておき、ここで決して忘れるべきでないことはシリア内戦で発生した200万人以上の難民の支援です。日本の数多くのボランティアNGOがすでにトルコ、ヨルダン、イラクに展開していて支援活動をしています。

是非、世界の難民を考える(4)200万人のシリア難民を既に支援している日本の7つのNGOという9月7日掲載の記事もご覧ください。下に関連の写真を示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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夏の花、ムクゲも間もなく終わりになります・・・写真をお楽しみ下さい

2013年09月11日 | 写真

今年も6月の下旬から庭の底紅槿が盛大に咲き出しました。そして今年の猛暑の夏の間中、毎日、毎日、つぎつぎに咲きました。

一日咲いて夜には花が閉じて落ちてしまう「日花」なのです。

30年ほど前家内が買った鉢植えの小さな苗が軒を越すほど大きくなり、あちこちに実生の若木を増やしていきました。

夏の終わりに近づくと、しだいに花が下枝から上の方の枝に登って行って、終いには梢の花が咲いて、終わりになります。

最近は梢の花が咲きだしたので今年のムクゲも終わりになります。

そんな終わりに近い槿の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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日々が淡々と流れ行く(3)雑木林のなかを独り歩みつつ消えてしまった中島飛行機を想う

2013年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日も何事も起りませんでした。昼食後、何時ものように玉川上水沿いの雑木林の中を独りで歩きました。

しきりに考えていたことは中島飛行機という会社の栄枯盛衰のことでした。

先日、妻と一緒に歩いていたとき、玉川上水の「中島橋」という橋を渡って、南側に出てみました。

急に空が広くなり、荒々しい雰囲気の畑が広がっています。なぜか異様な感じです。妻がここは立川飛行場が近いから、「中島飛行機」の工場があったのではないかと言いだします。方向オンチの彼女がまた変なことを思いついたものだと、即座に否定しました。しかし考えてみますと、彼女の直観力の鋭さに何度も驚いたことがあるので、帰宅後、調べてみました。

中島飛行機は1917年に彗星のように現れ、燃えるように成長し、通算25、804機の軍用機を大量生産し、1945年の終戦とともに煙の如く消えてしまった会社です。

その発展と各工場での生産活動の様子はぼんやりとした走馬灯の絵のように多くの日本人の記憶から消えてしまいました。

そこで、「中島飛行機物語」というホームページを丁寧に読んでみました。このHPは実に克明に中島飛行機の全ての歴史と生産された各種の軍用機の詳細が掲載されています。(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/

それを見ると全国に工場があり、東京では三鷹市に武蔵野製作所と三鷹研究所、そして杉並区に東京制作所という3つの大きな工場がありました。

しかし、立川には大きな工場はありません。きっと立川軍用飛行場に納入した飛行機の整備工場があったのでしょう。それが玉川上水にかかっている「中島橋」の傍にあったと考えられます。

昨日はその中島橋へ続く雑木林の中の道を独り歩きながら、日本の飛行機生産の儚さをしきりに想っていました。

そして下のイラストのような軍用機に乗って蒼い虚空に散っていった若者たちの命を惜しみ、その冥福を自然に祈っていました。

見上げると雑木林の梢の間に白い雲が立ち登っていました。

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上は天雷です。

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上は彩雲です。

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上は銀河です。

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上は呑龍です。

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上は隼です。

この5枚の写真の飛行機にはそれぞれ名前がついていました。

しかしその名前も日本人は忘れています。それで良いのでしょう。この世にあるものは全て無常なのです。空なのです。

中島飛行機は占領軍によって徹底的に解体されました。しかしその技術は富士重工に残り、名車「スバル360」を生んだのです。

武蔵野工場跡地は占領軍のグリーンハイツになりその後は三鷹市の運動場と市役所になりました。NTTの大きな研究所もそこに作られました。

三鷹研究所の跡地は占領軍がゴルフ場にしました。その後、返還され都立野川公園と国際キリスト教大学と富士重工の自動用エンジン工場になっています。

杉並区の荻窪にあった東京製作所は現在、日産自動車の事業所になっています。

昨日は独りで散歩しながら中島飛行機の有為変転ぶりを考え、どんな会社にも栄枯盛衰があり、運命にはどうしようもないことを想っていました。

そうしてまた一日が何事も無く過ぎゆきました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====中島飛行機物語の序文です==========

 1917年、中島知久平を中心に栗原甚悟、佐久間一郎らのたった7名から始まった中島飛行機は、燃え上がるように成長し、そして1945年終戦とともに波乱に満ちた運命を閉じ、走馬燈の様に消え去ったが、その志は確実に後世の多方面に受け継がれている。

 中島飛行機を代表する技師長であった小山悌氏は終戦後「われわれ中島の技術者は国家の存亡ということで必死に飛行機を設計し生産してきた。しかし、その飛行機により尊い若者の命が奪われたことは間違いのない事実である。過去の飛行機を美化するようなことは決してするまい」と述べられ、それが各技師達の心にあって、中島飛行機の記録や回顧録は極端に少ないものとなっている。

 飛行機に夢を賭けた技術者達のエネルギーは、戦争という異常な歴史に翻弄されはしたが、その行動を振り返ると「純粋に物事を探求し開拓してゆくパイオニアの姿」が浮かび上がってくる。武器としての飛行機には、多くの異論もあろうが、そこには研ぎ澄まされた美しさがあり、旅客機には新世界へ誘うロマンが漂っている。とくにプロペラで気流をかき分け、自分の翼で大気をとらえるレシプロエンジン機に、一途な技術者の顔が見えるような気がする。

 そんな気持ちから、先輩達の足跡を広く知っていただきたく、稚拙ながらホームページにまとめてみました。以下の資料の他に、中島名作機を含む小池繁夫氏の航空機イラストと合わせお楽しみ下さい。 また、ご覧になった後、簡単なアンケートにご協力ください。

====http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/===========


自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(7)律令時代の甲斐の豪族三枝氏と、その後の甲斐源氏

2013年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

弥生時代(西暦前300年から西暦300年まで)になって田畑農業が始まると人々は八ヶ岳や甲斐駒岳の山麓を降りて、韮崎から東の甲府盆地へ移住してしまったようです。

弥生時代の遺跡は韮崎から東側の甲府盆地にしか出て来ません。

そして古墳時代(西暦300年から700年頃まで)になると甲府盆地の南東部の笛吹川と釜無川の合流点付近から東側を中心にして古墳が40基も発見されています。

現在の勝沼、一宮、八代、曽根などの甲府盆地の南東部が栄えたのです。

従って律令国家の甲斐国の国府や国分寺や国分尼寺は現在の一宮町の地域に作られたのです。

飛鳥、天平の時代になって次第に大和朝廷の力が大きくなりすが、近畿地方から離れた甲斐国ではそれ以前からの豪族たちが支配していたと思われます。

勿論、表面上は大和朝廷に従い、租庸調は収めていましたが、実質的には幾つかの豪族がそれぞれ領地を有し、を私有して、独立して農民を支配していました。下に、7世紀末までに大和朝廷に表面的には服従していた地域を示す図を掲載します。

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(図面の出典は、http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/insoci/insoci08record/04-08-09.htmlです。)

上の図の赤い部分が大和朝廷にあからさまに反逆しなくなった地域を示しています。しかし実際の統治は地方の豪族が行い、その豪族たちが租庸調を贈って大和政権と友好関係を保持していたのです。

そのような豪族の一人が甲斐の国の三枝氏でした。下にその紋を示します。

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三枝氏は、もともと大和朝廷から甲斐へ派遣された国守クラスの官僚でした。しかし甲斐国に土着して豪族になったのです。この三枝氏は日本書記の姓氏録にも名前があり、続日本書紀の844年の項にも名前が出てくる有力者でした。

律令時代には甲斐国の郡司を務め、甲斐の産物を大和朝廷に送っていたのです。

それからしばらくして、「甲斐源氏」が興ります。三枝氏はこの甲斐源氏の一族の軍門に下り、その配下になります。

しかし三枝氏の家系は戦後時代末期まで続き、武田信玄の配下として活躍するのです。(以上の出典は、http://www2.harimaya.com/sengoku/html/k_saegsa.htmlです。)

甲斐源氏とは1029年に源頼信が甲斐守に任じられ、翌年の1030年に平忠常の乱に際して追討使に任命されたことに由来しています。これは前九年の役や後三年の役などで源氏一族が東国へ出征したことの一環であると考えられています。

一方、河内源氏3代目の源義家の弟の源義光は甲斐守として甲州に入り土着したのが甲斐源氏の祖であるとも考えられています。

(以上の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%BA%90%E6%B0%8Fです。)

そのような経緯もあり、その後、勢力を得た甲斐の豪族や武装集団は皆源氏にあやかって「甲斐源氏」の家系を自分のものにしたのです。

ですから「甲斐源氏」は一つの家系でもなく、血族的にも繋がっていない甲斐の豪族たちや武装集団の総称なのです。

その頃になると甲斐源氏でなければ「人にあらず」という風潮だったようです。

この甲斐国の豪族たちは後に「国衆」と呼ばれ、武田信玄の軍隊の主体になるのです。

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武田信玄と数十の国衆と交わした起請文(誓約書)が長野県の上田市にある生島足島神社に沢山残っています。「私は信玄さまの悪口は言いません」「ご命令には必ず従います」などという文章を見て、内容の素朴さに吃驚したことがあります。左はその神社の写真です。(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%B3%B6%E8%B6%B3%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BEです。)

以上のように、甲斐の国は弥生時代から古墳時代、そして奈良・平安時代、鎌倉、室町時代と割拠する豪族達や武装集団が統治していたのです。

勿論、何時の時代にも中央政権とは対立したり、戦争をしたりはしませんでした。しかし東北地方の平泉には藤原三代の地方政権も存在していたように遠方では大和朝廷の統治に従わない地方もあったのです。

日本の歴史を見ると、明治時代以降のように徹底した中央集権国家ではなかったのです。

日本の学校の歴史教育では、大和朝廷の権力を過大に教える傾向があり、間違った歴史を教えているようです。まだまだ日本は真の民主国家ではないのです。(続く)


日々が淡々と流れ行く(2)独り山に登りつつドイツの森、シュバルツバルトを想う

2013年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、毎日のように玉川上水沿いの雑木林を2里ほど歩いています。

大きく茂ったクヌギ、カシワ、コナラ、ケヤキ、エゴノキ、シデノキなどの雑木の大木が深い森のように連なっている遊歩道です。江戸時代からの道なので西洋から来たプラタナスの木やマロニエの木はありません。昔の武蔵野の林です。

そんな武蔵野の木々のたたずまいを楽しみながら、脚も鍛えるためです。

しかし平らな道だけ歩いても体の鍛錬にならないと思い、昨日は高尾山の裏にある小仏・城山の頂上まで登って来ました。老人の脚なので往復3時間かかりました。

Img_0028_2城山山頂への道は、はじめに急な斜面をジグザグに登る厳しい道があります。我慢して45分間、頑張ります。

すると小仏峠の頂上にでます。そこから10分くらいで涼しい風が通る尾根道になります。左の写真のように杉木立が静かに続いています。

この尾根の左側が東京都で右側が神奈川県相模原市です。

この尾根道を30分ほど登ると城山頂上にたどり着きます。標高670mの小高い山で、頂上には茶店があって簡単な食事を出しています。

ストイックな爽快感を保持するために昼食は食べません。

頂上から東を見れば黒々とした高尾の山並みが見え、その向こうに八王子市の街が白く輝いています。

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西の方角を見下ろすと相模湖が見えます。いつも車で渡っている橋も見えます。

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あまり人のいない山道を登りながら、しきりにドイツの黒い森を思い出していました。40年も前の森の中の散歩です。

当時はドイツの西南部のシュツットガルト市に住んでいました。その西側一帯には黒々とした深い森が広がっていました。ドイツ語でシュバルツバルト(黒い森)という地名のついた地方で、ドイツ人が何故か自慢にしている地方です。

何故、自慢にしているかは、何度かそのシュバルツバルトを散歩してみて理解出来たのです。

少し大げさに言えば、森の中のシュパツエーレン(散歩)がドイツの伝統文化の一部なのです。

研究所の同僚に、「昨日は家族で黒い森を散歩して来た」と言うと彼らは例外なく「それは良かった」と嬉しそうに笑うのです。彼らと散歩の話をすると喜ぶのです。黒い森の散歩道は中世の馬車道をたどる道が多いのです。

私が家族連でその道を散歩することはドイツの中世の道を偲ぶことにもなるのです。

その黒い森の道を根気良く歩いていきます。下の写真のような道です。道幅は馬車が通れるくらいあります。

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(上の写真の出典は、http://okamisan-eco.seesaa.net/category/4794249-1.htmlです。)

暗い森を抜けると広い牧草地にでます。昔から人々がえいえいと森を切り開き、牧畜で生きてきた村落があるのです。下の写真はその様子を示しています。

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(上の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88です。)

この上の写真の下の方に左右に横切っている道が見えます。中世の馬車道のようです。

丁度、このような道を40年ほど前によく散歩したものです。その道には古い水車小屋が7つありました。それでその道は、「七つの水車小屋(ジーベン・ミューレ)の道」という名前がついていました。

その道は暗い森の向うにあり、古い水車の他に昔のケーキ(昔風のトルテ)とコーヒーを出す店が一軒だけありました。

話は飛びますが、中世の歴史家の堀田善衛の「中世の旅人達」という本を彷彿させる光景が広がっていたのです。

ドイツ文化の特徴の一つは伝統を大切にすることだとよく言われます。

その意味はこのジーベン・ミューレの道を何度か散歩して体験的に理解出来たのです。

ドイツ人同士が時々議論する場面を見ました。

甲乙、決着がつかないと一方の論客が大声で、「これが伝統だ」と叫んで議論が終わります。

伝統のことはドイツ語でトラデツオンと言います。この言葉が出ると皆が笑って、それを叫んだ人が議論の勝になってしまうのです。水戸黄門の印籠と同じようなのです。私はいつも合理的なドイツ人がこの言葉には平伏してしまうのを見て笑わずにはいられませんでした。

私もこれを真似して、トラデツオン!と何度か言ったことがあります。何故か爆笑になります。そんなドイツの文化や黒い森のことを想いながら城山への道を独りで辿っていった昨日の山登りでした。

こうして日々が淡々と流れ行く老境の一日でした。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


旧甲州街道沿いに咲く花々

2013年09月09日 | 写真

現在の甲州街道の高尾駅前を過ぎ、駒木野の方向へ入る交差点を右に曲がると昔の甲州街道になります。

駒木野の関所跡を過ぎ、次第に登りになって小仏峠へ続きます。峠の頂上には明治天皇が甲州巡幸のおりに一休みしたという大きな石碑が立っています。明治時代までこの峠道は重要な道路だったのです。

この古びた道の両側には古い家々があり、如何にも旧街道という雰囲気があります。

今日は下の駐車場に車を置き、小仏峠、そしてそこから城山頂上に登ってきました。

小仏峠までの旧甲州街道沿いに咲いていた素朴な花々の写真をお送りいたします。

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峠に続く道にはヤマアジサイが咲いていました。下界ではアジサイの季節は梅雨とともに過ぎ去っています。不思議な気がします。

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秋海棠です。

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山道に入るところの家の前にコスモスやキバナコスモスが風に揺れていました。

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秋風のすがすがしい旧街道でした。


日々が淡々と流れ行く(1)山林の中で独り暮らす

2013年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム

何も起こらない。日々が淡々と流れて行く。空が青く輝き、時が流れて夕陽に紅く染まり、夜になる。そして又朝が来る。

そして周りにあるすべての物が大切に思える。全てのものが輝き出す。生きていることが嬉しい。幸せな日々が流れる。そんな生き方を私もしたい。

そんな願望で、「日々が淡々と流れ行く」という連載を静かに書いて行きたいと思います。

第一回のこの記事では山林の中に30年くらい一人で住んでいる木内正夫さんのブログ、北杜市・自然の中で(http://sizen068.blog95.fc2.com/をご紹介したいと思います。

下はその木内さんの山荘です。昨年、隣地の地主が林を伐採してしまいました。それで山荘が見えるようになりましたが、以前は深い森に埋まっていたのです。

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春が来れば下の写真のように福寿草が咲き出します。

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雪割草も咲きます。

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そして4月になれば下のようにモリアオガエルが水辺の木の枝に大きな卵塊を生みにやって来ます。

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そして運が良ければ卵を生みに来たモリアオガエルを見ることが出来ます。めったには見られません。

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そして夏が過ぎ、秋が来て周囲の雑木林が紅葉でまばゆくなります。

冬が来て、木々の葉が全て落ちてしまい、山の中が急に明るくなります。

甲斐駒岳や地蔵岳、そして八ヶ岳がくっきり大きく見えます。

年が暮れ、そして又新しい年がはじまります。

こうして四季が繰り返し、30年近く過ぎゆきました。

その間、あまり人は来ません。見えるのは猿と鹿と猪などです。何事も起きません。

ただ静かに日々が流れ行くだけです。それが幸せというものです。私はそう信じています。

木内さんの真似を出来ない私は時々、彼のブログ、「北杜市・自然の中で」(http://sizen068.blog95.fc2.com/を見て仕合せな気分になっています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)