後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

おいしいもの(3)最近の魚介類は感動的に美味しい

2014年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

世の中には魚の嫌いな人が案外多いものです。生臭いとか小骨が多くて食べ難いという理由で敬遠するのです。

ところで食べのもの好き嫌いは、幼少の頃に食べた物と、その家の味付けによって決まると言われています。

ですから仲の良い夫婦でも味付けの好みが違うと、争いが永遠に続くのです。

私は昭和11年に仙台に生まれ、戦後も仙台で育ったので、塩釜漁港から木箱に詰めて運ばれてくる魚だけを食べて育ちました。牛肉も豚肉も鶏肉もほとんど食べませんでした。

毎日、食べる魚は塩に漬けたイワシ、ニシン、助宗タラ、塩引きのサケ、塩辛のイカ、だけです。塩が強いだけでなく、半分腐っているのも食べました。

幸運な時には女川漁港のそばで取れるクジラ肉もありました。味噌漬けにして焼いて食べます。そしてクジラのベーコンもたまには食べました。それは美味でした。

塩っぱい魚類をおかずにして麦ごはんを食べて育ちました。

ですから老人になった現在でも、塩の強い味付けと、魚なら何でも興奮してたべます。

対照的に家内は魚をあまり食べない家庭で育ちました。味も薄めです。困ったものです。しかし味付けの相違で、今更離婚も出来ませんから、自分の皿にだけ塩を少々振って食べます。それも楽しいものです。

それはそれとして、私は大型魚介店に行って、魚をいろいろ眺めて楽しむ趣味を持っています。興奮します。感動します。すべての魚や貝類がすごく新鮮なのです。日本各地で取れる魚が所せましと陳列してあります。

客は選んだ魚を指さして、それをサシミにしてもらったり、切り身にして貰って帰ります。昔の魚屋と同じ雰囲気です。

塩に漬けた魚はサケだけです。他の全ては冷蔵コンテンに入れ、トラックで運び込んだものです。冷蔵技術と冷凍技術の進歩のおかげです。

一般的にいろいろな商品を眺めて楽しむ趣味は万国共通のようです。

家内はデパートの流行の服や装身具を眺めて楽しむ趣味です。そして「デパートは文化の殿堂」と言ったお洒落な姪の話をします。文化の殿堂とは少し変な言葉ですが、実感がこもっています。

私は角上魚類店に行っては、魚たちをつぶさに眺めて楽しんでいます。実に数多くの魚介類が色鮮やかなピチピチした姿で山と積まれ並んでいます。日本いや世界各地から運ばれて来たのです。そこは運輸・冷蔵・冷凍文明の殿堂なのです。下に1月22日に撮った魚たちの写真を示します。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


少女の心を持ち続けている「ちひろ」さんの最近のブログをご紹介いたします

2014年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

ちひろさんは琵琶湖のほとりに住んでいて、ご自分専用の車をあちこちに走らせて写真を撮っています。

感動的な写真が多いので何度もこのブログ上でご紹介してきました。

最近は冬の琵琶湖かいわいの美しい写真が掲載してあります。久しぶりにメッセージを送り、転載の許可を頂きましたので以下にご紹介いたします。

写真と文章をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

=====カメラと遊ぶ日々:http://blog.goo.ne.jp/yumenohanamiti8739より=========

雪が舞う静寂の世界へ!(兵主大社にて)

雪舞えば老いる事無き心のままに

ひたすら走る熱き想い乗せて

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肉体は誰しも老いてゆく

手の皺も背中の丸みも歩む姿も

でも 何故か心だけは老いてはゆかない

もしかしたら永遠に生きているのかもしれない

お前の歳は

思わず我が心に問うてみる

未だ幼稚さが残る15歳だと

心が笑う

永遠の少女のように・・・・・ちひろ

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お元気ですか。

シロサギソウが咲く頃には教えて戴いた所へ行こうと思っています。

春になれば金勝山から眺めてみたいと思っています。

今度愛車を買い換える時はシルバー(赤にするかも)の4駆にしようと思っています。

一方通行は不便だけどもう慣れました。

リボンの騎士から届いたお手紙を読んで

あれから4.336歩歩いてきました。

どうしたら3キロ減らせるでしょう!

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1月19日は志那浜のコハクチョウは2羽だけでした。

18日は5羽飛来していたと記録されていました。


おいしいもの(2)旧甲州街道、小仏関所奥の「するさしの寄せ豆腐」

2014年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

現在の甲州街道のJR高尾駅の先のほうに行くと駒野木へ入る交差点があります。そこを入ると旧甲州街道が小仏峠へと続いています。

交差点から少し入ると小仏関所のあった跡が空き地になっていて、小仏関所の説明版が掲示してあります。

旧甲州街道を更に奥にはいると「するさしの寄せ豆腐」という看板や幟が出ている峰尾豆腐店が見えてきます。(http://www.mineo-tofu.com/index1.html

そこの豆腐は高尾山の湧水を使っているので美味しいのです。特に寄せ豆腐は大豆の香りがつよく何とも言えない風味があります。

ああ、これこそ日本の美味だな、と感動するような味です。

防腐剤など一切使っていないので夏場は帰宅早々食べないといけません。

小仏峠への登山は静かな裏高尾の山道なので何度も通いました。行くたびに「するさしの寄せ豆腐」を買って帰ります。

豆腐の風味が好きな方へお薦めできる一品です。360grの一パック240円です。

写真でご説明いたします。

まず下は旧甲州街道から見上げた裏高尾の尾根です。

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下の写真は旧甲州街道に面した峰尾豆腐店です。街道の反対側に駐車場があります。上に見えるのは圏央道の高尾ジャンクションの一部です。

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下は店のお嫁さんの写真と「するさしの寄せ豆腐」です。帰宅して早速ワサビ醤油を少々かけて大豆の風味を楽しみました。

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豆腐は江戸時代の末まで日本人の貴重な食べ物でした。生き物を殺して食べてはいけないとう仏教の戒律が守られていたのです。タンパク質に飢えていた人々にとって豆腐は現在以上に美味に感じられたに違いありません。

勿論、戒律があっても魚や鶏は食べていたのですが、その消費量が各段に少なかったようです。

私の祖父も叔父もお寺の就職をしていましたが魚や家畜の肉は避けるようにしていました。「食べなくてもすむものなら、食べないのも良い」としばしば言っていました。そうして豆腐と湯葉を美味しそうに食べていた姿を思い出します。私の父もその影響で湯葉が大好きでした。

話がそれて失礼しました。終わりにいたします。


この時代にもう一度、村山談話を丁寧に読む・・・それは忘却のかなたにある

2014年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

1995年以後に就任したすべての歴代の総理大臣は、「村山談話を踏襲する」と発表します。しかし新聞やマスコミは「村山談話」の文章を出しません。

もう19年も前の1995年には発表された談話ですから、それは忘却のかなたへ行ってしまいました。私も忘れていました。

ところが最近、日本は軍備強化と中国との軍事対決の姿勢を鮮明にし、新しい時代に舵を切ったのです。

この時期に「村山談話」をもう一度、丁寧に読み、深く考えてみたいと思います。下に示したように短い文章ですから、是非、お読みください。

読後にどのような感慨をおぼえるかは、人それぞれです。どのような感想を持っても良いのです。日本は民主国家ですから、その感想を発表するのも全く自由です。

私はこの談話の内容と最近の多くの日本人の一般的な感じ方を比較して、いかのように2つの感想を持ちました。

(1)村山談話の内容と日本の軍備強化と中国との軍事対決の姿勢は少し矛盾しているような印象を受けました。

(2)日本と中国・韓国の最近の抗争の原因はお互いの政治家同士の争いであり、我々一般国民とはかかわりの無いことですという意見を散見します。しかし一般国民が中国や韓国を嫌い、非難している事実を見逃せません。

相手が悪辣な方法で執拗に日本をいじめるからで、関係悪化の原因は先方にあるという意見が日本の世論です。

しかしこのような世論も相手国から見ると、「村山談話」に矛盾しているような印象を与えると私は感じます。

村山富一さんが一私人として談話を発表したのなら問題はありません。しかし総理大臣として発表したのです。

「覆水盆に返らず」というとうり、総理大臣談話はもう撤回出来ません。

この深刻な問題をどうのように超越するかは日本人一人一人の叡智にかかっているのです。あなたの賢さに依存しているのです。政治家だけの責任ではありません。本当に困った問題です。

私にもどうしたら良いか判りません。しかし逃げないで深く考え続けたいと思っています。

===「戦後50年の終戦記念日にあたって」(総理大臣村山富一の談話)====

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。(終わり)

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下に海南島を攻略し、行進をしている大日本帝国の将兵の様子の写真を示します。そしてもう一枚、中国空軍機を撃墜し、談笑をしている大日本の戦闘機乗務兵の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上と下の写真の出典は、http://matome.naver.jp/odai/2137975503266409701/2137983456303631103です。

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立川広己画伯の個展をご紹介いたします

2014年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、下記のように吉祥寺、東急デパート8階で、立川広己画伯の個展が開催されています。

開催期間は1月23日から1月29日までです。

さきほど画伯のお許しを頂きましたので、ご本人のお写真と絵画の数例の写真をお送りいたします。

是非多くの方々がお出で下さいますようにお願い申し上げます。

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=====立川広己 たちかわひろみ画伯 Hiromi Tachikawa=========

http://seikougarou.co.jp/sell/tachikawahiromi.html

1949年~
東京都生まれ。
1972年 武蔵野美術大学卒業
1985年 上野の森絵画大賞展佳作賞(美術館買上)
      フジテレビ「朝のテレビ美術館」作家紹介
1990年 自由美術展佳作賞
1991年 現代洋画精鋭選抜展第20回記念大展金賞
1994年 安井賞展出品
1995年 「華宴」(F150号)通産省買上
2005年 NHK北九州支局出演(作品紹介)
2006年 上野の森美術館主催 現在の視展招待出品
現在   日本美術家連盟会員。自由美術会会員


中国、韓国を憎み、再軍備し、日本を取り戻す・・・大多数の日本人の願い

2014年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

中国、韓国を憎み、再軍備し、日本を取り戻す。そして経済の成長も取り戻す。その勢いで2020年の東京オリンピックを成功させる。

それを大多数の日本人が願っているのです。

日本はこの新しい時代への曲がり角をまがったのです。少数意見は弱い存在です。

中国も韓国も日本の右傾化に敏感に反応して「安重根記念館」を中国のハルピン駅に作ったのです。

時の勢いとは恐ろしいもので、もう逆戻りは出来ません。

この歴史的現象を冷静に描いてみようというのが今日の記事です。

まず1909年ハルピン駅で暗殺される直前の伊藤博文の写真を示します。ロシアの蔵相ウラジミール・ココツフと会談するために、ハルピンへ行ったのです。

その右の写真は、この1月21日に、そのハルピン駅に出来た暗殺者の安重根記念館の内部の様子を示します。

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安重根については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%87%8D%E6%A0%B9にありますので、ここでは省略します。

韓国の朴大統領が中国の習近平国家主席を訪問し安重根記念碑をハルピンに建てることを頼んだのです。

そのあとで安倍総理が靖国参拝をして、一層、中国と韓国を刺激しました。

中国は記念碑よりも目立つ安重根記念館をハルピン駅に作ったのです。

韓国は中国に感謝し、中韓友好関係が一段と促進されたのです。

中国を仮想敵国と考えているアメリカがこの中韓友好関係に神経をとがらせます。

アメリカが安倍総理の靖国参拝を非難した理由はここにあったのです。

安倍総理の不用意な行動や発言で韓国を中国側へ追いやるのをアメリカは大変嫌っているのいです。

日本人は韓国に根強い反米勢力があることを十分理解すべきと思います。

理由はいろいろですが、最近は在韓米軍の慰安婦を前の朴大統領のころから政府が管理し、女性の人権を侵害してきたのです。その訴訟がアメリカの裁判所へなされたのです。アメリカ人にとって不愉快なことです。

その上、米韓共同作戦の統帥権がアメリカ軍にあることや在韓米軍の駐留費用を韓国が担っていることなどへの韓国人の反発がつねにあるのです。

韓国の財界人が中国の巨大市場に目がくらんで中韓友好関係の促進をするのも自然な歴史的現象です。

韓国から米軍基地が無くなっても日本の安全は守れるのでしょうか?

日本人を日本人だけで守る決心は不可欠的に重要です。

しかし現在の世界情勢では一国の安全をその国だけの武力で守ることは不可能なのです。

経済がグローバル化し、NATO(北大西洋軍事同盟)や日米安保や韓米同盟などのような集団防衛条約が多数の国々を縛り付けているのです。

そのような複雑な国際情勢のなかで、日本が中国、韓国を憎み、再軍備し、日本を取り戻す。そして経済の成長も取り戻す。その勢いで2020年の東京オリンピックを成功させる。

日本は、こんな夢を持っているのです。

それを実現するためには国内の少数意見も尊重し、賢い外交を展開しなければいけないことは明白です。

最近、日中友好促進や日韓友好促進をすべきという少数意見が抹殺されるような時代の雰囲気です。

それも自然現象として眺めているだけで本当に良いものでしょうか。

そんな事を考えさせる時代になりました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料===================

 明治末期、初代韓国統監だった伊藤博文元首相を暗殺した安重根の記念館が、中国北東部のハルビン駅に開設された。

 日本にとってはあくまでも「死刑判決を受けたテロリスト」(菅義偉官房長官)である。外務省の伊原純一アジア大洋州局長が中韓両国の駐日大使に「犯罪者をたたえることは受け入れられない」と抗議したのは当然だ。

 中韓は連携して歴史問題で日本を包囲しようとしている。政府は国家の名誉と尊厳をかけ、誤った日本の印象付けが広まらないよう、積極的な対外発信などに努めるべきだ。

 朴槿恵韓国大統領は昨年6月の訪中時に、安重根の石碑建立を習近平国家主席に提案した。安重根は韓国国内で英雄視されているが、第三国にも話を持ちかけて記念施設や像を建てるのは度を越えており、容認できない。

 しかも、当初の石碑の話から記念館へと格上げされた。中国は韓国の申し出には慎重に対応するだろうといった、日本政府の甘い見通しはなかったか。

以下省略・・・・http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140121/plc14012103160005-n1.htmへ続く。


おいしいもの(1)高尾山の冬そば

2014年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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上はケーブルカー乗車駅手前から見上げた高尾山の尾根です。

下は表参道の上の方から甲州街道との交差点方向を見下ろした風景です。

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現在の甲州街道(国道20号線)を高尾橋交差点で直角に曲がり」、ケーブルカー乗車駅へ続く表参道付近には18軒ものソバ屋があります。

その18軒のソバ屋が「高尾山冬そばキャンペーン」をしていて、冬ソバの味を競いあっています。

今朝、何故かソバ食べたくなって車を駆ってザルソバのソバの味をゆっくり楽しんできました。店はいつも行く栄茶屋本店です。ソバの香を大切にしながら店先で打っています。大変美味しいソバでした。

上の写真の右手の古い和風の店の向こうに縦の看板が出ている店です。下に写真でご説明いたします。

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左の写真が店の入口で、店の前に3台ぶんの駐車場があります。この入口の右側にソバ打ち場があり右の写真のように2人の職人さんがソバを打っていました。

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左が今日食べた「せいろソバ」です。右は表参道の地図です。詳しくは、http://www.takaosan.jp/map.html をご覧下さい。

交通は新宿から京王線が表参道のすぐそばまで来ていますので気楽に来れます。そして有料駐車場もありますので車でも便利です。

ソバには通の人が多くてよくうんちくを披露しています。

しかしソバはソバです。決して松坂牛や国産ウナギの蒲焼にはかないません。

ですからソバを美味しく食べるコツは空腹にしてから食べることです。

そして天麩羅ソバや鴨南蛮を選ぶと、ソバの味が分からなくなります。出来たら冷たいザルソバだけを注文すると、ソバの味をしみじみ楽しむ事ができます。香の高いソバ湯も頼みます。

ソバの産地は北海道でも中国大陸でも殻のついたまま運送し、直前に脱穀し、ゆっくり挽いたものなら産地に関係無く美味しいものです。

私は十割ソバより精製した小麦粉を適度に混ぜてあるほうが美味しいと思っています

通ぶって十割ソバは食べない方が良いとも思っています。

以前、山梨県の清春にある有名なソバ屋の翁(おきな)から出てきた若いカップルとすれ違ったことがありました。

男性が大きな声で、「近くのレストランでハンバーグを食べよう!」と女性に言っているのです。その気持ち分かります。

「翁」では天麩羅は勿論一切のタネを出さないのです。ザルかカケだけです。そして十割ソバを注文しないと店主の機嫌が悪いのです。

しかしソバは確かに美味で、現在でも繁盛しているのです。本当に味の分かる人と怖いもの見たさの人の両方のお客で繁盛しいるようです。

話が高尾山の冬ソバからそれてしまい失礼しました。終わりに致します。


昭和とともに消えてしまった暖かい人間関係(2)師弟の愛、その思い出

2014年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は昔の武蔵野に亭々とはえていたケヤキの大木の風景です。木の下には江戸時代の倉が見えています。変わらぬ日本の風景です。

何故、このような写真を出すのでしょうか。それは以下に書く思い出話がつまらないからです。

せめて気持ちの良くなるような写真でも出して勘弁してもらおうと考えたのです。本当にお暇な方だけがお読みください。

昔の小学校や中学校、そして全ての学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。

それは聖職というにふさわしい姿勢でした。溺れる生徒を助けようとして自分が死んでしまった先生が幾人もいました。貧乏な家の子供に親切にし、いつもかばっていました。自分の家に子供たちを招んでくれました。

戦中、戦後に通った国民学校の担任の先生がその通りだったのです。今でもその優しかった顔を忘れられません。

そして昭和23年から26年まで通った新制中学校の先生方も情熱を傾けて生徒の面倒を見ました。特に忘れられないのが高橋貞明先生です。仙台の愛宕中学で担任をしていた先生です。

この高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。でも何を習ったかすっかり忘れてしまいました。忘れられないのは部活で一緒に泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。

この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。

私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生にお世話になりました。

とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私達悪童連を自宅に招んでくれたこともあります。

そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。

あれから60余年後、仙台で愛宕中学校の同期会があった時、話題になったのはその高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。年賀状からお元気の様子が伺えます。

当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。

終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。

その後、共産党系の日教組が勢力を張りだして学校の雰囲気が変わりました。

先生を聖職と言い、富国強兵に協力させた明治、大正、昭和の教育政策が間違っていると主張するのです。

そして先生は聖職ではなく労働者だと言い張るのです。そして「万国の労働者よ団結せよ」という思想を振り回すのです。

こうして師弟愛は歴史の彼方に消えてしまいました。

そして暫くして、日教組の力も消えて行きました。

現在の学校はアメリカ流に個人の個性を伸ばす教育に変わりました。

それも自然な変化です。自然現象です。輪廻という言葉を連想します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「山の中の町、下仁田の正月の寺参りと思い出のことなど」横山美知彦著

2014年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

群馬県にある下仁田町は高崎市から西へ行く上信電鉄の終点の町です。

山々に囲まれた静かな町でコンニャクと下仁田ネギが有名な産物です。

そこから西へ山道を入ると神津牧場があり、その先は長野県、佐久へ出ます。県境の町です。

そこに住んでいる横山美知彦さんが写真とお正月にまつわる思い出の記を寄せてくださいましたのでご紹介いたします。下は現在の上信電鉄の写真と文中にある清泉寺の写真をしめします。なお文中の有山はるみは小生の細君のことです。

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「山の中の町、下仁田の正月の寺参りと思い出のことなど」

                          横山美知彦著

 上州の正月は寒い。暮れから何日も経っていないが、全く新しい寒さが肌を刺す。何故だろう。これは人間の気分的なものと私は考えている。

 やがて訪れる春を待ちきれない気持ちが、寒さに逆らい何とか早く逃げ出したい、そんな気分にしているからではないだろうか。

 昔は、七草が過ぎると小正月、藪入りと云い商店の使用人達は、堰を切る様に両親の待つ自宅に帰って行く。寺との付き合いは、一月のお互いの年始の訪問から始まる。

三が日が過ぎた。翌四日には、住職がその年の寺の行事予定を刷り物にして寺に関する一寸した品物を添えて各檀家を訪れる。だが座敷には上がらず、戸口で平たい新年の挨拶を主人と交わし、何事も無かった様に帰って行く。 

藪入りの16日は檀家から寺へ新年の挨拶に参上する。清泉寺へは、毎年自宅から歩いて挨拶に行く事にしており、上信電鉄の踏切を渡りすぐに左の細道に足を向け、しばらくして再び信号機のない踏切を過ぎて山際を寺に向かう。

昭和20年に東京から疎開してきた有山はるみさんはこの辺りに住んでいたと思い出しながら寺の裏門の石段を上がり境内に入る。

年始、施餓鬼会、春秋の彼岸会、盂蘭盆会、に参拝することにしているが、この寺は母方の先祖の墓がある。

その母方の曽祖父は明治の中頃、現在の仲町の裏通りで理髪店を開いており、当時作成された町内双六にも金子理髪所という店が掲載されている。

店主の金子鶴吉は嘉永四年の生まれで、その三女「たね」が私の祖母になる。

 下仁田では古くから店を営み知られていたようだが、欲のなかった人の様でその子供達(三男四女)も父親に似て財産等は残していない。

正月の寺参りは昔のことをいろいろ思い出させてくれる。何時までもそんな昔の気分にしたっていたい。そんなことを帰りの道すがら思った正月の寺参りだった。

思い出といえば疎開して来た人の事。

私が野球の本格的な投球を初めて見たのは、はるみさんの父親が小学校の荒れた運動場で見せた投球フォームである。それは私にとってまさに衝撃的だった。

運動場に石灰で四角に線を引き、その中心にあるピッチャーズマウント゛からキャッチャー方面へ軟球を投げたのを見たのが、小学四年生の時である。

その人の投球フォームは76才になった私は今でも鮮明に脳裏に残っている。何故なら、地元の青年達の投球フォームとまるで違っていたからである。

左足を高く上げ、右手を大きく後ろに引くや捕手へ凄く速い球を投げた。

その上、ボールがホームベースの近くへ来ると右や左に曲がるのだ。またボールが沈んだり、浮いたりするのもあって皆びっくりした。捕手はつかむことが出来ず困っている。「あれはカーブというのだ」「ドロップだ」とかいう人もいた。まだシュート、ナックルなど誰も知らない頃だった。

当時はルール等も知るわけもなく、ただ校舎側のグランドより一段上がった石垣に腰を下ろし学友と、珍しげに見ていたと記憶している。

今年のお正月も静かに過ぎて行った。山の中の町、下仁田の正月は毎年静かである。今年も良い年になるようにお寺参りをした。

道々、終戦前後のこと思い出しながら一人で歩いて来た。(終わり)

                    平成26116日記


このブログのおかげで感動的な体験をしました

2014年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

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上と下の写真は昨日、霞が浦セイリング中の繁田慎吾さんの愛艇YASUCOから撮影した空の風景です。

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このブログのおかげで知り合った繁田慎吾さんが、12月25日にひき続き、またご自分のヨットに招待して下さいました。

その前の11月に、ご自分のヨット、栃木さくら号に招んでくれた中村文政さんも来て下さいまして、3人で晴天の霞が浦を帆走しました。

実は私は25年続けたヨットを2年ほど前に止めました。

しかしヨットを見るのが好きで、その後も、霞が浦に時々行って、写真を撮って、このブログに掲載していました。

この2年間はヨットは見るだけの趣味になってしまっていたのです。

そうしたら昨年の11月に、繁田慎吾さんと、中村文政さんが自分たちのヨットへご招待して下さったのです。

そして足腰のすっかり固くなった私をヨットの甲板の上へ押し上げてくれて、オーナーズ・チェアに座らせて、セイリングをしてくれたのです。(その体験記は、男の本当の優しさを体験しました。と 今日は繁田さんの美艇へ招ばれました の2つの記事として掲載してあります。)

考えてみると実に不思議な感じがします。

この2人とは全くの他人で、仕事の上でお付き合いをしたことも一切無いのです。

私は繁田さんと中村さの役に立つことは何もしませんでした。

しかしお二人は全く純粋な善意だけで招待してくれたのです。

セイリング後はキャビンの中で心暖まる昼食を供してくれたのです。

魔法瓶につめたコーヒーやほうじ茶をカップに注ぎ、奥様の作った玉子焼きやおかずも出して下さいました。

老人になってしまって、もうヨットの帆走も出来なくなった私に、もう一度その楽しさを味わってもらいたいという善意なのです。

感動的な体験です。奇跡のような体験でした。

最近、このブログでは人間同士の絆(きずな)というものに関連していろいろな記事を掲載しています。

私はまったく新しく、「人間の美しい絆」を教わったのです。

世界が広がりました。上の写真のように明るい世界です。

下にもう少し昨日の写真を示します。最後の写真の左が中村さんで、右が繁田さんです。昨日は、本当に有難う御座いました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

            後藤和弘(藤山杜人)

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昭和とともに消えてしまった暖かい人間関係(1)親類同士の親密な絆

2014年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

上は甲府の湯村温泉から見た鳳凰三山です。山の下に人家があって沢山の人々が住んでいます。遠方から見ると皆が幸せそうに暮らしています。

(下の2枚の写真の上のは1月16日に撮り、下のは1月17日に撮りました。)

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そして下は甲府市の郊外にある銚子塚古墳近辺から見た甲府市の市街です。やはり鳳凰三山の麓に甲府市が広がり沢山の人々が平和に暮らしています。

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この2つの写真を見ながら私は写真に写っていないものを頻りに考えていました。

風景写真には人間が写っていません。ですから人間の心は写っていません。人間のきずなも写っていません。

それはそれとして、最近のマスコミでは「絆(きずな)」という言葉が何度も出てきます。

しかし昔の人間の私にとってこの「絆」という言葉の意味が分かりません。意味不明な不可解な言葉です。困った言葉です。

そこで改めて「人間の絆」というものを考えてみました。

昭和時代に人生の大部分を過ごした私にとって「人間の絆」と言えば親類同士の情愛、や師弟の愛や先輩後輩の関係などを思い出します。

そしてそれらの暖かい絆が、昭和が過ぎると共に日本から消えて行ったことに気が付きました。

すると最近叫ばれている絆とは他人同士の助け合いの精神のことを意味しているようです。はたしてそうなのでしょうか?

そこで、「人間の絆」とは何であるかをより明確にするために、「昭和とともに消えてしまった暖かい人間関係」という連載を始めたいと思います。

第一回で取り上げたものは「親類同士の親密な絆」です。

私の育った戦前、戦後は叔父、伯父、叔母、伯母、が沢山居て、その全ての人に親しく遊んでもらいました。

成人して社会人になってからも泊めて貰ったり食事をご馳走になったり随分と親密な付き合いかたをしたものです。そして従兄弟(いとこ)達とも良く一緒に遊んだものでした。

何かの法事があるとこの親類同士がよく集まって食事をしたものです。

親類同士がお互いに愛し合い、その人間関係を濃密にしていたのです。

この親類のきずなを他人とのきずなより重要視し、大切にする文化は江戸時代からほとんど変わっていないようでした。

それが私の息子や娘の時代になるとすっかり変わってしまいました。

ほとんどお付き合いがありません。非常に疎遠な関係なのです。

雑な言い方をすれば、親類のきずなを重要視する文化が消えてしまったのです。江戸時代から続く日本の文化がまた一つ消えたのです。

淋しい文化になりました。

しかし現在の若い人々にとってそれが良いのです。親類との付き合いが鬱陶しいのです。個人の尊厳と自由を大切にする文化に変容したのです。

それが良いことなのか悪いことなのか私には分かりません。

しかし親類を重要視する文化は世界のあちこちに根強く存続していることも見落としてはいけいないと思います。

インドもインドネシアもタイも親類重視の文化圏です。

中近東もエジプトも親類重視の文化圏です。

反対に親類軽視の文化はアメリカ、カナダにヨーロッパ諸国になります。

日本は脱アジアをして親類軽視の文化圏に入ったのです。

もう一度書いて恐縮ですが、この日本の親類軽視の文化への移行が良いことなのか悪いことなのかを私は判断を致しません。

それは人それぞれの心の問題です。他人が自分の考えを押し付けるべき問題ではありません。

上に示した甲府市の家々に住んでいる人々の一人一人が、いろいろな親類との関係を持っているのです。

一般的に通用する正しい関係などというものは絶対に存在しません。

しかしそれにしても、「親類との親密な文化は無くなった」と言ってもあまり大きな間違いは無さそうです。(続く)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

            後藤和弘(藤山杜人)


洗礼を受けると日本人でなくなる?・・・日本民族の深層心理

2014年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上は甲府、富士屋ホテルの部屋から見た朝焼け空の富士です。1月17日撮影です。)

日本ではキリスト教に関する教養書や解説的な本が多数出版されています。

ですから多くの人がキリスト教が愛と平和の宗教だと知っています。そしてイエスが「左の頬を打たれたら、右の頬を出せ」と言ったことも知っています。「汝の敵を愛せ」と言ったことも知っています。

その一方でキリスト教は排他的な宗教で多くの戦争の原因になっているとも言います。キリスト教の洗礼を受けると先祖の供養が出来なくなると言います。神社での結婚式や仏式のお葬式にも出られなくなり義理を欠くことになります。

簡単に言ってしまえばキリスト教の洗礼を受けると日本人では無くなり一生、孤独な淋しい人生を歩むことになります。

洗礼を受ける前に私はそんな恐れを少し感じました。

その感じ方は日本民族の欧米民族を嫌う深層心理から来ているのかも知れません。日本列島に住む人々の「和」を乱すものを本能的に避けようとする深層心理から来ているのかも知れません。

日本には驚くほど数多くのキリスト教的な学校があります。しかし殆どの卒業生は洗礼を受けません。受けると就職や結婚に差し障りがある恐れがあるからです。

このような感じ方は興味深いものです。

古来、日本列島だけに住み、移民を入れないで来た日本民族の自然な伝統文化なのです。

それはそれで良いのです。

しかし洗礼を受けて、43年間、毎週のようにミサに出席して来た私は上に書いた感じ方や理解が完全に間違っていることを知りました。

結婚式もお葬式も義理を欠かさず出席してきました。先祖の墓参りもし、

神社やお寺を尊重し、大切にして来ました。私が洗礼を受けていると差別する人は一人もいませんでした。

洗礼を受けた後は、以前よりも広い世間を自由闊達に歩いてきました。

しかし他人へ洗礼を受けなさいと絶対に言わないことにして来ました。

そんな態度で、毎週、日曜日にはこのブログで宗教に関する記事を掲載してきました。

そうしたら、以下のようなメールを頂きました。

=========ある方からのメール=========

後藤 和弘 様

こんにちは、ご無沙汰しておりますKHです。

毎日更新されるブログを拝見し、変わらず平安にお過ごしのことと忖度します。

去年の成人の日に後藤さんのブログに初めてコメントを差し上げて一年が経ちました。

ふと外を見ると一面が雪景色になっていた日でした。

一年はあっという間のようにも、ずいぶん昔の事のようにも感じます。

あれからの後藤さんの数々の記事に改めて感謝の意を表したくメールしました。

こちらの近況報告ですが、お世話になっている教会の何か役に立ちたいと思い、行事のお手伝いをさせていただいたり、主日ミサの日は趣味の合唱と声楽練習を生かせればと歌の奉仕をさせていただいたりの日々です。

そして、4月の洗礼に向けて準備を始めつつあります。

教会活動でお世話になっている素敵な方(私が思う日本の聖母マリアのひとり)に、代母さんになっていただけないかと相談したところ、快諾してくださいました。

相変わらずご多忙のご様子の山本神父様のお手を煩わせずに代母さんを見つけることができ、ひと安心しました。

信仰に関する願いは必ず神様にきき入れられると聞きましたが、この一年すべての願いが叶い、本当にそのとおりだと実感し、確信しました。

お蔭さまで主に導いていただき、心豊かに毎日を過ごしています。

これからも神様の祝福が後藤さんと奥様のうえに豊かにありますようお祈りします。

風邪などひかれませんようご自愛くださいませ。  KHより

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拙い内容のブログですが、嬉しい反響でしたのでご紹介させて頂きました。そしてKHさんのためにお祈り致します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

            後藤和弘(藤山杜人)

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(上は中央高速道路、初狩サービスエリアから見た富士山です。1月16日に撮りました。)


新しいもので生活を根底から変えたもの(3)冷凍コンテナ船の開発による食生活革命

2014年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人の食生活は冷凍コンテナ船の開発によって革命的に変化しました。

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(写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/ever_gifted/folder/1218959.htmlです。)

それでは冷凍コンテナの構造を見てみましょう。

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(写真の出典は、左は、http://www.used-container.jp/contents_01/ で右は、http://trynext.com/travel/070520-1300.phpです。)

上に示した冷凍コンテナは巨大なコンテナ船に積んで、船の三相交流電源につないで内臓した冷凍機を動かしながら海上を運搬します。

下の写真は船の電源とコンテナの冷凍機をつなぐ接続部分を示しています。日本の船では右の三相200ボルト交流を使っています。海外船では左の400ボルト交流を使うことがあります。

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(写真出典は、http://www.container-ichiba.jp/power.phpです。)

この冷凍コンテナのおかげで、世界中から安くて新鮮な食材を日本へ運ぶことが出来るのです。

日本のスーパーに並んでいる新鮮食品の多くはこの冷凍コンテナで海外から運ばれたものなのです。

そしてファミリーレストランの食材もこの冷凍コンテナで輸入されています。

現在、日本人は気楽にファミレスを楽しめるのは冷凍コンテナの開発のおかげなのです。

その構造や性能については、http://www.motech.co.jp/container/pdf/container_reefer.pdf に詳細に書いてありますので、ここでは省略いたします。

冷凍輸送はコンテナ船のみではありません。飛行機による輸送や陸上輸送用の冷凍コンテナも開発されました。

そのおおかげで日本各地に新鮮な食材が流通するようになったのです。

例えば水揚げされた魚介類が新鮮なまま、都会はもちろん山奥の小さなスーパーにも並んでいるのです。下にそんな魚の写真を示します。

日本の山奥でも魚や貝のサシミが日常的に食べられるようになったのです。

戦中生まれ、戦後育ちの私は魚をよく食べました。もっと正確に言うと魚しか食べられませんでした。漁港の塩釜から少し内陸に入った仙台市に24歳まで住んでいました。

私が戦前に食べた魚は塩イワシ、塩タラ、イカ、塩ニシン、塩鮭、それに多量のクジラ肉でした。どれも塩釜の北にある三陸海岸の近海で多量に獲れる魚ばかりです。イカ以外はものすごく塩が強いものばかりでした。

戦前、戦後は氷が無いし、ましてや冷凍技術などほとんど無かったのです。

腐らないように塩漬けにして塩釜から仙台へ鉄道輸送しなければならなかったのです。

戦前、戦後の仙台の庶民は塩釜が遠方なので生の刺身は食べられません。

そんなことを思い出しながら写真を見ていると感動するのです。

下の写真は近くの角上魚類という大型の魚屋で撮った写真です。

輸送中も冷凍装置を動かし、魚類を完全に冷凍状態で南米沖やアフリカ沖や北大西洋から日本各地のスーパーへ直接送る流通システムが完備してあるのです。

冷凍も極低温にし、解凍技術も進歩したので地球の向う側の魚や貝でも刺身で食べられます。

こういう時代になると魚の食文化は山奥でも都会でも皆同じになってしまいます。

私がよく行く山梨県の山の中のスーパーの魚の売り場は東京と寸分変わらない刺身が並んでいるのです。その光景は昔の仙台の魚を思い出すと感慨無量です。

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(上はメバルです。)

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(上はシマアジ(左側)とキンメダイです。)

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(上はキンメダイです。)

上に書いた鮮魚は一つの例です。

新鮮なアメリカの牛肉、スペインのイベリコ豚、フランスのツグミ、南米の果実や野菜類、そしてイタリーの養殖黒マグロ、そして中国の怖くて安い冷凍食品などなどが怒涛のように日本へ流れて来るのです。

戦前、戦後の食糧難を経験している私は有難い時代まで生き延びたことに感謝しています。幸せな毎日に感謝しています。

日本という国に生まれた幸運を考え、いまだに飢えに苦しんでいる国々の苦しさに思いを馳せています。

地球上から飢餓が無くなることを祈りつつこの稿を終わりに致します。(終わり)


甲府盆地にある巨大な前方後円墳に登る・・・気宇壮大な気分になる

2014年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

古墳は3世紀から5世紀にかけて全国に造られました。大和地方や機内の前方後円墳だけが教科書に載っているので、全国にあったという事実を知らない人も多いようです。

埼玉県の行田市にある巨大な古墳群は古墳趣味の人のあいだでは有名ですが、実は甲府盆地に全長169mもある前方後円墳があるのです。

それは甲府の南にある曽根丘陵にあります。銚子塚前方後円墳と円墳の丸山塚古墳です。4世紀後半に造られ数々の副葬品が出土しています。

出土品は隣接の考古博物館に展示してあるそうですが、昨日は残念至極にも休館日でした。

昨日、この二つの古墳に家内が登って写真を撮って来ました。足の弱い私は登るのを勘弁してもらい、下から写真を撮りました。下にその写真を示します。

まず案内板にある2つの古墳の位置関係をご覧下さい。

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左が丸山塚古墳で右が全長169mある銚子塚前方後円墳です。

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上が丸山塚古墳です。中腹に立っている家内の大きさと比較すると巨大さが分かります。

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上は丸山塚古墳の頂上です。頂上からは南アルプスや鳳凰三山の峰々が見えるそうです。

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上が銚子塚前方後円墳の前から見上げた写真です。後円部分が一段と高くなっています。

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上は後円部分から前部の方形の部分を見下ろした写真です。

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上は銚子塚古墳の前部の方形を撮った写真で、後ろの雪山は鳳凰三山です。

そして下に古墳趣味の方々へ送る詳しい説明です。クリックすると大きくなります。

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古墳時代は12000年前から続く縄文時代の終わりに続く弥生時代と重なって、その後半の時代と想定されます。弥生時代は地方によって始まる年代が違うようですが紀元前1世紀ころと考えて大きな間違いがありません。

水稲の生産力で各地に富が蓄積され各地に豪族が独立王国をつくっていた時代です。

古墳が朝鮮半島から輸入された文化ですが、副葬品もすべて朝鮮から来た文化様式なのです。その各地の独立王国で勢力をつけて行ったのが大和地方の豪族で、かれらがやがて全国を統一して律令国家を作って行くのです。

しかし古墳時代はまだ漢字が普及していなく、記録というものが残っていません。

従って全国にある古墳の被葬者は分っていません。有名な仁徳陵も応神天皇陵も最近の学術研究では被葬者を確定出来ないことが判明されています。

被葬者は全くの謎ですが、大昔の日本人の気宇壮大ぶりを示しているのが古墳文化と思います。

皆様も甲府盆地の丸山塚古墳と銚子塚前方子円墳に登って、気宇壮大な気分になって下さい。古墳の傍に無料駐車場があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)


冬の山林の中で薪作りをして来ました

2014年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

時々小屋に行って薪ストーブを焚いて、木の燃える香りと、音を楽しんでいます。

しかし薪は自分で山林の中の倒木を拾ってきて、電動チェンソウで切って作らねばなりません。地元の人に倒木なら拾っても良いと聞きました。生木は絶対に切りません。それから山菜やキノコは遠慮しています。それは昔から地元の人の食材なのです。

下のような一番質素な薪ストーブですが、燃え上がると瞬時に部屋中が暖まり、楽しい雰囲気になるのです。

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このストーブは通信販売で買いましたが、地方のホームセンターでは1万円以下で売っています。

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倒木を林の中から家内が運び出しています。 こういう仕事が面白いようです。

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上の写真のように倒木を数本まとめて車の後ろにロープで吊るして、ゆっくり引いて来ます。

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倒木を台に固定して、電動チェンソウで50cm以下の長さに切りそろえ、薪にします。

それを一輪車に積んで、部屋の中のダンボール箱に運び込みます。その作業も家内がしてくれました。

薪を運び入れたらチェンソウや長い電線などと一輪車をかたずけます。

すべての作業が終われば、小屋の周囲は静かさが戻ってきます。

それにしても電動チェンソウの音はけたたましいものです。

以前はノコギリで静かに切っていましたが、体力が無くなって今年から使い出したものです。

便利至極ですが、騒音がひどいのです。世の中うまくいかないものと諦めて使っています。

それにしてもたまに遊びで薪を作るので楽しいのですが、これが毎日なら大変なことだと、昔の人々の生活の苦労を想像しました。それで現在の生活に感謝しました。

昨日の夜は甲府、富士屋ホテルに一泊しました。(終わり)