後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

冬は他に花がありませんのでロウバイの写真をもう一度お送りします。

2014年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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府中市郷土の森博物館公園の「蝋梅の小径」がそろそろ見頃と思い、1月13日に家内と行ってみました。

すると思いかけず満開です。

なんとも言えない香気が漂っています。のんびりし気分で写真を撮って来ました。

冬の花はロウバイだけなのでもう一度、違う構図の写真を掲載いたします。


新しいもので生活を根底から変えたもの(2)パソコンとインターネットなどの電子機器

2014年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

この連載の意図は昔と現在を対比して考えて頂き、現在の幸せを深く味わっていただくことにあります。この時代の日本に生きている幸せを感謝して頂きたいのです。

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上の写真は私が毎日、何時間も座ってブログやFacebookや趣味人倶楽部やBYOOLのような社会ネットワークへ自分の随筆や写真を投稿しているパソコンの写真です。

画面に写っているのがこのブログの表紙です。

このパソコンを初めて使ったのは1990年にオハイオ州立大学で仕事をしていた時でした。それ以来、34年間、パソコンとインターネットは自分の生活には欠かせないものになっています。

インターネットは人間の生活を驚異的に便利にする奇蹟的な技術です。

手紙の交換はもちろん写真や動画を添付して、瞬時に世界の果てまで送れるのです。

その上、百科事典のように何でも検索して調べることが出来ます。

辞書の役目や計算器の役目もします。

従来は活字文化でしたので、限られた人しか本を出版したり新聞に記事を掲載することが出来ませんでした。

それがインターネットの普及で、誰でも自分の意見や作品を世界中に公開出来るのです。

従って専門家と素人の境があまり厳密で無くなり、人間の平等がより広く実現されるようになったのです。「自由と平等」がより普遍的に定着するようになったのです。

私のように引退した人が社会と繋がることも可能になったのです。

このささやかなブログも毎日平均750件のアクセス数があり、時々はコメントも頂けます。

電子技術の発展はパスコンとインターネットだけではありません。

携帯電話やスマートホンをはじめ、デジタルカメラは人々の生活様式を根底から変えたのです。

電話線の引いていない山や海上でも電話がつながるのです。メールも写真も携帯電話で送れるのです。

昔のカメラはセルロイドのフィルムに感光させて、現像して、感光紙に焼き付けて写真として保存していたのです。

現在のデイタルカメラはフィルムも感光紙も要りません。小さなチップに写真を記録保存し、それを感光紙に焼き付けることもメールに添付にして送れるのです。

ブログにも掲載出来ます。

その上、新幹線や自動車の部品の作動などあらゆる工業製品の作動をコンピューターで制御しているのです。

このように電子技術の1990年前後の革新は18世紀のイギリスでの産業革命に匹敵する技術的革命と考えられます。

技術革新は人間の本性は変えないと言います。人間の幸不幸に関係ないとも言われています。

しかし技術的革新を上手に使えば人間の生活がより快適になります。その快適さを幸福へつなぐ賢さがあれば良いのです。生き方の賢さが求められるのです。

その賢しさがあれば人間は必ずより幸福になります。

こんな時代の日本に生活出来ることに私は感謝しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)


いつのまにか消えてしまった物(3)蒸気機関車、市電に都電、焼玉エンジンの小さな連絡船、青函連絡船、な

2014年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

この連載の意図は昔と現在を対比して考えて、現在の幸せを深く味わっていただくことにあります。この時代の日本に生きている幸せを感謝して頂きたいのです。

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蒸気機関車のことは後回しにして昭和時代に活躍した青函連絡船と近い島々とを行き来した小型客船のことをまず書きます。

青函連絡船は石川さゆりの「津軽海峡冬景色」という流行歌で一層、有名になりました。まだ貧しかった昭和30年代まで青函連絡船は北海道から出稼ぎに来る人々がよく乗った連絡船です。

汽車の客車を数輌そのまま胴体に入れて運んだのです。豪華客船などなかった昭和時代には大きな立派な客船に見えたのでした。

しかしどうしても出稼ぎのことや寒い冬の津軽海峡の風景を連想させるのです。

それは日本の悲しい暗い時代の思い出でした。

その青函連絡船も青函海底トンネルが出来、列車が直接、北海道と行き来するようになって消えて行く運命に会ったのです。下にその写真を示します。

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(写真の出典は、http://kam-r.sub.jp/ainu/seikann.htmlです。)

連絡船の後ろが大きく開いて地上のレールと胴体の中のレールが繋って、客車を数両のみ込む得る構造になっていたのです。その構造は私の子供心の好奇心を掻き立てたものです。

それはさておき今度は近くの島々との連絡船について書きます。

昭和時代の小さな客船の写真を検索しましたが見つかりません。やっと1枚だけ見つけたのが下の小豆島と高松の間を結ぶ客船の写真でした。

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(写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/dreamisland1/archives/55520913.htmlです。それにしても、こんなオープンな、しかも座る場所もなさそうな客船で、現在でも1時間かかる小豆島から高松までの船旅をみんな耐えてたんですね。)

乗客は小豆島の札所を巡るお遍路さんたちです。

戦前、戦後、私達家族は仙台に住んでいて、夏の海水浴には塩釜港から宮戸島までよく行ったのです。母方の祖父が昔にその島の小学校の校長をしていたので歓迎してくれる家があったのです。

その塩釜港から宮戸島までの1時間ほどの航路で乗った小さな客船が不思議なエンジンを付けて、ポンポンとマンガのような音を立てて走るポンポン船だったのです。

狭い客室に乗ると船員が不思議にもこぶし程の丸い鉄の玉をバーナーで焼いているのです。やがて鉄球が真っ赤になると、それをエンジンの中へ入れ、ネジで密閉し、手動ハンドルを回してエンジンを始動させるのです。

簡単に言ってしまえば、真っ赤に焼けた鉄球がエンジンの点火栓の役割をして、重油と空気の混合物を爆発させ回転運動をさせるのです。

この構造のエンジンの決定的な長所は点火栓用の元気も始動モーターも発電機のバッテリーも一切不要だということにあります。構造が簡単なので海上で故障することが無く、万一故障しても素人でも修理できるのです。

ですからこそ19世紀末期から195お頃までは世界中の小型船のエンジンとして一世を風靡したのです。

しかし信頼性の高い大容量のバッテリーと故障のしない電気系統が完成されてからは消えて行き運命に会ったのです。下にこの焼玉エンジンの構造を示します

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(図面の出典は、http://horippa.gozaru.jp/bike/plug/pluge.htmlです。)

さて焼玉エンジンことを詳しく書いたので蒸気機関車のことは2つの思い出だけを書いて終わりにしたいと思います。消えてしまった市電や都電については省略いたします。

(1)蒸気機関車が牽く列車に乗ると白いシャツが煤で真っ黒になる事実。

機関車の火室の中で石炭を急激に燃やすためには前部の煙突の下から高圧蒸気を上へ向かって吹き上げなければなりません

そうすると火室の後ろの空気取入口から多量の空気が吸い込まれます。

石炭が勢い良く燃え上がります。この時、石炭についていた炭塵が煙突から多量に吐き出されるのです。

昔の客車にはエアコンなどありませんから窓を開けます。するとこの炭塵や燃え残りの煤が多量に飛び込んでくるのです。それで白いシャツが真っ黒になります。

顔も煤けてしまいます。襟元には炭塵が入込んでザラザラします。ですから夏の蒸気機関車の旅はひどく苦しいものでした。

(2)長距離の蒸気機関車の旅は苦しいものでした。

戦前、戦後はよく仙台と兵庫県の間を往復しました。

父方の祖父が住職をしていた村落のお寺に一家で里帰りしたのです。

仙台から上野まで特急で8時間、東京で一泊して、大阪までまた8時間です。

戦後は東京の宿泊を省略して東海道の夜汽車に乗りました。暑さと窓から容赦なく入ってくる炭塵と煤で目が真っ赤になって痛かったのです。

近年は観光用の蒸気機関車の引くエアコン付の列車に乗って楽しんでいる人が多いようです。

しかし私の記憶にある蒸気機関車は苦しい旅の思い出です。

下に炭塵と煤を多量に吐き出して走っている蒸気機関車の写真をしめします。

でも蒸気機関車は懐かしいものです。

皆様は蒸気機関車にどのような思い出をお持ちでしょうか?

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(写真の出典は、http://fotopus.com/tetsudo/kaneko/cat66/です。)

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(写真の出典は、http://railway-picture.seesaa.net/category/5198789-1.htmlです。)


新しいもので生活を根底から変えたもの(1)新幹線と大型旅客気の普及

2014年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

この連載の意図は昔と現在を対比して考えて頂き、現在の幸せを深く味わっていただくことにあります。この時代の日本に生きている幸せを感謝して頂きたいのです。

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東京オリンピックの開催された1964年の直前に東海道新幹線が開通しました。

レールの幅が広軌になり最高速度も時速250Kmを越え、東京ー大阪を3時間でむすびました。

それまでは東海道線の最速の特急の「つばさ」でも6時間以上かかっていたのですから革新的な鉄道技術の進歩でした。

下に当時の「ひかり」の写真を示します。

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(写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/shinshin0014/27838903.htmlです。)

この新幹線はその後、北は青森、南は鹿児島まで建設され、そして長野新幹線、新潟新幹線、山形新幹線、秋田新幹線と延長されました、近い将来には金沢や札幌まで延長する工事が完成します。

この新幹線は世界中で有名になり、日本の新幹線技術は各国へ輸出されました。下にその後開発された新幹線の先頭の車両の写真をしめします。201312131

(写真の出典は、http://www.npc.bz/feeling/1001.htmlです。)

新幹線の全国への敷設は日本人の旅行を劇的に変えたのです。新幹線の快適さの魅力は観光旅行をする人の数を非常に増大させたのです。

そしてその高速さは,東京ー大阪間の日帰り出張を可能にし、日本の経済の効率を押し上げ、大きな経済成長基礎になったのです。

その上、新幹線は日本人を明るくさせ、敗戦で失った誇りや自信を取り戻させたのです。

経済が活性化すると新幹線より遅れましたが全国に大型旅客機の離着陸できる空港が作られました。

そして現在では大型空港の無い都道府県は無くなったのです。

アメリカ製の300人乗り、400人乗りの大型旅客機が導入され、全国を航空路で結んでいるのです。

下に北海道の千歳空港を飛び上がろうとしている旅客機の写真を示します。

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(写真の出典は、http://club681.dyndns.org/kawasemi/log/eid541.htmlです。)

そして下は夕日に向かって離陸した旅客機の写真です。

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(写真の出典は、http://www.welcome-to-chitose.jp/category/detail.php?item=146です。)

北海道には千歳空港だけでなく函館空港、帯広・釧路空港、女満別空港などがあり本州各地の空港との間に頻繁に旅客機が往復しています。

これは沖縄も同様で、那覇空港と石垣島空港は本州や北海道の空港と結ばれています。

その上、数多くの離島にも空港があり、小型旅客機が飛んでいます。

新幹線と大型旅客機の普及はさらに全国を巡る高速自動車道路によって日本人の旅の快適さを劇的に変えたのです。

自分の話になって恐縮ですが、老後は各種のパック旅行によく家内と一緒に出掛けます。パック旅行では航空料金が格安なので大型旅客機を何度も利用しました。

昔、蒸気機関車の煙にまみれながら苦しい旅行をしたことを思い出し、隔世の感に打たれています。

この現在の日本に生活していることを先人達へ深く感謝しています。そして先の大戦で犠牲になった人々の冥福を何度も祈っています。旅に出るたびに感謝し、祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)


いつのまにか消えてしまった物(2)の訂正:鉱石ラジオはまだ生きていた!

2014年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、掲載しました「いつのまにか消えてしまった物(2)鉱石ラジオ、真空管ラジオ、蓄音機、レコードに電蓄などなど、」では鉱石ラジオが消えてしまったような表題でした。しかし丁寧に検索してみると現在でも鉱石ラジオを作る人がいて、その材料を売っているのです。

いろいろな情報がありますが、以下に面白い文章で鉱石ラジオの作り方を説明したものがありましたのでご紹介致します。

=====鉱石ラジオを楽しもう(http://happy.ymeco.com/ksr/)=====

昔々、まだICやトランジスターがなかった頃、ラジオ放送が始まりました。ラジオ放送を聴くためには真空管を使ったラジオがありましたが、とても高価でした。このラジオ放送を手軽に聞くために鉱石ラジオが使われました。
 この鉱石ラジオは電気や電池を使いません。完璧なエコラジオです。
ラジオ受信用のアンテナから拾った微弱な電波のエネルギーをそのまま利用してイヤホンを鳴らしてくれます。
 この鉱石ラジオの音は何とも言えない安らぎの音を出してくれます。
 今や時代遅れの鉱石ラジオですが、鉱石ラジオを作ったり、聞いたりして楽しみましょう 。

この鉱石ラジオのホームページでは、身近にある物を部品として利用して鉱石ラジオを作る楽しみを紹介します。
皆様からの投稿もお待ちしています。

日本のラジオ放送は1925年3月1日放送開始、「あーあー聞こえますか? 」日本放送史上初めて、肉声が電波にのった日です。 同7月12日より本放送を開始。

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鉱石ラジオとは

鉱石ラジオは次の部品の組み合わせで構成します。

アンテナとアース
2.同調回路
3.検波回路
4.レシーバー 
この部品の検波回路に鉱石を用いたものが鉱石ラジオです。
ラジオ放送の電波を受信する場合、電波から音声信号を取り出す(検波という)には、電流を一方向だけ流す整流作用を持つ鉱石に電気信号を通します。
整流作用を持つ鉱石には、方鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、紅亜鉛鉱、閃亜鉛鉱等があります。
これらの鉱石の結晶の表面の適切な位置に細い金属線(「猫のひげ」と呼ばれています)を接触させると、整流作用を持つ性質があります。
鉱石へ接触させる金属線の接触位置によって整流作用の状態が大きく変わるため、微妙な調整が必要で、この場所を探し当てるのも楽しみの一つです。

このラジオの回路図は下に示してあります。

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======以下省略します=================

この鉱石ラジオの面白さの一つにアンテナを高く張って、空を飛んでいる電波をなるべく強くつかまえる作業があります。

高さ10m位の竿竹か木の棒を二本用意して庭の端から端へエナメル被覆をした銅線をなるべく長く、高く張ります。そしてその一端を室内に引き込み、上の図の同調回路のコイルの一端につなぐのです。

アンテナ銅線から、せっかくつかまえた電波が棒を伝わって地面に逃げないように両端の絶縁を完璧にします。白い碍子を両端につけると本物のアンテナの様に見えます。

アンテナを高く、長く張ると、夜には世界中の放送が聞こえます。

昔はよく「モスクワ放送」を夜に聞いたものです。電波はウラジオストックから発信されていたようです。現在はまさか「モスクワ放送」なんて消えて無くなってしまったと思います。

きっと高齢の男性の方々は同じような体験をしたと思い、付記致しました。(終わり)


いつのまにか消えてしまった物(2)鉱石ラジオ、真空管ラジオ、蓄音機、レコードに電蓄などなど、

2014年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

この連載の意図は昔と現在を対比して考えて頂き、現在の幸せを深く味わっていただくことにあります。この時代の日本に生きている幸せを感謝して頂きたいのです。

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いつのまにか消えてしまった物に鉱石ラジオ、真空管ラジオ、蓄音機、レコードに電蓄などなどがあります。

戦後間もなく私は鉱石ラジオを作りました。その後真空管を3本使った真空管ラジオを作りました。そして真空管アンプも組立て、電蓄も作りました。

大学を卒業して専門の仕事が忙しくなってから、それらのことは忘れていました。

それがいつの間にか鉱石ラジオ、真空管ラジオ、蓄音機、レコードに電蓄などなどがこの世から一切消えてしまったのです。

下に戦前、戦後にどの家にもあった真空管ラジオと真空管の写真を示します。

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(上と下の写真の出典は、http://www.ne.jp/asahi/uchio/tokyo/radiokobo/tube-radio/1/です。)

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(上の真空管の写真の出典は、http://www.radioshounen.com/upfile/vacuumtube/rimote/remote.htmです。)

このような懐かしい物はほとんど消えてしまいましたが、現在でも趣味として作って、楽しんでいる人々もいます。

手でハンドルを回し、ゼンマイを巻いてレコードを回転させる蓄音機も金持ちの家にはありました。そして電動式の蓄音機を電蓄と言ったのです。

黒いベークライト製の円盤に音楽の振動を刻み込んだ溝があり、その溝にピックアップの針をあてて振動をとらえ音楽に変えてラッパから出していたのです。

現在のCDデスクの元祖のようなものでした。

上の写真にあるラジオは戦中、戦後がどこの家にもあり重要な政府の発表はみんなこのラジオで聞いたのです。

真珠湾攻撃の大本営発表も、空襲警報も終戦の時の昭和天皇のお言葉もみなラジオに噛り付くようにして聞いたものです。

真空管が3本入っていて、一本は電波を音声に変える検波をする真空管で、二本目はその音声震動を拡大する増幅管です。三本目の真空管は交流電源を直流に変える整流管でした。

それに微弱な電波を増幅する真空管がついた4本の真空管を使ったラジオも戦後に並四という名前で流行したものです。

拡声器はマグネチック・スピーカーで丈夫なものでしたが音質が悪いのです。少し高級なラジオには音質の良いダイナミック・スピーカーが使われていました。

時代とともに大きな真空管は小さなミニチュア管に変わり、やがてIC(集積回路)がとって代わり、真空管が消えてしまったのです。

シリコン半導体で出来たIC(集積回路)は画期的で、それこそがパソコンを生んだのです。

このように現在のパソコンやインターネットへ続く技術的な歴史には実に数多くの技術者達の血のにじむような努力があったのです。

鉱石ラジオ、真空管ラジオ、蓄音機、レコードに電蓄などなどが消えたのは、それに代わり、より一層優れたものが出来たからだったのです。

このような人間の努力の歴史を技術史と言いますが、とかく忘れ去られ傾向があり、残念です。

それも人間の自然なのでしょうか。また輪廻という言葉を連想しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)


いつのまにか消えてしまった物(1)昭和の台所の炊事道具

2014年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

この連載の意図は昔と現在を対比して考えて頂き、現在の幸せを深く味わっていただくことにあります。この時代の日本に生きている幸せを感謝して頂きたいのです。

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ふと気が付くと祖父母、両親だけでなく知人や友人がいつの間にか消えてしまいました。そして人間だけではありません。日頃馴れ親しんだいろいろな物が姿を消してしまったのです。

昭和という時代が随分と大昔になってしまったのです。

消えてしまいましたが今でも懐かしく思い出すものがあります。

(1)釜戸(竈)、七輪、井戸と釣る瓶、炬燵にちゃぶ台、お茶の間と茶箪笥などなど、

(2)鉱石ラジオ、真空管ラジオ、蓄音機、レコードに電蓄などなど、

(3)蒸気機関車、市電に都電、焼玉エンジンの小さな連絡船、青函連絡船、などなど、

もっともっと沢山ありますが、今日は上の(1)について簡略に書いてみたいと思います。

まず昭和の初めごろの台所の写真をご覧ください。

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(写真の出典は、http://happy.ap.teacup.com/jumadiary/998.htmlです。)

この台所は井戸が内部にあるので、かなり裕福な家のものです。

この写真には釜戸、七輪、井戸と釣瓶、が写っています。

そして低い流しの上には白い琺瑯びきの洗面器があり、流しの下には白い七輪とぬかづけを作るカメがあります。

釜と釜戸は奥に黒光りしています。その左の棚にはおひつとザルがあります

この窯でご飯を朝一回だけ焚くのです。裕福な家では夕方も焚きます。

燃料は薪です。

照明は写真に写っているように裸電球一個だけです。当時は電燈の数を3個とか5個と限定して、使用するアンペア数に従って電気会社と契約していたのです。

炊きあがったご飯をおひつに入れてお茶の間へ運び、ちゃぶ台を囲んだ家族へ食べさせたのです。

男子厨房に入らずという習慣を守って台所は女性だけの場所だったのです。

茶の間は一家団欒の楽しい場所でした。その団欒の中心が細君と子供達です。細君の人柄で明るい家庭が出来たり、静かな家庭になります。

ちゃぶ台は家庭の幸福の象徴だったので、それが消えてしまった現在でもその言葉は残っています。

戦争中のちゃぶ台の上の電燈には灯火管制のための黒い布が掛けてありみじめでした。そして戦後はローソク送電といって電圧が下げられて暗い電燈になったものです。

夕食が終われば主人は書斎へ引き上げ、細君は台所で食器洗いです。

子供たちはちゃぶ台で宿題をします。その後はラジオを聞いて、ちゃぶ台をたたんで、そこに布団を敷いて寝るのです。

冬はちゃぶ台の代わりに炬燵を使っている家が多かったようです。

多くの家では炬燵と火鉢だけが暖房だったのです。

ですから冬は大変寒く、家の中でもはく息が白くなったものです。

寝ると蒲団の襟に息が凍り付いて、白くなったのです。

そんな生活は戦後も続きました。それが変わってきたのは1964年の東京オリンピックの前後だったような気がします。しかし変化は都会からはじまり農村地方はかなり後まで上の写真にあるような台所を使っていました。それが完全に消えたのは1980年代の経済の高度成長の頃だったのです。

それにしても昭和という時代が終わってから既に26年もたってしまったのです。

昭和という時代も遠くなりいろいろな生活の道具が消えてしまいました。

時代によって変わり過ぎるような気分がします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)


冬の花、ロウバイが満開になりました!

2014年01月13日 | 写真

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府中市郷土の森博物館公園の「蝋梅の小径」がそろそろ見頃と思い、午後に家内と行ってみました。

すると思いかけず満開です。

なんとも言えない香気が漂っています。のんびりし気分で写真を撮って来ました。

梅林も一本くらいは咲いていると思い根気良く探し歩いて、やっと一本だけ咲き出した木を見つけました。白加賀という梅でした。

他に花を探しましたが水仙が数本とタンポポが一輪だけ咲いているのをやっと見つけました。まだ冬の真っ最中なのです。下にこれらの写真も追加しておきます。

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中国人蔑視・韓国人蔑視へと急変する日本人の精神的風土(続き)そして失うものと得るもの

2014年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は冬の雑木林です。これを眺めながら気を静めて、下の文章をお読みください。

前回の記事、中国人蔑視・韓国人蔑視へと急変する日本人の精神的風土の中で私は以下のように書きました。

・・・最近、中国人や韓国人を蔑視し、悪しざまに言う人が急に増えてきました。

新聞、雑誌はそれほどでもありませんが、ネット世界では戦前の極端な蔑視言葉が飛び交っています。

ネット社会には報道規制がありませんので、それが現在の多くの日本人の本音と考えられます。

汚すぎる言葉を使わずに、その言わんとすることを以下に列記します。

(1)日本固有の領土の尖閣諸島や竹島の領有を主張する中国人や韓国人は理不尽すぎ、国際常識もわきまえない馬鹿者達だ。

(2)毒入りの食品や欠陥製品を日本人へ売りつける彼らは絶対に信用できない。

(3)戦前、日本が朝鮮を領土化したり満州国を作ったことは彼等のためにして上げた正しい政策であった。

(4)近代化が遅れて軍備の不十分だった中国へ侵攻したのは当然のことである。

欧米諸国は同じことを行っていたではないか。

それを今更、日本を非難してもしょうがないではないか。そんな恨み節など聞いていられない。

(5)靖国神社参拝で大騒ぎするのは間違っている。日本はもう一度、「軍事大国」になり、中国人や韓国人に馬鹿にされないようにする決心をすべきだ。

(6)中国人や韓国人が喧嘩を売るなら、いつでも買ってやる。日本の自衛隊は近代化されていて強いんだぞ。

などなどです。

私の尊敬する友人たちや、多くの若い人達が、最近、上に書いたようなことを言うのです。

私はここ数年で日本人の精神的風土が急速に変わりつつあると肌で感じています。

誤解しないで下さい。ここで私は聖人君子ぶりを発揮して、この急変はいけないことだなどと説教するつもりは毛頭ありません。・・・

今日は説教でなく、この急変で失うものと得るものを冷静に比較してみたいと思います。

失うものの代表例は下に示したような日本がこうむる経済的損失です。

(1)中国と韓国との貿易額が伸び悩み、貿易で得られる利潤を失う。

(2)中国に展開している数千の日本の会社や工場ので働く中国人の士気が低下し企業の営業利益や工場の操業利益が下がる。士気だけが低下するのではなくいろいろなトラブルが起き正常な企業活動が妨害される。

(3)中国や韓国から日本へ来る観光客が激減し、観光地のホテルや旅館が大打撃を受けている。

上の(1)と(3)は日本の新聞でよく報道されています。しかし(2)はあまり顕著な形で起きないのでニュースになりません。しかし中国にある日本の会社の工場で実際に働いていた人の話を聞くと大変な状況になっているのです。

失うものは経済的損失だけではありません。

中国人や韓国人は感情的には日本人に反発していますが、理性の上では尊敬もし、信頼しているのです。

明治維新をして、欧米の植民地にもならず、東洋人の名誉を守った民族として理性の上では尊敬しているのです。その尊敬と信頼を完全に失しなってしまうのです。

さて失うものは分りましたが、得るものは何でしょうか?

精神的に得るものは、快感です。他人を蔑視し、他人の悪口を言うと大部分の人は快感を感じます。優越感で幸せになります。

これは万国共通の心理なのですから非難しても仕方のないことです。

最近の多くの日本人はこの境地にあるのです。

その上、中国人や韓国人を蔑視することで経済的に得する人々も出てくるのです。

蔑視すれば、敵愾心も出て来ます。当然、軍備増強の考えが自然と湧いてきます。軍事産業に関連した会社の利潤が増大します。

それが刺激になって日本の産業全体が活性化し始めます。

アベノミックスは日銀の金融緩和だけではないのです。

公共事業の投資の拡大、企業の事業税の減少、個人消費増大への各種政策、

武器輸出と軍備強化による軍需産業の利潤拡大などなど複雑多岐にわたっているのです。

そして安倍総理の政治目標の一つには日本人が再び自信を持って経済成長を再開することなのです。そのためには世界の首脳達を訪問し、外交を推進し、日本の大国ぶりを国民へ見せることも重要なのです。

これが彼が言う、「日本を取り戻す!」ということなのです。

その方法の一部に中国人・韓国人へ対する蔑視感情を利用しているのです。蔑視感情を増大させ、それを利用しているのです。新聞も同調しています。

中国人や韓国人を蔑視するかしないかは人それぞれです。個人の自由です。

あなたはどうするかは他人へ言う必要などありません。

どちらにしても日本の自然の風景は下の八ヶ岳の写真のように年年歳歳変わりません。人の心だけは時代とともにめまぐるしく変わってゆくものです。無常という言葉を連想しながらこの稿の終わりと致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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寒い日が続きますので温室の花々を見て暖まって下さい!

2014年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年の1月に撮った新宿御苑の温室の花々の写真をお送りいたします。

寒い日が続きますので温室の花々をご覧になって暖まって下さい!

新宿御苑の西洋式温室は明治8年に出来たそうです。日本の温室のさきがけとして文明開化のシンボル的存在だったそうです。

戦災で壊滅し、昭和33年(1958年)に大温室が復活しました。それから54年後の2012年に大改修がなされ全く新しい構造が出来上がりました。

その大改装が終わったので昨年の1月23日に訪問して撮ってきた写真です。

この温室は明治時代からランの花の新品種を作ることに努力し、数多くのシンジュクという名前が語尾についたランの品種を栽培して来たのです。

その伝統で温室の中には小さな花々が幾種類も咲いていました。花は小さく、可憐なのですが、精神を集中して眺めてると絢爛と見えるから不思議です。

なお今回の大改修の機会に絶滅危惧種の熱帯植物の保護、栽培もしています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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上が大改装後の温室の威容です。

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温室内は広々として熱帯のスイレンが咲いていました。

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大きな池の反対側の部屋にはいろいろなランの花々が咲いています。

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温室内は暖房がきいていて快適です。避寒をしながら花々が楽しめます。隣に広い有料駐車場があります。一度お出かけになってみて下さい。(終わり)


近所のMNにいちゃんの死と津和野のカトリック教会のことなど

2014年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

よく脈絡の無い連想をします。そんな雑文をまたお送りします。

今日は日曜日なのでこれからミサへ行きます。

朝から昨日あった近所のMNにいちゃんのお葬式のことと津和野のカトリック教会のことを考えています。

MNにいちゃんは心の優しい人でした。我々がここに引っ越してきたときまだ10歳くらいで、小学生でした。

それで我々は彼が享年60歳でこの世を旅立つまで、彼のことを、「MNにちゃん」と呼んでいました。

穏やかな奥さんを貰い、二男二女にも恵まれ良い家庭をもっていました。

その一家は非常に礼儀正しく、会えば必ずニッコリしながら挨拶をしてくれるのです。

数日前に幼児の頃、可愛いがっていた娘さんが来てMNにいちゃんの死を知らせてくれたのです。急な病死でした。

自分より18歳も若く、隣に住んでいた人が死ぬのはショックです。

彼の母親には49年余前私達が小金井に越してきて以来長い間いろいろお世話になったのです。

その「おばさん」も2年ほど前に亡くなりました。MNにいちゃんがその母親のそばへ行きたかったのでしょうか。

今日のミサではMNにいちゃんとその母親の安らかな眠りをお祈りしてくるつもりです。

そして今朝はどういう訳か脈絡も無く、しきりに3年前に訪ねて行った津和野のカトリック教会のことを思い出していました。

津和野には長崎の大浦天主堂を小さくしたようなカトリック教会があったのです。

私は独り、教会を訪ねました。長崎によくあるような畳敷きの教会です。

維新後の明治政府による弾圧(浦上4番崩れ)のとき、113名のキリシタンが津和野へ送られ、拷問に遭い、36人が殺されたのです。

その殉教者の鎮魂のために、この教会を大浦天主堂に似せて建てたのです。

その教会の横には大きな幼稚園があり数多くの園児が遊んでいました。

そんなカトリック津和野教会の写真を示します。

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津和野でのキリシタンの殉教につては「乙女峠友の会」を検索すると詳しく出ています。

ついでに観光案内も少し書いておきます。

津和野は城下町でした。戦災に合わなかったので江戸時代の街並みが良く残っています。白い壁や家老門の連なる風景は息をのむような美しい風景です。

感動したのは町役場が昔の家老門の中に古風な木造の建物を使っていることです。日本全国で江戸時代の家老門を構えている役場は津和野だけだそうです。

下に津和野の風景写真を示します。一番上の写真が町役場です。

冒頭に書いたように、本当に脈絡の無い雑文で申し訳ありません。お読み頂き有難う御座いました。(写真は2011年9月16日に撮影しました。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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小さな飛行場と小さな飛行機の見える公園

2014年01月11日 | 写真

都立武蔵野の森公園は調布飛行場の西側にある広大な公園です。

伊豆七島へ行く小型旅客機と趣味の小型機が時々離着陸しています。

今日は風も無く陽射しもあったので家内と散歩に行きました。

小さな飛行場と小さな飛行機の見える風景写真を下にお送りします。

少しだけでも浩然たる気分になって頂ければ嬉しく思います。

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駐車場から公園に入るとこの池があります。ここから右手方向に曲がると飛行場の滑走路に並行した遊歩道が南方向へ真っ直ぐ伸びています。今日はこの道を散歩しできました。

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右に管制塔が立っています。その左の白い建物が最近新装されたターミナルビルです。伊豆七島へ行くお客さんの切符売り場と待合室になっています。

ターミナルビルの前で小型旅客機が出発の準備をしていました。

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出発準備の終わった旅客機がエンジン全開で轟音を上げながら離陸しようとしています。大島までは40分、神津島や三宅島までは一時間以上かかるようです。ネットで検索すれば離着陸の時間と料金が出ています。

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上と下は個人所有の趣味の小型飛行機です。

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バブル経済がはじけた1990年頃までは趣味の小型機が50台、60台と所狭しと駐機してありました。

不景気になってから数が減ってしまい、現在は20機ぐらいになってしまいました。義兄も小型機を所有していたので乗せてもらい、関東平野を空から見たことがありました

そんな景気の良い時代も随分と昔になったものです。

再びそんな時代が来るようにと祈りながら飛行機の写真を撮っていました。それにしても時代の流れは早いものです。(終わり)


中国人蔑視・韓国人蔑視へと急変する日本人の精神的風土

2014年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真は冬の日の京王フローラル・ガーデンです。)

最近、中国人や韓国人を蔑視し、悪しざまに言う人が急に増えてきました。

新聞、雑誌はそれほどでもありませんが、ネット世界では戦前の極端な蔑視言葉が飛び交っています。

ネット社会には報道規制がありませんので、それが現在の多くの日本人の本音と考えられます。

汚すぎる言葉を使わずに、その言わんとすることを以下に列記します。

(1)日本固有の領土の尖閣諸島や竹島の領有を主張する中国人や韓国人は理不尽すぎ、国際常識もわきまえない馬鹿者達だ。

(2)毒入りの食品や欠陥製品を日本人へ売りつける彼らは絶対に信用できない。

(3)戦前、日本が朝鮮を領土化したり満州国を作ったことは彼等のためにして上げた正しい政策であった。

(4)近代化が遅れて軍備の不十分だった中国へ侵攻したのは当然のことである。

欧米諸国は同じことを行っていたではないか。

それを今更、日本を非難してもしょうがないではないか。そんな恨み節など聞いていられない。

(5)靖国神社参拝で大騒ぎするのは間違っている。日本はもう一度、「軍事大国」になり、中国人や韓国人に馬鹿にされないようにする決心をすべきだ。

(6)中国人や韓国人が喧嘩を売るなら、いつでも買ってやる。日本の自衛隊は近代化されていて強いんだぞ。

などなどです。

私の尊敬する友人たちや、多くの若い人達が、最近、上に書いたようなことを言うのです。

私はここ数年で日本人の精神的風土が急速に変わりつつあると肌で感じています。

誤解しないで下さい。ここで私は聖人君子ぶりを発揮して、この急変はいけないことだなどと説教するつもりは毛頭ありません。

ここで書きたいことは何故このような変化が起きたかです。理由は複雑でいくつもありますが、簡略化して書いてみます。

(1)中国が尖閣諸島の領海侵犯を定期的に行っていて、韓国は竹島を軍事的に占領している。

(2)中国は日本のGDPを抜き去り、世界第二位になったことへの嫉妬もあります。

(3)戦後の日教組による自虐史観教育が1980年代に終わってしまい日本人の罪悪感が解放されたのです。もう中国人や韓国人の悪口を言っても良いという気分になったのです。

(4)中国人や韓国人が戦前受けた傷をむしかえして、何時までも執拗に日本を責め立てるので、日本人は本当に怒り出したのです。

日本人は村山談話と河野談話でちゃんと謝っているのですからそれで良いではありませんか。

(5)中国人も韓国人も日本の技術を平気で盗んで、安い製品を日本へ売りつけているのです。特許も商標権も平気で侵害します。人間の良心が皆無なのです。

まあ、以上のような理由が相乗して日本人の蔑視傾向が急に強くなってきたのです。

さてこの日本の精神的風土の変化はどのような効果を現すでしょうか?

良い効果も悪い効果も考えられます。長くなり過ぎのでその問題は続編で書きたいと考えています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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冬の雑木林

2014年01月10日 | 写真

小平霊園の中にひとかたまりの雑木林があります。そこだけ雑木の巨木が繁っていて広い墓地に浮かんだ孤島のように見えます。

ここは黒目川の源流になっている湿地帯になっています。小平霊園は小平市ですがその雑木林の湿地帯だけは東久留米市の飛び地になっています。

私は昔からこの雑木林が好きで時々散歩に行きます。

今日は久しぶりに行って、冬の木々の写真を撮ってきました。

ついでにその隣にある花の沢山ある墓地にも寄ってきました。12年前に建てた自分達のお墓を静かに見てきました。家内は子供や孫もここにと言いますが、私は無理しなくても良いと内心思っていました。

冬の墓地はすがすがしく、そして静寂があたりをつつんでいました。

今日も無事、流れゆく日々の一日になりそうです。

冬の雑木林の写真をお送りいたします。

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