後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の伝統文化を守る人・・・伝統文化を嫌がる人々

2014年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

伝統文化は時代の流れとともに次第、次第に消えて行くものです。そして新しい文化が生まれ、それも時の流れにともなって伝統文化になるのです。なんとなく輪廻という言葉を連想します。

今回、甲府の湯村温泉の柳屋という純和風の宿に泊まって実感したことです。

建物が和風であり、接客の仕方が昔の旅館の伝統文化に従っているのです。

番頭さん、女将さん、仲居さん、板前さん、女中さんなどの人々の振る舞いが昔通りの伝統を守っているのです。完璧です。隙がありません。文化は施設だけではありません。人間の立ち居振る舞いが文化なのです。

そのことを書きたいのですが、まず写真だけを3枚ご紹介いたします。

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上は柳屋の玄関です。玄関前が駐車場になっています。建物は鉄筋コンクリート造りですが見える所は木造です。2階建てで外側は全て白壁になっています。

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玄関を入ると向こう側に和風の庭園があり、それを囲むように25の客室が広がっています。客室数が少ないのが自慢のようです。

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上は出発の時に見送ってくれた女将さんと、一切の世話をしてくれた女中さんです。

まず車を玄関先の駐車場に止めると半纏姿の番頭さんと和服の女中さんが3人ほど飛び出してきます。

番頭さんが車の後ろを開けてボストンバックを取り出して手に持っています。部屋までご案内しますと言います。

玄関を入るとチェックインカウンターを素通りして女中さんが中庭に面した2間続きの和室へ案内してくれます。少し上等な和服を着た女中さんが畳に両手をついて、「よくいらっしゃいました」と挨拶の儀式をします。そしてお茶を淹れすすめてくれます。

そのあとで宿帳に住所氏名を家内が書きます。さすがに宿帳ではなく一枚の紙でしたが、綴じて宿帳にするようです。

この一連の動きの流れが自然で板についているのです。

昔風の小さ目の岩風呂と露天風呂に入っていると昔の旅館のことをいろいろ思い出します。

部屋に帰ると家内も思い出したらしく、女中さんへ渡す心づけを入れる小さな袋を忘れて来たと言います。そこでそれは白い紙で間に合わせていました。

夕食は部屋へ女中さんが一品一品運んできます。襖の開けたて、皿や鉢の出し方が昔の作法なのです。私達が食べ終わるのに合わせてじつに良いタイミングで運んで来ます。

料理の一品一品を味わうと、板前さんが心を尽くして作ったことが伺えるのです。手間暇を惜しんでいません。しみじみ和食は美味しいと思いました。

夕食が終わると食器を下げ、しばらくすると番頭さん達二人が布団を敷きに来ます。椅子に座って庭を眺めていると、障子を隔てた和室で物静かに敷いていました。

朝食は流石に和風の食堂です。

和風の朝食ですからコーヒーやパンやソーセージなどは一切ありません。若い女中さんが目玉焼きだけを作ってくれます。それは塩・コショーでなく醤油をかけてご飯のおかずとして食べるのです。

旅館の朝食の定番のご飯と蜆のみそ汁、塩鮭、焼き海苔、わさび漬け、甘い煮豆、イカの糸作り少々などが並んでいます。茶碗蒸し、湯豆腐もありました。

全国の20種類の漬物がそろっていて、これだけは自分で取りに行きます。

そして女中さんが「今日は7日なので、七草粥をめしあがりませんか?」と言いながら七草粥の入った茶碗を持ってきます。食べると幸運が来るような気がします。

朝食後、部屋に戻ると蒲団がすっかりかたづいていて美しいい畳の部屋が広がっています。ついでに言えばこの旅館の部屋にある屑箱、電話機の台、お盆、茶器などなど全ての小道具が昔はやった色合いとデザインで落ち着いた雰囲気なのです。ああ、こんな小道具がまだあるのだなと感じ入ります。

そして玄関を出て出発する折には女将さん、番頭さん、女中さんが出てきて見送ります。寒いなかいつまでも見送るので車で逃げるように湯村温泉の街を走り抜けました。

このような昔風の旅館に泊まって驚異の発見をしました。それは家内の立ち居振る舞いが昔風にしとやかになっいるのです。主人を尊敬し、自分はつつましやかに従うという昔の夫婦の関係に戻っていたのです。そして普段より丁寧な言葉や敬語を使うのです。それは決して悪いものではありません。

それはそれとして、表題の「日本の伝統文化を守る人・・・伝統文化を嫌がる人々」の説明をして終わりにします。柳屋の女将さんと従業員が「伝統文化を守る人」なのです。「伝統文化を嫌がる人々」とは多くの若い日本人のことです。

私も「伝統文化を嫌がる人々」の端くれに入るかも知れません。一言で言えば番頭さんや女中さんとの会話に気疲れしてしまい、やっぱりホテルの方が休まるという気分になってしまうのです。

特に出迎えや見送りがあるので、ゆっくり車を降りたり、朝はエンジンをかけて車内を暖める時間がないです。寒い朝に女将さんや女中さんを長く立たせないようにシートベルトを着けるのももどかしく逃げ出さなくてはなりません。

何故かプライバシーが無視されたような印象が少しあるのです。家内もチョット疲れるわねと言っていました。

しかし柳屋の伝統的な旅館文化は貴重な文化遺産として、いつまでも湯村温泉に残ってもらいたいと祈っています。

宿泊料金は非常に良心的です。いろいろな設定がありますので、「湯村温泉、柳屋」を検索してお調べ下さい。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


山郷、群馬県下仁田町の遠い日の盂蘭盆会、祭り、運動会・・・横山美知彦著

2014年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

いずれも幼き日の思い出である(小学生から高校生の頃)

盂蘭盆会

あつい夏、入道雲が南の山の頂から湧き上がっている。

今日も夕立か、そんな予想は間違いなく当たる。新暦の盂蘭盆会も過ぎて、夕立の去った山の谷合から吹き降りてくる風に、秋の気配が感じられる。

田舎の夏休みは早い。再び学校でのきついクラブ活動が始まる。何故か勉強のことは、頭に浮かんでこない。

川に降りて見る。精霊が家で過ごした盆棚を橋の上から川に流すことで精霊を再び仏の世界にお送りする。そして普段の生活が始まる。

先祖の精霊は、野菜や、胡瓜や茄子で拵えた馬や牛に乗ってやって来て、盆の間は現実の家で静かに過ごす。そして盆が終わるとお帰りになる。質素であってもそれぞれの家の風習に従い恙なく語り合う、そこには現代の世の中の醜さは微塵も感じられない。

祭り

お祭礼の提灯の明かりが何となく気持ちを、幼かった頃に戻してくれる。

夜、暗闇の中にかすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に教えてくれたのか。そして遠くから静かに聞こえる、笛や小太鼓の独特の音は、特別な世界に私を引き入れてくれる。

町内を引き回す山車にはなかなか触れることさえ出来ず、気持ちとは裏腹に遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたこと、少子化の現在とは想像する事も出来ないことだった。

山車の上の笛、鐘、太鼓の音が乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた組の小田原提灯が左右にかすかに揺れる。正面の一段高い場所にそれぞれの町内で自慢の人形も山車の動きに合わせる様にかすかに動く。

       深まりし秋の祭りの笛の音に

                    遠き昔を思い起こさん

運動会

祭りの終わった翌日の学校は、朝から機械的な音に再び気持ちをふるい立たせてくれる。

町内最後のイベントの運動会だ。スピーカーから流れるスポーツ行進曲は、自分の力量に関係なく子供達の耳を賑わし、天候だけを気にしながら指導の先生の合図で体をほぐす為の準備運動に入って行く。

今と違い校庭の外の周りには露天の物売りが数軒必ず出店していた。

大きな混乱もなく、子供達は店を目を丸くして覗くことが出来た。

いもあめ、芋串し、ハッカパイプ等が粗末な台の上に並べられており、玩具類はなかったように記憶している。

運動場での生徒達は、靴を履いていない。はだしだ。今では考えられない光景だが、当時はそれが当たり前で、足が痛いなどの言葉は何処からも聞こえてこなかった。

昼飯も気の利いた家でも各家で作る稲荷すしが精々で、大方通学時に持ってくる弁当箱に、良く出来て玉子焼きが入る程度だった。でも少しもそれを、みじめと思ったことはない。むしろ胸はいつもより高鳴り、心は晴れやかだった。

そして運動会が終わると同時に始まる蒟蒻刺しのアルバイトに抵抗を感じる憂鬱さが大きく頭をよぎる様になっていた。

  遠い日の運動場に我れ立ちぬ     (平成25年9月15日記)

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中国との軍事対決の危険性(3)中国・北朝鮮の侵攻を防ぐ日米韓共同軍事態勢の構築

2014年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

日本と韓国は、そしてアメリカは共同軍事演習を頻繁に実行して、中国・北朝鮮の侵攻を抑止し、平和を守るべきです。

このように書くと多くの日本人はすぐにひどく感情的になって、「韓国軍なんかと一緒に戦えない!」という意見が出てきそうです。

アメリカ本国から見ると強固な日米韓共同軍事態勢が一番理想的で、かつ確実な戦争抑止効果を上げると判断するのが論理的帰結です。

しかし日韓関係、韓米関係、日米関係には複雑な歴史的な負の遺産がからんでいて日米韓共同軍事態勢の構築を困難にしています。

そこが中国と北朝鮮の狙いです。日韓関係を悪化させ、そして韓米関係も離反させ、韓国を中国側へグッと引き寄せようとしています。なにせ中国には魅惑的な巨大市場があるのです。

安倍総理の靖国神社参拝は韓国を中国側へ押しやったので、アメリカが怒ったのです。

この行動は韓国人に従軍慰安婦問題を思い出させ、ついでに在韓米軍の慰安婦訴訟問題を連想させたのです。

米韓関係にはこの在韓米軍慰安婦問題と軍事上の指揮権がアメリカ側にある問題で常に反米感情が渦巻いているのです。その上、在韓米軍の駐留費の韓国側負担分の増額で揉めているのです。

その一方でアメリカ軍は陸軍兵の応援部隊を韓国へ送り、テキサス州に駐屯している第一機甲師団から最新鋭の戦車40両と装甲車40両を兵員とともにソウル近郊に配備するのです。配備は2月1日から始まりそうです。

これは中国の義勇兵の支援のもと北朝鮮が38度線を越えて侵攻してくる可能性を抑止しようという戦略です。朝鮮半島がキナ臭くなってきたのです。

そして韓国の女性大統領も韓国武装ヘリコプター部隊を訪問して激励しているのです。下の写真をご覧下さい。

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(写真の出典は、http://netanarugazou.doorblog.jp/archives/34028518.htmlです。)

日韓関係は両側ともに感情的過ぎます。論理的に自国の国益を守るための冷静な、そして建設的な議論が皆無なのが日本の将来を危険にしているのです。

冷静になるためには韓国で起きているいろいろな問題を知る必要があります。

そこで今日は日本ではあまり報道されていない在韓米軍慰安婦訴訟問題について簡単にご紹介いたします。

下に在韓米軍慰安婦を政府管理し人権を無視した朴正煕大統領とその娘の現在の朴槿恵大統領の写真を示します。

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(写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98_(%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD)です。)

在韓米軍慰安婦訴訟問題とは朴正煕大統領が在韓米軍慰安婦を政府管理し人権を無視しし強制したという理由で元慰安婦団体が韓国政府とアメリカ軍を被告にしてアメリカの裁判所に訴訟をおこした事件です。

訴訟そのものは2009年でしたが現在でも反米運動が起きるたびに利用される反米宣伝材料として使われています。丁度、日本軍の従軍慰安婦問題と同じように政治的な宣伝材料になっているのです。

現在の朴槿恵大統領は教養のある上品な夫人なので絶対に「慰安婦」などという言葉は使いません。

しかし父親の行なった在韓米軍慰安婦の政府管理は心の中で悩ましい問題になっていることに違いありません。同情を禁じ得ません。

そんな人情も理解し日本は日韓外交を推進し、絶対に中国や戦争を始めないように万全の外交と軍事的抑止を完璧にすべきです。

平和の尊さを忘れるべきではありません。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料:朴槿恵大統領の略歴============

韓国の第5代~第9代大統領である朴正煕(パク・チョンヒ)と陸英修(ユク・ヨンス)の長女として、慶尚北道大邱市で産まれた。異母姉に在玉、妹に槿英がいる。現EGテック会長の朴志晩(パク・チマン)は末弟。朴正煕の軍人時代の副官で元カナダ大使の韓丙起は、在玉の夫で義兄に当たる。

キリスト教系の聖心女子中学校聖心高校を卒業後に西江大学電子工学科に進学した。大学では中国語も専攻している。首席で卒業後に、フランスのグルノーブル大学に留学した。留学中の1974年8月15日文世光事件が発生し、母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国し、その後は父のファーストレディー役を務めた。1979年朴正煕暗殺事件で父は金載圭(キム・ジェギュ)KCIA長官に暗殺された。父の死亡を耳にした際の第一声は、混乱に乗じて朝鮮人民軍が侵攻することを懸念した「休戦線は大丈夫か」だった。

(出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%A7%BF%E6%81%B5

=====在韓米軍慰安婦訴訟問題===============

2009/01/08(木) (出典:http://anago.2ch.net/test/read.cgi/asia/1231400068/

韓国人元慰安婦、韓国政府と米軍を告発 NYタイムズ紙

米ニューヨークタイムズ(電子版)は8日、韓国の元慰安婦のグループが、1960年代から80年代にわたって
米兵との性的行為を強制されたとして、当時の政府指導者に謝罪と賠償を求めて告発したと報じた。
このグループは組織的な慰安施設の設置に直接的に関与したとして、米軍と韓国政府をあわせて告発した。
同紙によると、元慰安婦のグループは朝鮮戦争後、韓国に駐留していた米軍の基地近くにあった
慰安施設で米兵を相手にした売春を強要されたと証言。一帯では、米軍の憲兵隊と韓国当局者が施設を見回り、
番号札を使って性病に感染したとみられる慰安婦を排除しており、性病が疑われた女性は警察当局が、
窓に鉄格子がはまった「モンキーハウス」と呼ばれる施設に収容し、快復するまで治療が施された、と証言している。
同紙は、韓国の専門家が、当時の韓国政府は米軍の撤退を恐れており、それを防ぐために手段を選ばなかった
と指摘しているとし「慰安施設には韓国政府と米軍の積極的な関与があった」とする別の専門家の談話を伝えた。

昨日の富士山、南アルプス白鳳三山、鳳凰三山、甲斐駒岳、そして八ヶ岳

2014年01月08日 | 写真

甲府盆地はどちらを見ても山ばかりです。

東からぐるりと南、そして西、北西4を見渡すと、富士山、南アルプス主峰の白鳳三山、鳳凰三山、甲斐駒岳、そして八ヶ岳と雪を頂いた美しい山並みがパロラマの様に広がっています。

昨日撮った写真を下に示します。

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甲府盆地から見える富士山は逆光でうまく摂れません。上は大月の初狩から撮った順光の富士山です。

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上は南アルプスの主峰の白鳳三山です。左から農鳥岳、間ノ岳、北岳です。央高速道路の南に広がっています。

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上は南アルプス主峰の白鳳三山の前に連らなっている鳳凰三山です。左端が薬師岳、真ん中が観音岳、そして右端が地蔵岳です。

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上は甲府市の湯村温泉前の街路から見た甲斐駒岳です。左の信号の左側には鳳凰三山が連らなって見えます。

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小生の山林の中の小屋は甲斐駒岳の登山口に近い森の中にあります。その近辺まで来ると甲斐駒岳が上のように大きく見えます。

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上の写真が八ヶ岳です。甲斐駒岳のさらに北のあります。

上の写真の中腹には清里や野辺山の高原があり観光地になっています。キャベツやアスパラガスの高原野菜の産地です。

山々の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。(終わり)


本当につまらない趣味・・・何故、40年も続けれられるのでしょうか?

2014年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

本当につまらない話です。お読みにならない方が良いです。

お読みになってから、本当につまらなかったと、怒らないで下さい。

山林の中の小さな小屋へ行って、ボンヤリして時間を過ごす趣味です。もう40年以上も相変わらず続けています。

つまらないから長続きするのかも知れません。

今回は珍しく面白い事が3つありました。

1、猿の大群が庭の木々に登って、遊んでいました。

猿は農作物を食べるので里では犬を使ったり、爆竹を鳴らして追いはらいます。しかし山林の中ではのんびり遊んでいます。

普通は雑木林の地面に群がって木の実を拾っていますが、今回は珍しく野生の猿らしく木の上に登って仲良く毛づくろいをしていました。

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落ち葉焚きをしていた家内が撮った写真です。木の上では一人で甲斐駒岳を眺めて、考えごとをしている猿もいます。

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そして子ザル達がキャーキャー騒ぎながら木の枝を飛び回っていました。

犬もいないし、爆竹も無い様子に安心したのか20mくらいの近さまでは来ます。しかし野生の猿ですから、ボス猿が我々を用心深く見張っています。

野生動物の緊張感がみなぎっていて、見ていると自分もこの森に住んでいる原始人になったような気分になります。

そして姿は見せず足跡だけが沢山ある鹿や猪のことなどを考えています。

2、薪ストーブの煙突が壊れていて寒い思いをしました。

小屋に着いたら、下の写真のように窓ガラスに水蒸気の結晶が美しく咲いています。

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さっそく薪ストーブを焚きました。ところが煙が部屋の中に充満します。

火を消して、煙突を調べたら、なんとすっかり腐ってしまっていて大きな穴が開いていたのです。20年以上使った普通鋼の薄板で作った煙突なので、煙に含まれている酸性化合物によって腐食され、ボロボロの状態でした。

その日は外の焚火と陽射しだけで、山林の厳寒を防ぎ、里に下りて、修理に必要なステンレス製の煙突2本と耐熱性ガラス布と耐熱アルミテープを買いました。

そしてその夜は甲府の湯村温泉に泊まりました。

次の日も晴れです。さっそく山の小屋に上がって行き、薪ストーブの壊れた煙突の部分をステンレス製の煙突と取り換えました。

これで煙突のすべてはステンレス製になったので、また30年位は大丈夫と思い、火を入れました。ところが煙突の継ぎ目から盛大に煙が漏れます。

また火を消して、購入した対熱ガラス布で巻き、その上から耐熱性アルミテープでしっかり止めました。さらにその上から針金で締め付けたのです。今度は本当に修理が完成です。下のように良く燃えました。

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煙突の偉大さがしみじみ身に沁みます。

煙突は日本に無かったものです。明治維新のおかげで輸入された道具です。もっとも秀吉が朝鮮から連れて来た陶工たちは焼き物の窯の煙道と煉瓦の煙突は使っていましたが、一般の家々では囲炉裏だけだったのです。

煙突の文化はユーラシア大陸の東端の朝鮮までは伝わりましたが、日本へは伝わって来なかったのです。

朝鮮や中国北部の農家の寝室の床に長い煙突を埋め込んで暖房していたのです。実際に見学してみると炊事用の中華鍋の下の煙を巧妙に使って、寝床の床の下に埋め込んだ煙突へ流しているのです。

聞くと、寝床の床に割れ目があると、一酸化炭素(COガス)が漏れて一家全員死んでしまうそうです。ですから寝室の床と煙道は細心の注意をもって特殊な粘土で作るそうです。

そのような煙突の使用技術は日本で一般的ではなかったのです。

燃え盛る薪ストーブを前にして煙突の歴史を考えていました。

3、家内が根気よく落ち葉焚きをしてくれました。

煙突修理は外壁に掛けたハシゴに登っての高所作業もあります。寒風の中、その辛い作業は家内がしてくれました。体が硬くなってしまった私には無理になったのです。

煙突修理が終わって、私も熊手で落ち葉を集め、焚火をしました。長年しているので家内も落ち葉焚きの名人です。マッチ一本と新聞紙一枚で火を起こし、燃えやすいものから順序よくくべて行きます。順序を間違えると火が消えます。

焚火にも技術が必要なのです。下に炉のなかの灰をスコップで掻き出している様子の写真を示します。なにせ周り中燃えやすい落ち葉なのですから、炉を深くして燃え移らないようにしなくてはなりません。

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焚火が燃え上がれば、あとは下の写真の様に悠々と火の番をします。時々周囲にバケツの水をかけて火の用心を怠りません。

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本当につまらない趣味だと思います。

下のように荒れた山林のなかの小屋を遠方から眺めて、よくも40年以上も続いているものだと自分ながらあきれていました。

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こうして老妻と一緒に過ごすのも良いものです。

時が静かに流れ、やがて春がめぐって来るのでしょう。

つまらない話して失礼しました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


初春・・・ヨットの見える風景です

2014年01月07日 | 写真

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東京に本格的なマリーナがあります。都庁の港湾局が建設し民間会社が運営している東京夢の島マリーナです。

初春のヨットの見える風景写真をお送りいたします。

上の艇はフランスのベネトー社の船のようです。

下の艇は長距離用のモータークルーザーのようです。いかにもヨーロッパの古き良き時代をしのばせるようなクラシックな造りです。

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(撮影は2009年1月2日でした。)


中国との軍事対決の危険性(2)韓国の米軍基地撤収は日本の危機

2014年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上は演習中の韓国軍の戦車です。写真の出典は、http://news.goo.ne.jp/picture/yonhap/world/meast/yonhap-20110608wow030.htmlです。)

韓国にある数多くの米軍基地の存在は日本の安全にとって非常に重要です。

日本の仮想敵国が北朝鮮と中国であるとすれば、韓国は日本列島を守る前線基地の役割を果たすことになるのは誰の目にも明らかです。そこに米軍基地があるだけで中国と北朝鮮の侵攻に対する抑止力になるのです。

しかし米国は太平洋地区の米軍の効率的な再配置の一環として、韓国から陸上部隊を撤収する方向で韓国と交渉を続けています。

韓国とアメリカの間には2つの問題が横たわっています。その一つは韓国が米軍の駐留費の42%を支払っていますが、アメリカは増額を要求している問題です。

もう一つは戦時体制になった場合の米韓共同軍の指揮権をアメリカが持つという協定です。

分かりやすく言えば北朝鮮が攻め込んだ場合、韓国軍は独自の判断で反撃してはいけないのです。アメリカ軍の指揮系統の下で、アメリカ司令官の命令を待たなければならないのです。この取り決めは韓国人の自尊心を傷つけていて、韓国の根強い反米感情の原因になっていると言われています。

かつて朝鮮動乱では韓国軍とアメリカ軍は共産主義を打破するという共通の錦のみ旗のもとで固く団結して戦ったのです。

そしてベトナム戦争でもアメリカと韓国の団結は強く、苦戦の中でも韓国兵は負傷した多数のアメリカ兵を担いで救い出したのです。

その韓米のかつての団結が、近年の韓国と中国の経済発展でゆるんで来たと考えられています。

韓国にとって、強大な中国の市場はあまりにも魅力的です。経済分野での韓国と中国との輸出入や相互投資はますます大になる一方です。

当然、韓国は中国に少しずつ近づき、アメリカからは少しずつ距離を置くようになります。

それでは、アメリカは韓国から撤収して韓国を中国へ渡すでしょうか?

その答えは明らかです。否です。

中国の制海権と制空権の拡大を阻止するという軍事的戦略を考えれば、アメリカは絶対に韓国を中国へ渡さないでしょう。

韓国にあるアメリカの海軍基地と空軍基地は中国の喉もとにつきつけた鋭い刃のような存在です。

アメリカ軍は中国と太平洋の覇権を争っています。その抗争でアメリカを優勢にするものは韓国と日本にある海軍基地と空軍基地なのです。

陸上戦力は韓国と日本へまかせて、アメリカ陸軍は段階的に撤収して行くでしょう。

アメリカは自分の国益のために西太平洋地域における陸、海、空の三軍をどのように再配置するか懸命に考えているのです。それは日本を守ったり、韓国を助けるために再配置を決めているのではありません。

従って韓国も日本もその安全のためにどのような戦略が最良なのかを独自に研究し、アメリカと根気良い交渉を続けるべきと思います。

そのためにも日本と韓国は軍事的にはもっと相談を重ね建設的な協力関係を作り上げるべきと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料:韓国にあるアメリカ軍基地の一覧=======

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E9%9F%93%E7%B1%B3%E8%BB%8D

釜山広域市釜山鎮区 Camp Hialeah

大邱広域市南区  Camp George, Camp Henry, Camp Walker

江原道春川市 Camp Page(2005年11月返還)

江原道原州市 Camp Eagle, Camp Long

京畿道東豆川市 Camp Nimble(2007年4月返還)、Camp Casey, Camp Castle, Camp Hovey, Camp Mobile

京畿道坡州市Camp Bonifas, Camp Giant, Camp Greaves, Camp Howze, Camp Stanton(以上2007年4月返還)、Camp Edwards, Camp Garry Owen(以上2007年5月返還)

京畿道平沢市 Camp Humphreys, Osan Air Base(烏山空軍基地)

京畿道城南市Seongnam Golf Course(城南ゴルフ・コース)

京畿道水原市 Suwon Air Base(水原空軍基地)

京畿道議政府市 Camp Essayons, Camp Falling Water, Camp LaGuardia, Camp Red Cloud, Camp Sears, Camp Stanley

京畿道竜仁市 Yongin

慶尚北道漆谷郡 Camp Carroll

慶尚南道昌原市鎮海区 Chinhae(鎮海海軍基地)

仁川広域市桂陽区 Camp Market

済州道南済州郡  Camp McNab

全羅北道群山市 Kunsan Air Base(群山空軍基地)

ソウル特別市道峰区 Camp Jackson

ソウル特別市竜山区 Camp Coiner, Camp Kim, Yongsan Garrison(竜山兵営)


それにしても美しいサクラソウなのでもう一度お送りいたします

2014年01月06日 | 写真

東久留米市の滝山にある石塚園芸は四季折々いつも花々が沢山ある花屋さんです。

そのサクラソウの花が可憐で、美しいので昨年の一月に撮影した写真をもう一度お送り致します。去年の写真で恐縮ですが、お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

園芸店の主の石塚さんは35年間サクラソウの栽培をして、交配を繰り返し新種のサクラソウを32種も作ったそうです。

新しい種類のサクラソウが出来ると農林水産省へ新種の登録をするそうです。そこの専門官が新種と認めたサクラソウが32種あるのです。それぞれ名前がついているそうです。

「その新種の種の袋がこれらです。」と言いつつ袋を幾つか見せてくられました。

サクラソウは種を買って、自分で育てると楽しいらしいです。

なかでも水色の花は珍しく、オランダで2012年の4月5日から開かれる「花博」に招待出展しました。

その水色のサクラソウは世界初で「湖畔の夢」と言う名前だそうです。(写真は一番下に示します。出典は、http://www.faj.co.jp/blog/?p=40です。)

楽しい花園です。

下に2012年の1月14日に撮ったサクラソウの写真をお送りいたします。

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この石塚園芸はサクラソウだけでなくシクラメンやシンビジュームやいろいろな蘭も栽培している楽しい花屋さんです。下にシクラメンの写真を示します。

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下の水色のサクラソウは世界初で「湖畔の夢」と言う名前です。(写真の出典は、http://www.faj.co.jp/blog/?p=40です。)

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武蔵国分寺、国分尼寺と鎌倉街道の位置関係・・・明治維新による古い史跡の破壊

2014年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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東京都の西の方の郊外の稲城市、府中市、国分寺市、などを車で走っていると彼方此方に「古鎌倉街道」という表示板を見ます。車を止めてみるとほんの少しだけ古い道があり、回りは新しい住宅に囲まれていて往時の面影が無いのです。

しかし武蔵国分尼寺の西側にある鎌倉街道の跡には、冬枯れの雑木林に囲まれた切り通しの道がさびしく続き、昔の風景が広がっていいます。

上の写真がその風景を示しています。

鎌倉時代は首都が箱根山を越えて東へ来た歴史的な大転換期であったのです。室町時代になっても幕府の関東支配の出先機関が鎌倉公方でした。

鎌倉幕府jは各方面を結ぶ鎌倉街道を整備しました。そしてそれは江戸幕府が出来た後も長い間、関東地方の重要な道であったのです。

ところが、その鎌倉街道の多くの部分は奈良時代の重要な道路をそのまま使っていたのです。

律令国家が出来たとき国々を結ぶ道路も整備されましたが、鎌倉街道もそれを踏襲している部分が多いのです。

この写真の鎌倉街道の一部も奈良時代の東山道武蔵路(とうさんどう むさしのみち)の上に作られた部分です。

このすぐ東に、並行してJR武蔵野線が南北へ走っています。

奈良時代、鎌倉時代、現代と延々と続く交通路と思うと、ゆえもない懐かしさが体の中に溢れて来ます。

人々は何代も生まれては死にかわって行きました。でもこの雑木林の間の道の風景は1000年以上変わらないのです。ここは黒鐘公園といい、よく散歩に来るところです。

それはそれとして、国分寺は聖武天皇の741年の勅令で全国に出来ました。場所を決める時、律令国家の重要な街道のそばに配置することを決めていたのです。

そしてこの現在見る鎌倉街道は武蔵国分寺と尼寺の側を通っているのです。

これこそがこの鎌倉街道が奈良時代の東山道武蔵路(とうさんどう むさしのみち)と同じだったという証拠と考えられています。

下に武蔵国分寺跡の写真と出土品の写真を示します。

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ところで、武蔵のくにの国分寺と国文尼寺の跡の位置関係を丁寧に見るとR武蔵野線が両方の寺を分断し、尼寺の中を通っていることが分かります。

明治維新後は古い日本の文化を無視して急ぎ富国強兵の道をひたすら走ったのです。鉄道が国分寺の遺跡をこわしてしまっても意に介さなかったのです。

このように鉄道が国分寺跡を無残に破壊している様子は信濃国分寺跡を見学に行くと見ることが出来ます。鉄道が信濃国分寺跡の真ん中を通っているのです。

明治維新後、鉄道を作る技師はそこに国分寺があったことなど問題にしなかったのです。水平な土地でレールの敷きやすいところを選んだのです。

当時は欧米の近代文明の輸入が緊急の国家的目的であったので日本の文化遺産の保存など考える人がいなかったです。

人間は生活の便利さのためには何でもするものだと残念に思います。

危険な原子力発電もその便利さ故に存在しているのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


スペインにあるキリスト教の巡礼の道

2014年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝は府中市にある警視庁運転免許試験場で、3年ごとの免許の更新をして来ましたので、日曜日のミサには出ませんでした。今年初めての営業日でしたので驚くほどの人数の人が四列に並び、その長さが40mくらいありました。これでは4時間はかかると思いましたが、意外に2時間半で新しい免許証を頂けました。

高齢者の予備講習会と実技試験を町の講習所で受けていたことと無事故・無違反のゴールド免許だったので手続きが短時間ですんだのです。

それはそれとして、今日は日曜日なのでキリスト教のことを少し書きたいと思います。

それはスペインにある巡礼の道です。世界遺産になっている巡礼の道です。

とても古い巡礼の道で、951年から1000年以上も毎年何万人もの信者が歩いてきた道です。

道筋はフランス各地からピレネー山脈を越え、スペインをひたすら西へと800Km程も続いています。そしてその終点はサンテアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂です。

そこに12使徒のヤコブの遺骸があると信じられているのです。

信者たちはイエス様と同行二人で1ケ月以上かけて、800Kmを歩き続けるのです。下のにその地図を示します。

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そしてその道の風景写真を下にしめします。

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上の写真の左の道端には疲れた巡礼者が一休みしています。

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上はブエンテ・ラ・レイナの橋です。そして下が終点のサンテアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂です。

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宗教は違いますが、日本にも同じように熊野古道や四国のお遍路道があります。

その和歌山県の熊野古道とスペイン・ガルシア州のサンテアゴ・デ・コンポステーへの巡礼道は姉妹道協定が出来ています。

現代の巡礼の旅はバスを使ったり、自転車で走る人もいます。

しかしどんな場合でも自分の罪の深さを想い、イエス様に祈り、神へ祈りながら旅を続けるのです。

そして終点では巡礼をしたという証明書を貰えるのです。しかし証明書を貰える条件は徒歩で100Km以上歩いたこと、あるいは自転車で200Km以上走ったことが必要になります。

その証明書があるとコンポステーラからの飛行機や列車の料金が割引になるのです。毎年数万人の人がこの証明書を受け取るそうです。(詳しくは末尾の参考資料をご覧下さい)

私はこのような巡礼の旅に憧れています。四国の遍路の旅にも憧れています。

苦しい道行でしょうが想像しただけでこの身が少しだけでも清くなるような気分になります。この拙い小文をお読み頂いた皆様も身が清くなったと信じています。

お読み頂きまして有難う御座いました。

======参考資料================

現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 -

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E8%B7%AF

からの抜粋を下に示します。

現在、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼者は毎年数万人に上る。

その多くは徒歩で、自転車を使う人もいる。少数ながら中世のように馬やロバを使う人もいる。

信仰のためだけでなく、観光やスポーツ、単なる目標達成のために歩く人もいる。

車や鉄道、バスで移動することもできるが、巡礼路は線路や国道に沿っていない道も多い。

また、サンティアゴ・デ・コンポステーラで証明書がもらえる人は、徒歩で100km以上、自転車で200km以上という条件がある。なお、巡礼証明書(コンポステラーノ)もしくは、巡礼手帳を持っていればサンティアゴ・デ・コンポステーラからの帰りの飛行機及び鉄道料金が割引となる。

ホタテガイは、巡礼のシンボルとなっている。巡礼者は巡礼の証としてホタテガイをぶら下げて歩く。また、水筒代わりのひょうたんを持つ。

巡礼者はさまざまな道をたどるが、人気があるのは「フランスの道」である。出発地としては、フランス側のサン=ジャン=ピエ=ド=ポルとスペイン側のロンセスバージェスを選ぶ人が多い。

伝統的なフランスの町(ル・ピュイ、アルル、トゥールなど)から出発する人や、さらに遠くからフランス内の道を目指す人、中世にならって自分の玄関から出発する人もいる。

ピレネー山脈からすべて歩くと780~900kmの距離で、1日平均30km(早めの人)歩くと約1か月かかる。

巡礼手帳を持って行くといろいろな支援が得られる。巡礼手帳は救護施設や観光案内所、教区教会で入手でき、3ユーロ程度。

スペインと南フランスには、巡礼者に一夜の宿を与える救護施設(albergueまたはrefugio)が点在し、巡礼手帳(credencial)を持つ人は誰でも泊めてくれる。

宿の設備はユースホステルのようなもので、3ユーロから7ユーロ、または寄付のみで泊まれる。たいていは1泊に限られる。救護施設に泊まると、巡礼手帳(有料)に公式のスタンプ(無料)が押され、集めたスタンプが巡礼の証明となる。サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着すると、「コンポステーラ」と呼ばれる証明書(無料)がもらえる。中世のカトリック教会では「コンポステーラ」は贖宥状の一種であった。大聖堂では毎日正午に巡礼者のためのミサが開かれ、巡礼者の祖国と出発地が唱えられる

======以下省略===================


年年歳歳、冬の雑木林や梅林の風景は変わらねど、人同じからず

2014年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム

お正月は年賀状を見ながらいろいろと昔のことを思い出しています。

それで気がついたのですが、毎年、少しずつ静かに旅立っていく恩人、知人がいます。祖父母や両親、叔父、叔母も居なくなってしまいました。もう随分と前に旅立ってしまいました。

そのうち自分も旅立ちます。

年賀状を見ながら随分と多くの人にお世話になったと思い返しています。その一人、一人へ感謝しています。

それにしても丁度5年前のブログの記事はどうなっていたでしょうか。

そこで5年前の1月の記事を見なおしてみました。

そこには冬の雑木林や梅林の風景写真が沢山掲載してあります。

その写真を見ると、現在の風景と寸分も変わっていないのです。しかし私は老いました。数日で満78歳になります。5年前は体力もありましたが、73歳で前立腺ガンの切除手術を受けました。75歳で25年間続けて乗っていたヨットを若い人へ譲り渡しました。

そして恩人、知人が居なくなってしまったのです。

何故か魂が自由に碧い虚空を軽やかに飛び回っているような気分です。

そこで改めて冬の雑木林や梅林の風景を見ると、その魅力が一層強く身にせまって来ます。

読者のご高齢は方々も同じような感慨をお持ちになると思いますので、下に5年前に撮った冬の雑木林と梅林の風景写真をお送り致します。

年年歳歳、冬の雑木林や梅林の風景は変わらねど、人同じからずです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

府中市から多摩川を渡って、南側へ行くと、そこはまだ東京都の範囲で稲城市があります。稲城市は梨の産地で昔の多摩川流域の砂地で甘い梨が出来ます。

稲城市の市役所の裏側(南側)には数キロの及ぶ崖が連なり、夏には雑木林が青々と繁っています。冬になると、すっかり葉を落とし梢のシルエットが素晴らしい造形美を見せてくれます。1962年から52年間見ていますが、この冬の崖上の雑木林の姿は変わりません。

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2009年1月に撮った写真です。

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下は2008年2月8日に府中市の郷土の森博物館公園で撮りました。この梅林は剪定の仕方を変えませんので歳歳年年同じ風景で花を咲かせています。

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中国との軍事対決の危険性(1)尖閣諸島はその発端に過ぎない!

2014年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上は海上自衛隊の駆逐艦です。現在は護衛艦と言います)

安倍政権は経済活性化をし、軍備増強予算を通過させました。

軍事機密法案を作り、国家安全保障会議を設置しました。沖縄の普天間基地問題も仲井真知事の同意を得て解決に向けて動き出しました。

その上で中国を刺激することを知っているのに敢えて靖国神社参拝を実行しました。

中国と軍事的に対決する姿勢を鮮明にしたのです。大変危険な方向へ舵を切ったのです。しかし日本人の多くは尖閣諸島問題で中国を憎んでいるので拍手喝采をするのです。

しかしこの方向は日本の将来を危ないものにします。

そこで今日から、「中国との軍事対決の危険性」と題する連載記事を書き進めて行きたいと思います。

そのきっかけとして、以下に大学時代の友人の今泉博充さんから頂いた手紙の前の部分を省略して、その抜粋をご紹介いたします。

前略・・・現在、我々日本人は韓国人と中国人から「あれこれ」言われて不愉快な思いをさせられています。僕は中国の反日は極めて政治的なものと理解いています。他方、韓国の反日は極めて感情的なもので、これは韓国にとって、決して良い結果にならないと思っています。

中国はその歴史からみて、海には関心が薄く大陸国家でしたが、近年、経済力が発展し、世界の大国になったのです。そうすると中国の太平洋への出口に屏風を立てたようにある日本列島と沖縄諸島が、何とも我慢ならない障害になって来たのです。なにせ明治維新までは琉球王国は清朝と薩摩藩に朝貢していた中立的な国だったのです。中国はその状態へ返ることを狙っています。

一方、韓国は「日本頼むに値せず」と中国へ傾斜しています。この方向は中国の遠大な戦略にはまっているのです。中国は朝鮮半島の全体(北朝鮮も含んで)を、日清戦争以前の状況、つまり中国の従属国としてしまう戦略ではないかと、私はそう観察しています。

韓国はユーラシア大陸の東端にあるので、中国の支配を避けきれない宿命にあります。

アメリカの関心は太平洋の覇権であり、それには日本との同盟関係が「しっかり」している限り十分なのです。

現在は日・米・韓と三国の協力を強調していますが、韓国はいずれ中国に取り込まれ、米国はしぶしぶ傍観するようになるのではないかと予測しています。・・・後略

上にご紹介した今泉博充さんの国際関係の分析は歴史的視点に立った大変客観的な内容になっています。冷徹な分析として感銘深く思います。

その一部の米国と韓国の関係については私は少し違った考えを持っています。そのことについてはいずれ続編でご説明いたします。

太平洋の覇権が関係する問題なので、海上自衛隊の艦艇の写真を掲載しました。出典は「海上自衛隊の艦艇一覧」を検索すると出てきます。(続く)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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今年も石塚園芸へ行きサクラ草の写真を撮ってきました

2014年01月03日 | 写真

毎年、一月は温室のサクラ草の花の季節です。

今日は、サクラソウも咲いている頃と思い、石塚園芸店へ行きました。

まだ休業中でしたが、石塚さんが独りで温室の中のサクラ草へ水をやっていました。

外からサクラ草の写真を撮らせ頂きました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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そして以下に去年の1月に掲載した石塚園芸のサクラソウに関する紹介記事です。

石塚園芸のサクラソウがオランダの花の祭典、フロリアードで金賞一席と特別賞を受賞

石塚園芸はいろいろな意味で感動的な花の栽培園です。

石塚健壽さんが精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。

その石塚さんの仕事ぶりついては下記でご紹介しました。

新種のサクラソウの花を作っている園芸店をご紹介します

12月の花と葉、シクラメンとポインセチアの美しい写真をお送いたします。

昨年のオランダでの花の祭典、フロリアード2012に新種のサクラソウを出展したという話を聞いていました。そこで先ほどその審査結果を聞きに行って来ました。なお花の祭典、フロリアードは10年に一度開催される世界的な花のオリンピックのようなイベントです。

石塚さんが店にいて、いろいろ面白を話を聞かせてくれました。

詳しくは続報で紹介いたしますが、今日はそのフロリアード2012でオランダのベアトリクス女王陛下とその足元にある石塚園芸のサクラソウ3種の写真を示します。2012年4月に撮った写真です。

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下はオランダの花の祭典、フロリアード2012で金賞一席と特別賞を受賞した新種の名前です。

2012年12月には、日本のフラワー・オブ・ザ・イヤーでニューバリュー特別賞を受賞しました。

下は特別賞受賞の湖畔の夢です。帰りがけに石塚さんが一鉢下さいました。

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尚、池袋サンシャイン・ビルの文化会館で2月1日から3日までの金、土、日に「関東東海花の展覧会」が開催されます。11の都と県から非常に多種類の花々が出展されます。石塚園芸のサクラソウも何種も出展されます。是非、ご覧下さい。(続


箱根駅伝の歴史と、美味しいソバの話

2014年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム

年の初めから家人の自慢をして恐縮ですが、世の中にはこんな夫婦も案外多いのではないかと思いこの記事をお送りする次第です。

妻がスポーツが好きで、夫がスポーツに関心が無い夫婦のことです。

私の家では、家人がプロ野球、大相撲はもちろんテレビのフィギュアスケートの番組や箱根駅伝の中継を熱心に見ているいのです。

そしてその側で、私が家人の詳細な解説を聞きながら見ているのです。

そして、スポーツは何でも記録が一番重要で、順位にこだわっててはいけませんと私へ教えます。

箱根駅伝は実力の揃った10人のランナーを持っている大学が勝つのです。

そして10区間の区間を一番早く走った記録が重要なのです。大学の4年間で常に出場する選手が良い選手なのです。10区間にはそれぞれ特徴があり、その特徴に強い選手を選ぶのが監督の責任なのです。そして選手の出身高校まで説明してくれます。私は傍で、ウン、ウンと生返事をして聞いています。

今年の箱根駅伝は例年通り、1月2日に東京から箱根までの5区間を走りました。

東洋大学が一等で箱根のゴールに入りました。

今日は午前8時に昨日の順位に従って箱根をスタートしました。これを書いている傍のテレビが東洋大学の走者が小田原の中継所まで来たと言っています。

東洋大学と言えば、2年前の優勝と柏原君の5区の上り坂の圧倒的な走りを思い出します。下にその夜のニュースの写真を示します。

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2012年の1月2日には、4年連続出場の柏原君(上の写真)が箱根の坂を駆けあがり区間新記録を更新したのです。

その2012年1月2日の読売新聞の記事では箱根駅伝の歴史がを書いてありました。

1917年に京都と東京の間の東海道をリレーで走破したのが箱根駅伝の始めと書き、そのイベントを提案したのが読売新聞の社会部長の文学者、土岐善磨氏であり、費用の責任をとったのが読売新聞社であったという記事です。

しかしこの記事を見た家人が別の説が常識だと申します。

1912年のオリンピックのストックホルム大会でマラソンに出場して、中途棄権した金栗四三氏が尽力して創始したというのです。

そこで私は関連資料を調べました。

箱根駅伝は1920年に始まったことになっていました。しかし読売新聞社の事は一切書いてありません。

そこで私は以下のように考えています。

確かに1917年に京都と東京の間のリレー徒競争が開催されたのは事実で、その運営責任者は当時社会部長の土岐善磨氏達が担当したのでしょう。

しかし京都ー東京間の駅伝を毎年開催するには、選手を揃える困難や財政上の困難が大き過ぎ駅伝として定着出来ません。

そのニュースを見たマラソン選手の金栗四三氏は、毎年確実に開催出来、多くの大学生が参加出来る短い箱根コースを考え出したに違いありません。

箱根の坂は日本人のマラソン耐久性を向上します。

箱根駅伝に出た多くの選手が、後にオリンピックやマラソンのいろいろな国際大会へ出場している事実は金栗四三氏の考えが正しかった証拠ではないでしょうか?

しかし財政的なパトロンとして惜しみない支援を続けた読売新聞社も偉かったのです。

詰まらない元祖争いを捨てて公正な、正しい歴史を残すべきではないでしょうか?日本では金を出した人が偉くて、新しい有意義な、そして独創的な提案をした人は無視しがちです。なにか寒々しい文化のような感じがして残念至極です。

ところで話は飛びますが、相模湖へドライブすると、時々寄る蕎麦屋さんがあります。

藤野の名倉グランド入口の、そば処、「喜庵」という店です。

この店の御主人の宮崎慶喜さんはもと陸上長距離走の選手でした。

正月の箱根駅伝では、駒澤大学代表で1年生から4年生まで7区、7区、5区、9区を走りました。(46回1970年~49回73年)。

 スポーツ好きの家内が小さな写真に目を止め、帰宅してから調べました。なにしろご主人お一人で蕎麦を出しているので伺うことも出来なかったようです。

そこで次回に行ったとき家内がご主人と第46回1970年~49回73年の箱根駅伝の思い出を話し合っていました。

この蕎麦屋では、北海道産のソバの実を、毎朝石臼で挽いた粉を使った手打蕎麦を提供します。

その蕎麦が美味で、その上、天麩羅の揚げかたも絶妙で、鴨も申し分ありません。水は地下天然水、出しは本鰹、昆布のみ、ワサビは安曇野産ということです。

場所は「藤野、そば処、喜庵」を検索するとあります。下に写真を示します。

そんなこともあり、箱根駅伝といえば喜庵のソバとご主人のことを思い出します。

今日の箱根駅伝の復路の5区間の勝負はどのようになるのでしょうか。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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初詣をする人々の幸せそうな風景

2014年01月02日 | 日記・エッセイ・コラム

正月に神社に行って、家族の幸せを祈る人々を見るのが好きです。人々が穏やかに楽しそうにしています。見ていると心がなごみます。楽しい気分になります。

平和というものは家族の平和が積み重なって出来るのですから、家内安全を祈る心が大切なのだと思います。

そんな楽しい風景を写真に撮ろうとして毎年お正月には神社に行きます。

小金井には参拝客が長い行列を作る神社が3つあります。小金井神社と稲穂神社と貫井弁天です。

今年は稲穂神社と貫井弁天を訪ねました。

平和な風景写真をお楽しみ下さい。

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上と下の写真は自宅の北側にある稲穂神社です。昨日の午後に家内と散歩しながら写真を撮ってきました。神社の鳥居の外から長蛇の列でした。長時間待つようなので参拝はしませんでいた。

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上と下は貫井弁天の今日の午後の風景です。大きな池にかかった橋を渡ると拝殿があります。今日は参拝しました。家内安全の他に、シリアでの内戦と南スーダンの内戦が早く終わって平和が来るようにと祈りました。

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それにしても初詣ををする人の多さに吃驚します。毎年、参拝する人が増えているように思います。

このお参りや神道のことを外国人へ分かりやすく説明し、日本の文化への親しみと深い理解を持ってもらう努力も重要ではないかと感じました。

相互理解こそが世界平和を確実にするために必要ではないでしょうか。

そんなことを考えながら写真を撮ってきました。

皆様は初詣に行かれましたでしょうか。

(終わり)