おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その2。新宿橋。榎戸堰。「榎戸村」石碑。「準用河川元荒川起点」。荒川土手に。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-16 18:37:19 | 元荒川

左岸は護岸整備中。

                   上流に「新宿(しんしゅく)橋」。

「新宿橋」のたもとには「榎戸(えのきど)堰公園」。

ゴツゴツした大きな岩。

榎戸堰。

江戸時代に作られた木造の堰は、増水による崩壊や腐朽により幾度となく改修・改築が繰り返されてきましたが、明治30年代に木造から写真のような煉瓦造りの堰へと改築されました。この煉瓦造りの堰の名残が、現在も元荒川の護岸として残されています。

煉瓦製の堰は昭和初期に部分的にコンクリートに改築された後、昭和41年には全面コンクリート製になりました。現在もこの堰で元荒川の水を堰き止め、農業用水として周辺の水田を潤しています。

煉瓦堰への改修にあたり、私財まで投じてまで尽力した当時の吹上村長代田仙三郎をたたえる石碑が、榎戸堰公園内に建てられました。

「代田仙三郎翁顕彰の碑」。
 榎戸堰は,元荒川最初の堰にあたり,古来下流田畑にとっては,命とたのみ重要な堰であった。
 しかし,江戸期から明治初年にかけては極めて貧弱な構造だったため常に修復が求められ,関係村々の悩みとなっていた。
 ここに明治三十六年三月,第二代吹上村長,代田仙三郎翁は,堰用水利用各村の代表者を説き,自ら組合の責任者となって恒久的用水堰を建設すべく,県費補助を得て工事に着手したが,建設地の地盤は予想以上に軟弱をきわめ,そのうえ湧水いたる処となって思いもかけぬ難工事となり,費用は予算を遙かに超えたが,翁は,なおこれに屈せず,私財まで投入してついに同年末,近代工法による半永久的な榎戸堰を完成させた。
 以来,関係村々は毎年くり返された修復普請の労苦から解放されると同時に,安定した用水を得て,その恩恵は今日に及んでいる。
 今まさに,ふる里を見つめ創生をめざす時にあたり,英明,代田仙三郎翁を顕彰し,もってその遺徳を後世に伝えると共に,新たな町づくりを展開する誓いの石文として,翁ゆかりの地に,この碑を建立するものである。

(この項「」HPより)

上流を望む。

ここからすぐ左に「旧中山道」。「榎戸村」石碑。 

ここは旧榎戸村の上方、村は中山道に面して東西五丁南北六丁の小村だが、江戸以来、吹上、大芦吹上、大芦から糠田に至る八ヶ村への水田用水を供給するための元荒川の「榎戸堰」があり、風光明媚な所として知られた。

熊谷宿へ二里 鴻巣宿へ二里十五町。

旧中山道(吹上方向)。

道の両側にレンガ造りの樋門。

左の塔の脇には「準用河川元荒川起点」と刻まれた標石。

現在の起点はもっと上流になりますが、大正から昭和初期に行われた河川改修時に、ここを起点と定めたようです。

左手にある樋門の先を望む。

右手先には、現在の元荒川。

荒川の土手に進みます。

          土手下の祠は、「権八地蔵」。


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