未来分裂、小沢系が党名を「生活の党」に 嘉田氏を追い出し(産経新聞) - goo ニュース
こうして、今度は、弱体・民主党の息の根を止めることに焦点。かつて、「自民党」憎し!で離合集散を繰り返した「壊し屋」小沢さん、今や「野田」憎しに。泣き虫は御しやすしと見くびられていることに気がつかない海江田さん。
それにしてもこのまま小沢とくっついたら、参院選も危うし。民主、その前に分裂? 次の衆議院選挙までに消えていく運命の道を歩くことになりそう。
それにしても、小沢さんにくっついてけっして離れない(これからもくっついていこうとする)方々の思想信条は何なのですかね。小沢との「生活」の党。
昔、話題になった、千石イエスの集団(「イエスの方舟」)「事件」とつい重なってしまう。そして、小沢さんに対するマスコミ報道機関の姿勢すらも。
「イエスの方舟」(「Wikipedia」より抜粋)
イエスの方舟とは、主宰者の千石剛賢(せんごく たけよし、1923年7月12日 - 2001年12月11日)が開催していた聖書勉強会が母体となった集団。千石は、1951年に兵庫県で自営業である刃物工場の経営に失敗し、レストラン支配人を勤めながら教会に通い始める。夫人と再婚後の1952年、大阪で聖書研究会に参加する。1960年にはその研究会会員10名とで東京都国分寺市に移動して「極東キリスト集会」を主宰し共同生活に入る。これが「イエスの方舟」の起源。
1975年頃、家庭には居場所がないと感じていた信者が「千石イエス」の活動に共感し、家庭を捨てて共同生活を始めるようになる。信者の多くは若い独身女性だったが、男性や既婚女性も含まれていた。その後、千石の体調が悪化したことと満足な布教活動ができなくなったことを理由に、1978年から千石は信者26人と共に全国を転々としはじめる。
信者の家族は捜索願を出すとともに、マスコミにも千石を告発し、協力を依頼した。まずこれに反応したのが、「婦人公論」。1980年に「千石イエスよ、わが娘を返せ」というタイトルで家族の手記を掲載し、千石を邪教の主宰者と糾弾した。次いで、「産経新聞」も反イエスの方舟キャンペーンを張り、そのほか多くのマスコミも、「千石ハーレム」「現代の神隠し」といった表現で同調する報道が続いた。
1980年2月21日の国会で狂信的団体として取り上げられた。「若い女性を誘拐し、集団で消えている。法治国家として恥ずべき問題だ。何とか全国的な捜査体制は取れないものか」これに対して当時の国家公安委員長であった後藤田正晴は「もし法に触れる事実があれば、すぐに刑事事件として追求する」。
この発言によって警察が本格的に動き始め、「イエスの方舟」はカルト教団として全国的に知られる。イエスの方舟の娘たちからマスコミに手紙が届いているが、ほとんどのマスコミは千石が無理やり書かせたものだとして、無視した。このような世論の中でも「サンデー毎日」誌のみはイエスの方舟を偏りなく評価し、冷静な報道を続け、他のマスコミからは「方舟の宣伝誌」などと批判されたが、姿勢に変化は無かった。
1980年6月18日、千石は熱海の出版社(製本会社)の社員寮に一時移動し、サンデー毎日記者と対面した。サンデー毎日は千石を匿うとともに、高木一を弁護士として依頼し、「千石イエス独占会見記」を掲載した。他のマスコミは一斉に反発した。事態はマスコミ戦争の事態に発展した。
7月2日、千石に逮捕状が出、名誉毀損、暴力行為などの容疑で5人に対して全国に指名手配がなされた。このことが新聞報道された7月3日午後、千石は持病の心臓病から狭心症を発症し、緊急入院。娘たちがマスコミの前に姿を現し、会見を行った。このとき乱れたセックスがあったのではないかとの記者の質問に対し、娘らは「夫婦という関係以外では全くありません」と毅然と答えた。
また、捜索願が出されている娘たちに関しては、親元へ帰された。身柄を拘束されたのは韓国籍の1人で、外国人登録法違反で罰金8000円で釈放された。千石は半月後に出頭した。彼への取調べは、任意調査にとどまり、書類送検されたものの翌年、容疑事実は無いとして不起訴処分の決定が下された。
千石が出頭し、逮捕もされなかったこともあわせ、会の実態が世間に知られるようになるにつれ、マスコミ報道は沈静化しはじめた。千石は、1980年12月に福岡の中洲に移って「シオンの娘」というクラブを経営する。千石と行動を共にした信者には、一時家庭に戻ったものの、そのほとんどは千石を追って共同生活を再開した。
彼のクラブに勤めているのは女性会員。酒も提供するが、「教会」のように、来客の悩みや人生相談に乗るなどの活動拠点であった。男性会員は千石と共に大工仕事に勤しんでいた。
ちなみに共同生活において、千石は会員から「おっちゃん」と呼ばれ慕われていた。
1993年、古賀市に「イエスの方舟会堂」を建設。2001年12月11日、福岡市の病院で死去。享年78。
千石の死後も信者はクラブ経営の他に、近親者などからの暴力から逃れる女性の『駆け込み寺』的な施設の運用も行っている。
少し古い資料のようですが・・・。
はたして、その後のようすは? いえ、「生活の党」のことです。