おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

国鉄下河原線跡をたどる(「国分寺」~「東京競馬場前」)その1

2013-02-02 16:26:23 | 鉄道遺跡
 久々に廃線を訪ねる旅。今回は「国鉄下河原線」跡。線路跡は、緑道(公園)風になっていて、自転車と歩行者が通る道筋。二カ所ばかりレールなども埋め込まれ、説明版もしっかり。
 この路線、当初は、中央線・国分寺から分岐して南下し、多摩川の河川敷までつながっていた貨物専用線。途中、「東京競馬場前」(当時は国鉄の中では一番長い駅名だった)への路線を分岐していました。したがって、旅客線でもあったわけです。その廃線跡を訪ねて。
 JR「国分寺駅」南口からスタート。駅の南西地域は国鉄の中央鉄道学園跡地など再開発が進んでいて、高層マンションなどが整然と建てられています。

 国分寺駅からしばらく中央線に平行して西に向かって走っていた「下河原線(単線)」。その線路跡は整地され、幅があることや灌木が一列に並んでいることくらいしかかつて線路があったという痕跡は残っていません(3,4年前にはまだ線路がしかれていたそうですが)。
中央線沿いの南側の敷地。
ぽつんと朽ちた枕木が一本横たわっていました。
 中央線・武蔵野線が交差する「西国分寺駅」の東南側付近も駐輪施設、ロータリーなど、区画整理が行われていて、「下河原線」の痕跡は見当たらない。
武蔵野線をはさんで東側のマンション。微妙な曲線を描いているのが、南西にカーズして向かう線路跡をうかがわせる。(西国分寺駅南の地点)
 下河原線は「武蔵野線」の南行する線路となった。そのため、ほぼ平行する府中街道をひたすら南に進むと、「北府中駅」に。
東芝の工場。引き込み線があってJRのオレンジ色の車両が見える。引き込み線は、もちろん、現役。
「府中刑務所」南西端。
 しばらく府中街道を進み、「市民球場」を過ぎて右折。
ここで、武蔵野線とはお別れ。
武蔵野線がトンネルに入り、ここから線路跡の道が始まる。中央の建物が線路跡になっている。
ここから本格的な「下河原線」跡の緑道。
細長い公園の中に線路が敷かれ、ベンチや枕木を使ったホーム(モニュメント)がある。
説明版。

「下河原線の歴史」 

 ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
 明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町3丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1932)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)国分寺~東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺~東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され66年間にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。            府 中 市

公園を南側から望む。直線のレールが延びている。
「京王線」のガードをくぐる。サザンカが道に沿って植えられ、紅い花が今を盛りに。
足下には枕木が柵として再活用されている。
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