この本を手に取り、作者の名前を見て、30年、あるいは40年以上前、どこの出版社かも忘れましたが「新進作家叢書」(たぶん黒が基調の装丁だったような・・・)とか言ったシリーズものが刊行されたとき、黒井千次さんとかと並んで一冊あった、その記憶が鮮やかに蘇ってきました。もうすでに家の本棚にはなく、その後、この方の小説は読んだ記憶がありませんでした。
後書きにもあるように、すでに齢78歳を超えたという。息の長い小説家(しかも短編小説家)であることに気づかされました。一つひとつの「短編」の内容もさることながら、「短編集」全体を通して、冷静、沈着な眼差しを感じる作品。
久々に読んで、それぞれのお話に身につまされる思いで、どことなく胸に響く感じがしました。特に最後の一編「花の下にて」は、西行法師の歌をヒントに、先立った夫や息子の元に、これから赴こうとする老婦の思い。他人様に(かわいい孫達も含め)老醜のぶざまな様を見せずに死に行く決意と実行を淡々と描く。作者自らの理想とする死に様(実は叶わない)をもイメージしているのでしょうか。
このように、取り上がられた作品は、喜寿を超えた作者の来し方、行く末(これはもう厳然として限りがある)を市井の人びとの生き様になぞらえて描いています。
「リボン仲間」は、地名や駅名、施設名など固有名詞をあえて用いてリアリティを持たせていながら、すてきな物語になっています。内容は想像の世界でしかないですが、こういうのもありかな、という風に楽しめました。
「公園」。戦前、戦中、戦後、そして現代とめまぐるしく変貌してきた「東京下町」が舞台。作者の心象スケッチという雰囲気がよくでています。ベーゴマや三角ベースの野球など懐かしいことばが出てきます。東京大空襲で焼け残ったコンクリートの建物のことなど、実に身近なことごとに改めて幼少期の頃を思い出しました。
その他の作品も、読者である我が身にもあてはまりそうなお話ばかり。ついつい共感してしまう己に、何となく歯がゆい思いもするという複雑な心境のまま、読み進みました。
あの男の顔、あの幼なじみの女性の顔、つれあいや子ども達の顔などが登場人物に重なって見えてきました。
「あの頃の空」は、多くの老境に達した人びとにとってそれぞれどんな色の、雲行きの空だったのでしょうか。もちろん、「あの頃」も千差万別ですが。
後書きにもあるように、すでに齢78歳を超えたという。息の長い小説家(しかも短編小説家)であることに気づかされました。一つひとつの「短編」の内容もさることながら、「短編集」全体を通して、冷静、沈着な眼差しを感じる作品。
久々に読んで、それぞれのお話に身につまされる思いで、どことなく胸に響く感じがしました。特に最後の一編「花の下にて」は、西行法師の歌をヒントに、先立った夫や息子の元に、これから赴こうとする老婦の思い。他人様に(かわいい孫達も含め)老醜のぶざまな様を見せずに死に行く決意と実行を淡々と描く。作者自らの理想とする死に様(実は叶わない)をもイメージしているのでしょうか。
このように、取り上がられた作品は、喜寿を超えた作者の来し方、行く末(これはもう厳然として限りがある)を市井の人びとの生き様になぞらえて描いています。
「リボン仲間」は、地名や駅名、施設名など固有名詞をあえて用いてリアリティを持たせていながら、すてきな物語になっています。内容は想像の世界でしかないですが、こういうのもありかな、という風に楽しめました。
「公園」。戦前、戦中、戦後、そして現代とめまぐるしく変貌してきた「東京下町」が舞台。作者の心象スケッチという雰囲気がよくでています。ベーゴマや三角ベースの野球など懐かしいことばが出てきます。東京大空襲で焼け残ったコンクリートの建物のことなど、実に身近なことごとに改めて幼少期の頃を思い出しました。
その他の作品も、読者である我が身にもあてはまりそうなお話ばかり。ついつい共感してしまう己に、何となく歯がゆい思いもするという複雑な心境のまま、読み進みました。
あの男の顔、あの幼なじみの女性の顔、つれあいや子ども達の顔などが登場人物に重なって見えてきました。
「あの頃の空」は、多くの老境に達した人びとにとってそれぞれどんな色の、雲行きの空だったのでしょうか。もちろん、「あの頃」も千差万別ですが。