おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

在原業平。芭蕉句碑。来迎寺一里塚。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その3。)

2015-07-08 22:48:56 | 旧東海道

 想像していたよりも手狭な「無量寿寺」境内。また「かきつばた」はほとんど刈り取られていましたが、芭蕉句碑などもあって、静かな散策を楽しめるところでした。

「謡曲『杜若』と業平の和歌」。

 謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて
 「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」
と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠に作曲されたものである。
 東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、威勢物語の誇示を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという情趣豊かな名曲である。

謡曲史跡保存会

 ところで、在原業平と『伊勢物語』の東下りについて。

 「東下り」は、第7段の「むかし、をとこ、ありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに」から第8段、第9段の「むかし、をとこ、ありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ。あづまの方に」以下をさします。
 その前にはと昔男(在原業平に想定される)が藤原高子(後の二条の后)との恋に破れた話に続く構成となっていて、「芥川」の段には、高子を略取しましたが、発覚して取り返されてしまうという話があります。
 段の構成から東下りはこうした業平と高子の破局がひきがねとなって、「東下り」となるというつながりになっています。
 上の解説文で、謡曲「杜若」にはそのことをほのめかす内容になっていることが分かります。

 その在原 業平(ありわら の なりひら)ですが、

 9世紀半ばにいた人物で、平安時代初期の貴族・歌人。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将(それほど高い位ではなかったので、高子との恋が成就しなかったともいえます)。
 六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによります。
 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきました。

(以下は、「Wikipedia」参照)

 業平は父方をたどれば平城天皇の孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
 仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年(貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年(元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日(元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
 業平は『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれる。この後に「略無才学 善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。
 早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。
 代表的な歌は、

・ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。
・世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。
・忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。
・から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』撰歌。
・名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』撰歌。
・月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』巻十五、恋歌五。

 「ちはやふる」は、落語が面白い。相撲取りの「竜田川」が遊女に振られるお話。
 「名にし負はば」は、東京・墨田の「言問橋」の由来。
などとけっこう有名な歌があります。



「業平竹」。

 植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述が見られる。
 一節には竹「男竹」であるが笹「女竹」のように一筋から多くの枝を出すため、色男と云われる在原業平に見立てたともいわれる。
 男女竹と称え、縁結びの竹として俗に信仰されている。

「芭蕉連句碑」。

 かきつばた 我に発句の 
         おもひあり   芭蕉

 麦穂なみよる 潤ひの里     知足

 芭蕉が貞享元年(1684)に「野ざらし紀行」を終え、翌年4月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊まり俳筵を開いた時の作といわれる。
 芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。
 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とあり、三河に残る芭蕉句碑の代表的なものとされている。

 知立市教育委員会 

 ところで、京都のお土産で有名な「八ッ橋」。この和菓子にも触れていきましょう。

起源・由来

 江戸中期にあたる1689年(元禄2年)に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道の茶店にて供されたのが始まりとされる。
 八橋の名の由来は定かではなく、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説がある。

特徴

 生八ツ橋(ニッキ風味)
米粉・砂糖・ニッキ(肉桂、シナモン)を混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を焼き上げた堅焼き煎餅の一種で、形は箏を模しており(聖護院八ツ橋総本店による。別に橋の形を模しているという説もある)、長軸方向が凸になった湾曲した長方形をしている。
 蒸し終えて薄く伸ばした生地を焼き上げずに一定サイズに切り出したものは「生八ツ橋」と呼び、1960年代に発売を開始した。純粋に生地だけのものと、正方形の生地を二つ折りにして餡を包んだものがある。とくに後者はメーカーにより多種多様な種類が作られている。生地は通常のニッキのほか抹茶やごまを混ぜたものがあり、餡も通常のつぶあんのほかに果物やチョコレートの餡を用いるものもある。
 明治時代、京都駅で販売されたことがきっかけとなり、認知されるようになり、人気が出て行った[6]。昭和期にはいるとよりやわらかい質の「生八ツ橋」が考案され、現代ではこちらの方が人気がある。
 抹茶味、イチゴ味、チョコレート入りの八ツ橋も作られており、バリエーションが増えている。

八ツ橋の主な製造販売企業について

・聖護院八ツ橋総本店 (玄鶴堂)、「聖(ひじり)」「旬菓(しゅんか)」 1689年(元禄2年)に聖護院の森の茶店として創業し、八ツ橋の製造販売を開始。
・本家西尾八ッ橋、「あんなま」 元禄年間に聖護院の森の黒谷参道に八ッ橋屋梅林茶店として創業し、1689年(元禄2年)に八ツ橋の原型が誕生。文政七年に熊野神社に奉納された絵馬には「八ッ橋屋為治郎」の名が残る。
・聖光堂八ツ橋總本舗、「なまやつ」 1850年(嘉永3年)の創業と同時に八ツ橋の製造販売を開始。
・おたべ(株式会社美十) 1957年(昭和32年)から八ツ橋製造を始めた。餡入り八ツ橋「おたべ」は1966年(昭和44年)から製造を開始し、新顔ながら一大勢力となる。
・八ツ橋屋西尾為忠商店(元祖八ツ橋) 本家西尾八ツ橋と分かれてできた銘柄。完全手作業製造・梱包、添加物無添加で、3軒の直営店だけでの販売を行う。餡入り八ツ橋が4角形で、通年販売は一般的な餡入りと抹茶餡入りだけであることも特徴。
・井筒八ッ橋本舗 1805年(文化2年)創業。井筒八ツ橋や餡入り八ツ橋「夕子」で知られる。

かつてはこれが主流でしたが、

いまはこちらが売れているようです。「生八ッ橋」。

 こうして一通り見学したあと、再び「東海道」へ。時刻は午後1時近く。食事をとるお店もない、出るときにコンビニで買ったおにぎりをどこかで食べようかと歩いていると、「明治用水」の説明板がありました。「水路」は遊歩道になっています。

    

 四阿風の休憩施設が見えたので、そこに立ち寄って、昼食休憩。なんと目の前に「芭蕉句碑」がありました。



 杜若 語るも 旅のひとつかな 

 この句は、芭蕉の紀行『笈の小文』に収められたもの。元禄元年(1688年)4月、大阪の保川一笑宅において作った句である。杜若を眼前にして、『伊勢物語』で有名な三河八橋の杜若を話題にしたのであろう。芭蕉はそれまでに東海道を少なくとも2往復半しているが、杜若を見たと思われるのは、延宝4年(1676年)夏、郷里へ赴いた折であった。『伊勢物語』の業平が望郷の思いに涙したという八橋の杜若は、久しぶりに郷里に赴く芭蕉にもさまざまな感慨を起こさせ、いつまでも心に残ったのであろう。一笑宅の杜若も見事だが、10年以上も前に見た八橋の杜若は、今も忘れられないというのである。なお、この句の芭蕉自筆のものが伝わらないので、この碑は乙州編の『笈の小文』によった。

(監修 愛知教育大学教授 岡本 勝)

 平成7年11月、知立市市制25周年記念に建立されたもののようです。作句の場所は異なりますが、今の心境に絶妙なタイミングです。さすが、芭蕉翁。意を強くして、午後の行動です。

一面の田園風景。

 再び「東海道」を西へ進みます。まもなく「来迎寺一里塚」。

    

来迎寺一里塚 県指定文化財(史跡)

 1603年(慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。この時一里(約4キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。
 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。
 塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。この大きさは直径約11メートル、高さ約3メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。
 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。
 県下ではほかに豊明市の阿野一里塚などがある。

 知立市教育委員会

    
 南側。                                  北側。

    道の向こう側、奥に北側の一里塚。日本橋から84里目。

しばらく道なりに進みます。「東海道」の標示。

「元禄12年の道標」。

まもなくすると、「国道419号」の向こうに松並木が見え始めます。
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