おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大将ヶ根。有松。有松・鳴海絞り。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その2。)

2015-07-21 19:04:10 | 旧東海道

 「桶狭間病院」の前を通る道が旧東海道。「国道1号線」から左に入ります。
    

 再び「国道1号線」に合流し、しばらく進み、「大将ヶ根」交差点で向かいの道に進むと、有松の町並みに。ここは、名古屋市緑区。


(「okehazama.blogspot.com/2013/05/blog-post_10.html」より)

 この「大将ヶ根」は、古くは「太子ヶ根」と言う地名でしたが、桶狭間の合戦の際に信長の軍勢が集結した場所であると云い、以後「大将ヶ根」に変わったと云われています。地域的には、名鉄線・有松駅からは東側一帯の地域。緑区鳴海町字大将ヶ根が町名変更で太子1~3丁目になったのは昭和54年のことのようです。
 江戸時代、このあたり一帯は鳴海山と総称した標高40~60mの丘陵地。今は新興住宅地として開発され当時をしのぶ山林は無くなっているが、峰の名前が地名になって残っていることと急勾配の道が、昔ここが山の中であったことを物語っているようです。

しばらく進むと、歌碑。

 たちならぶ花にしきと家ごとにかけ渡したるたくりり染かな 離家 鈴木朖

いよいよ有松の町並みに。

 広重も鳴海の宿はこの町並みを描きました。


  東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞 / 歌川 広重

 鳴海は絞り染の名産地であり、店が並んでいた。この図は鳴海より約一里東にある有松絞を売る店を描いたものである。建物や樹木を暗く着色し、地面も単純に描き、店の中に目が行くように描かれている。駕籠、馬、徒歩と、女性の旅人が通る。

(「知足美術館」HPより)

    
   大正期の鳴海(「同」より)。竹田家。              現在のようす。ほとんど変わっていない。

右手には「有松山車会館」。

「有松絞会館」脇、広重の絵。

 有松 名物有松絞りを吊した店が並ぶ。手前の女性がその美しさを眺めている。のれんにある菱形内の「ヒ」は広重の印 脇の「竹内」は版元名。 鳴海信用金庫

有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)

 愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。
 木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する。

有松絞りで染め抜かれた文様。

 現在の有松地域は江戸時代のはじめには人家の無い荒地であったため、この地域を通る東海道の治安に支障をきたしており、尾張藩は人の住む集落を作るために住民を募り1608年(慶長13年)東海道沿いに新しい集落として有松が開かれた。
 しかし、有松地域は丘陵地帯であるため稲作に適する土地ではなく、また鳴海宿までの距離が近かったことから間の宿としての発展も望めなかった。そこで有松に移り住んでいた住人の一人である竹田庄九朗が、1610年(慶長15年)から1614年(慶長19年)にかけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を行きかう人々に土産として売るようになったと言われている。
 また、1655年(万治元年)に豊後(現在の大分県)より移住した医師三浦玄忠(ただし医師であったこと、玄忠という名前については疑問も呈されている)の妻によって豊後絞りの技法が伝えられ、有松の絞り染めは大きな進歩を遂げた。
 このときに伝えられた技法は三浦絞りあるいは豊後絞りの名前で呼ばれ現在にも伝わっている。なお、鳴海絞りではこの三浦玄忠夫人を鳴海絞りの開祖と伝えている。
 有松での絞り染めが盛んになるにつれ、鳴海などの周辺地域でも絞り染めが生産されるようになっていったが、この状況に対し有松側は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え、1781年(天明元年)尾張藩は有松絞りの保護のため有松の業者に絞りの営業独占権を与えた。
 ただし、絞りの生産が全て有松の町で行われていたわけではなく、鳴海を含む周辺地域への工程の下請けが広く行われていた。独占権を得た有松には現在につながる豪壮な町並みが形作られた。その後も絞り染めに対する統制は強化され、有松は尾張藩の庇護の下絞り染めの独占を続けたが、幕末になると凶作に苦しむ領民の生活扶助のため独占権が解除された。
 明治に入ると鳴海や名古屋、大高などの周辺地域にも絞り染めを扱う業者が現れるようになる。愛知県以外でも全国各地で絞り染めが生産されるようにもなり、東海道が交通の中心から外れたことも影響して有松の絞りは衰退期を迎える。しかし、明治の中ごろ以降は販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加、かつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることになる。
 第二次大戦中には戦時統制が強化されて原料が入手できなくなり絞り染めは衰退するが、戦後に統制が解除されると復興し、社会にゆとりが生まれると共に生産量も増加した。
 しかし、昭和の中ごろを過ぎると着物離れや安い中国製の製品との競争、後継者難などから生産量は減少し、現在ではかつて100種類を越えた技法も大きく数を減じている。一方で、1975年(昭和50年)9月に愛知県内で初めて伝統工芸品に指定された他、第一回国際絞り会議の開催(1992年(平成4年))と「ワールド絞りネットワーク」の設立、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など有松・鳴海絞り振興のための取り組みも行われている。

 有松と鳴海は現在共に名古屋市の緑区に属しているが、名古屋市に編入されるまでは有松は知多郡、鳴海は愛知郡に属しており、元々は全く別の地域である。有松絞りと鳴海絞りは現在でこそ「有松・鳴海絞り」として一括して伝統工芸品に指定されているが、江戸時代より互いに本家争いや販売、訴訟合戦を繰り返し、戦後に友禅の人間国宝山田栄一を鳴海絞りの人間国宝にもしようと運動が行われた際には、有松側から横槍が入ったと言われる。
 なお、江戸時代にも絞り染めの生産の中心は一貫して有松地域であったが、正式な宿場ではない有松は旅人の停留する所ではなく東海道五十三次の一つであった鳴海宿においても販売を行ったことから、有松絞りも江戸では専ら「鳴海絞り」と呼ばれていた。

 (以上、「Wikipedia」参照)

 素敵な町並みをキョロキョロしながら歩いている途中、床屋さんの店先でご主人とベビーカーに男の子を乗せた母親が会話しているのを小耳に。

 乳児に話しかけるご主人「すてきな浴衣だね、お婆ちゃんが染めてくれたのかな」
 にこっり笑いながら答える母親「ええ、そうなんです」。

 ちらっと横目で見るとあざやかな藍色の浴衣でした。写真を撮り損ねたのが残念!

【服部幸平家住宅】
 服部幸平家は、服部孫兵衛家(井桁屋)の第6代の弟が明治時代に東隣に主屋を建造して分家した。この主屋の西側に建つ土蔵は、元は服部孫兵衛家の倉で、分家に際して幸平家に譲られたものである。服部孫兵衛家の屋敷構えを示す一部として、県指定の文化財となっている。
 主屋は、二階建、切妻造、桟瓦葺で、建造は江戸末期と見られている。妻を東海道側に向けて立ち、2階の2ヶ所に窓を開ける。切石の土台の上に建ち、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とする外観は、西隣の服部孫兵衛家の表倉と一連のものとして調和しており、東海道沿いの景観要素として貴重である。
 建築年:明治28年(1895年)
 愛知県指定重要文化財(1987年)
 現在の使用:絞り商

 以下、建物の説明は、HPより

    
                            【服部家住宅】
 服部孫兵衛家は、寛政2年(1790)向かいにある大井桁屋から分家し、創業した絞問屋で屋号を井桁屋という。屋敷地は、有松東海道に面し広い間口を有し、中央部に2階建の主屋を配し、井戸屋形、土蔵、門など併せて11棟が指定文化財となっている。有松の有力な絞問屋の屋敷構の典型として価値のある遺構となっている。主屋は、切妻造、2階建、桟瓦葺、1階には格子をはめ、2階は黒漆喰の塗籠造で屋根両妻に卯建をあげる。主屋の西は、往還沿いに塀を構え、門を入ると座敷が建つ。
・・・
 有松の有力な絞り問屋の屋敷構えを建築的に特徴づけるものは、間口の大きな敷地の中に、絞りの原材料製品のための蔵、接客用の座敷などが立ち並ぶ構成といえるが、服部孫兵衛家はその典型といえ、よく保存された屋敷構え全体が価値あるものとなっている。
 建築年:文久元年(1861年)
 愛知県指定重要文化財(1964年)
 現在の使用:絞り商

【小塚家住宅】
 当住宅は、茶室の付く主屋、表倉、南倉などからなり、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめており、改造も少なく、建築的にも優れ、歴史的にもまた町並み景観の上からも貴重な建物である。
 主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入り、外壁および軒裏は塗籠漆喰塗で、一階は格子窓、隣家との境に卯建が設けられている。
 小塚家が有松に移住した年代は、寛文年間(1661~1673)といわれ、屋号を山形屋として明治期まで絞り問屋を営んでいた。それ以後は専用住宅として使用され現在に至っている。
 建築年:文久2年頃(1862頃)
 名古屋市指定有形文化財(1992年)
 現在の使用:住居

【岡家住宅】
 当住宅は、江戸時代末期の建築で、当時は丸屋丈助の店として、小田切春江の錦絵にも描かれている。
 敷地は奥行が深く、主屋は木造切妻造二階建、桟瓦葺、土庇付の建物で、二階窓は優美な縦格子、塗篭漆喰塗になっている。お勝手の釜場の壁は、防火上の配慮から柱を巻き込んで塗りこめられた土壁が、独特の波形を描いている。
 主屋の裏の敷地に、座 敷、作業場、東 倉、西 倉が立ち並ぶ。 有松の幕末における典型的な町屋形態をとっている。
 建築年:江戸時代末期
 名古屋市指定有形文化財(1987年)
 現在の使用:住居

【竹田家住宅】
 竹田家は、有松絞の開祖竹田庄九郎の後裔で300年以上の伝統を持ち、有松における代表的家系の一つである。
 主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入りであるが、明治から大正にかけて平屋的構えを2階形式にし、表側に下屋(庇)を付設し土庇にしたり、出格子窓を造り、併せて、「申々居」移築あとの敷地に新たに書院が建造され、主屋と書院との間の間取りも大幅に改築されている。
 また、屋敷内の南方に、築150年以上とされる茶室「裁松庵」がある。
 同家の造りは、絞問屋としてはもとより、接客用としての正確も強く、右側の門や玄関、書院、茶室などはこれらを具体的に示すものである。外観の偉容は、全盛時代の有松の豪華さを誇った代表的な建築の面影を偲ぶことが出来る。
 建築年:江戸期(主屋)
 名古屋市指定有形文化財(1995年)
 現在の使用:絞り商

 他にも、

【中家住宅】
 建築年:明治中期頃
 国登録有形文化財(2008年)
 現在の使用:絞り商

【棚橋家住宅】
  建築年:明治8年(1875年)
 国登録有形文化財(2009年)
 現在の使用:住居

など、ほれぼれするような立派なおうちが東海道の両側に建ち並んでいます。

    

《付》広重の他の版の鳴海宿も有松が舞台です。

    

HPより)
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