伝馬町を通っていよいよ「七里の渡し」跡へ。
「東海道」道標。
名鉄常滑線のガードをくぐると、右手に「伝馬街園」。
水と緑と歴史のまち 宮地区
宮地区の歴史
熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。
公園の中央には木が植えられ、一里塚のような雰囲気ですが、説明は見当たりません。
しかし、ここまで、一つ前の「笠寺一里塚」からほぼ4㎞の道のりがあります。これが日本橋から89里目となる「伝馬町一里塚」とではないかと思います。これ以降、「海上七里」のため、「一里塚」は桑名宿と四日市宿の間にあるものまで、しばらくありません。
しばらく進むと、左手に説明碑や記念碑、石柱のある一角に出会います。
「裁断橋址」碑。 解説板。
裁断橋址
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思をついで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
名古屋市教育委員会
旧裁断橋桁石。
右手にある解説板。
裁断橋
文献では永正6年(1609)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正15年に川が埋め立てられ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。大正15年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
昭和28年3月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成4年3月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。
圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成5年5月此処に架設した。
奥には「都々逸発祥の地」碑。
都々逸発祥の地碑について
寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったという。その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から名古屋全域に広まっていった。やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となった。歌碑は縦1.8m、横30cmほどの御影石で、裁断橋跡の西側のたもとにある。
(以上、「都々逸発祥の地碑」 - じゃらんnet www.jalan.net/kankou/spt_23109aj2200025718/ より)
寄席芸としての都々逸
近年の邦楽の衰退と共に、定席の寄席でも一日に一度も都々逸が歌われないことも珍しくなくなったが、少なくとも昭和の中頃までは、寄席では欠かせないものであった。特に得意にしていた芸人として、柳家三亀松や都家かつ江が挙げられる。即興の文句で節回しも比較的自由に歌われることも多い。
俗曲として唄われる場合は、七・七と七・五の間に他の音曲のさわりや台詞などを挟み込む「アンコ入り(別名・さわり入り)」という演じ方もある。都々逸が比較的簡単なものだけに、アンコの部分は演者の芸のみせどころでもあった。
また、しゃれやおどけ、バレ句なども数多くあるので、演者が楽器を持つ時代の漫才のネタとして、あるいはネタの形式として使われることも多かった。
作品例
・恋にこがれて 鳴くせみよりも 鳴かぬほたるが 身をこがす
・ついておいでよ この提灯に けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから
・あとがつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする
・あとがつくほど つねってみたが 色が黒くて わかりゃせぬ
・はげ頭 抱いて寝てみりゃ 可愛いものよ どこが尻やら アタマやら
(以上、「Wikipedia」参照)
「伝馬町」との表示がある通りを進むと、大きな通りに分断されるので近くの「伝馬町」交差点を渡ります。
そのまま進み、正面を左折します。
右に折れると、熱田神宮へ。
「里程標」。東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点。
足元も「宮の渡し」に。
「国道247号線」を歩道橋で渡ります。正面が進む道。
「蓬莱陣屋」。
宮宿の陣屋跡地に1873年(明治6年)創業。
「蓬莱」の名は、昔、熱田の地が蓬莱あるいは蓬莱島と呼ばれていた事にちなむ。当初は単なる料理店であったが、明治末期に現在のひつまぶしに相当する料理を出したところそれが客に好評を博し、以来ひつまぶしが看板料理となった。
「ひつまぶしの店」として有名になったため、客の多くがひつまぶし目当てに訪れるが、現在でもあくまで日本料理店としてのスタンスを崩しておらず、ひつまぶし以外の単品メニューや会席料理などのコースメニューも豊富である。
ひつまぶしの起源
鰻丼の出前で、空の丼を下げる帰途に割ってしまう事が頻繁にあったという。
頭を悩ました当時の店主・甚三郎(2代目)が、女中頭お梅の知恵を借りて、割れない木の器と数人分の鰻飯を入れたお櫃(ひつ)で出前するスタイルに切り替えた。ただ、御飯の上に鰻を載せていると鰻ばかり先にとって、下の御飯が残り易くなってしまった。
そのため、また店主と女中頭が工夫を凝らし、鰻を細かく刻んで、御飯と混ぜるように変えたら、好評を博した。そこで、出前だけでなく店内の会席料理としても提供し始めたのが、当店における ひつまぶしの起源である。
蒲焼にしたウナギの身を切り分けた上で、お櫃(ひつ)などに入れたご飯に乗せ(まぶし)たものを、食べる側が茶碗などに取り分けて食べるのが基本的なスタイル。
これが料理名の由来(由来には異説もあり)となっている。そのまま通常の鰻飯として食べてしまうこともできるが、一般的にワサビや刻み海苔・刻みネギなどの薬味、出汁やお茶などが添えられて提供されるため、それらを食べる側の好みに合わせて取り分けた鰻飯に掛けたり、お茶漬けにすることにより、味の変化を楽しみながら食べることができるようになっている。
(以上、「Wikipedia」より)
昨日(24日)は、土用丑の日。平賀源内さんにのせられて、我が家でもささやかな鰻丼。さぞかしこのお店は賑わったことでしょう。
「宝勝院」。
宝勝院
・・・
熱田湊常夜灯は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。
名古屋市教育委員会
いよいよ到着! 宮の渡し公園。
ひときわ目立つ「時の鐘」。
時の鐘
延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人びとや東海道を旅する人びとにとって重要な役割を果たしていた。
昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。
熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。
昭和58年3月 名古屋市
そして、こちらが先ほどの「熱田湊常夜燈」。
熱田湊常夜灯
この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船つき場跡である。
常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に常夜灯を建立した。その後風害で破損したために承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元された。
かつてのようすとは、当然、異なっていて、はるかかなたに名古屋湾があります。
(上の図は、HPより)
「国道1号線」がほぼ江戸時代初期の海岸線。その後、干拓が進んでいき、江戸時代後期には「国道23号線」ラインまで干拓が進みました。桑名への航路も変化していったようです。
注:図中の「藤前干潟」は、名古屋港の臨海工業開発の中で残された、日本最大級の渡り鳥渡来地。渡り鳥たちの休息と栄養補給の、大切な中継地になっています。藤前干潟にはゴミ埋立計画がありましたが、市民の長年の保全活動によって断念され、そこから名古屋市の画期的なゴミ減量が進みました。
「今昔マップ」に見る変遷。船着場(埠頭)の位置は変わっていません(○)。
七里の渡し舟着場跡
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていました。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標となっていましたが戦災で焼失し、その後昭和58年に復元されて往時の名残りをとどめています。
安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができます。
名古屋市