おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「明治用水」。松並木。「かきつばた」。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その2。)

2015-07-07 18:45:59 | 旧東海道

少し進むと、「宇頭(うとう)茶屋」というバス停。

 そこから10分ほどで、右手に「永安寺の雲竜の松」。

    

県指定天然記念物 永安寺の雲竜の松

 永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。
 助太夫は1677年(延宝5)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。
 この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は300年くらいと推定されます。 この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。
  樹 高  4.5メートル
  幹の囲  3.7メートル
  枝張り  東西 17メートル 南北 24メートル

              安城市教育委員会

 そこからしばらく進むと、「県道76号線」との交差点には、「明治用水」にちなんだ大きな石碑があります。

    

「明治用水」
 愛知県豊田市にて矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給しています。本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km、支線は342kmある。灌漑面積は約7000ヘクタール。


明治用水の歴史

荒寥たる草野

 明治用水開発以前の安城市付近は広大な大地が広がる、「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれるやせ地でした。わずかに流れる小河川沿いに小規模な水田が開発されていましたが、水に恵まれない地での農業は苦しいものでした。そのため、早くからため池が開発されましたが、台地上の耕地の半分以上がこれらのため池に依存していました。水が足りず、農民同士で争いが起こることもしばしばでした。

都築弥厚らの活躍

 この草野に用水開削が計画されたのは江戸時代末期のことでした。和泉村(現在の安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つづきやこう)は、矢作川上流の越戸村(現在の豊田市)から水を引き、30キロメートルにも及ぶ水路による用水の開削を計画しました。高棚村(現在の安城市高棚町)の数学者、石川喜平の協力を得て測量を始めましたが、水害や入会地の減少を心配する農民たちに妨害され、作業がなかなか進みませんでした。やがて、5年もの歳月をかけ測量図が完成し、幕府から一部の開発許可が下りたものの、長年の激務がたたったのか、弥厚は病没してしました。

悲願の開削工事

 弥厚の死後、明治時代に石井新田(現在の安城市石井町)の岡本兵松によって弥厚の計画は蘇りましたが、明治維新の影響もあり、出願された用水計画は一向に日の目を見ませんでした。明治5年に愛知県が成立し、同時期に矢作川右岸低地の排水と台地のかんがい計画を出願していた伊豫田与八郎(いよだよはちろう)の計画と一本化することでようやく許可を得ることができました。そして明治13年、ついに「明治用水」が完成しました。

日本デンマーク

 明治用水完成後の農業の発展は目ざましいもので、約2000ヘクタールだった水田面積が明治40年には8000ヘクタールを超す一大穀倉地帯へと画期的な転身を遂げました。台地という立地条件のため、秋になり水門が閉じられると水田は干し上がり畑になります。これを利用して冬期には麦や野菜、菜種、れんげなどが栽培され、耕地の高度利用が図られました。安城農林学校長だった山崎延吉の助けもあり、生産物は米作、養鶏、養蚕や果樹と多方面に渡り、多角形農業と呼ばれ普及していきました。こうしてこの地は「日本デンマーク」と呼ばれる、優良農業地帯になりました。

HPより)

 現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などになっています。

    

昭和47年(1972)のようす。

 写真左側が明治川神社と鳥居で、奥の橋が東海道(旧国道1号線)。神社と明治本流との間には、県道豊田安城線があります。

HPより)

 交差点にある「明治川神社」には都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られています。

 交差点を越えると、松並木が断続的に続きます。道なりに西へ向かいます。
    

 今にも雨が降り出しそうな空模様ですが、蒸し暑くなく、炎天下を歩くよりはかえって楽です。

    「東海道の松並木を守ろう」という標柱。

    
            安城市の「松並木」保存への取り組みを感じます。



市指定天然記念物 東海道のマツ並木

 1601年(慶長6)家康は、東海道に宿駅を定め、つづいて1604年(慶長9)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。さらに、1612年(慶長17)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った幕府は、その保護補植に力をそそぎ、沿道・近郷の農民たちの、往還掃除丁場という出役によって、その清掃整備が維持されてきた。明治以後も重要幹線国道として維持管理がつづけられ、四世紀にわたる日本の歴史の大きな役割の一部を、担ってきた。近年、風害や公害等のために、その数を減じているが、この松並木のうち大きいもので、樹齢200年から250年ぐらいと推定される。

  安城市教育委員会



右手に「常夜燈」。

向こうに見えるのは、「御鍬神社」の杜。

「猿渡川」を越えて、知立市へ。

 橋を渡ると、左は「来迎寺公園」。そこには案内図があります。
 「東海道見て歩きマップ」。

            
       「なりひらくん」。             「かきつ姫ちゃん」。  

 東京・墨田には「在原業平」にまつわる伝承や地名などが残されています。「言問橋(ことといばし)」「業平橋(なりひらばし)」・・・、東武鉄道の「業平橋」駅は「東京スカイツリー」駅になってしまいましたが。ここで、業平さんにお会いするとは不思議なご縁です。ここは、「かきつばた」関連でいきましょう。

東京の「おしなり」くん。(「おしなり商店街振興組合 oshinari.jp」HPより) 

 すぐ先の交差点には、「元禄の道標」が建っています。
    

元禄の道標

 道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸処にこの様な道標が建てられていた。
 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 
 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白
と記されており、これは、元禄9年(1696)に、在り原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ五百メートルの牛田町西端にも、「東海道名所図会」に記されている元禄12年の道標が残されている。

  知立市教育委員会   

横断歩道を渡った西側にもあります。

分岐点を望む。左右に通じる通りが東海道。

 片道10分くらいの道のりです。ぜひとも「かきつばた」の地に行こうと、ここで右折して「八橋・無量寿寺」へ向かいます。時刻は、ちょうど12時。
 ほとんど人通りのない、新しい住宅が建ち並ぶ道を北へ。すでに時季外れではあります。

「八橋𦾔跡」。 


 案の定、誰もいない境内。庭園の方に回ったところ、このような有様。ガッカリ!
    


   

                     

史跡八橋かきつばたまつり
 八橋のかきつばたは、平安の歌人“在原業平”が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地です。
 庭園の面積約13,000平方メートル、16の池(5,000平方メートル)に約3万本の「かきつばた」が植えられています。
 かきつばたまつりは、歴史も古く約60年前から行われており、期間は4月27日から5月26日までで、全国から約12万人程の観光客が訪れます。
 愛知県の花、また知立市の花が「かきつばた」でもおわかりのように、知立市において、このお祭りが最も大きなイベントになっています。
 まつり期間中には、「史跡八橋かきつばたを写す会」をはじめ「茶会」「俳句会」「短歌大会」などさまざまなイベントが催されます。
 期間中は、いつでもかきつばたを観賞することができますが、特に一番花が咲きそろう5月の10日前後が1番の見頃です。

(以上、写真も含めて「」HPより)  

 一ヶ月以上遅いのですから仕方がありません。よく見ると、一本咲いています。「名残のかきつばた」。
                       

庭園の奥にモニュメント。

    
   
 八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び
 から衣きつつなれにしつましあれば
 はるばるきぬるたびをしぞおもう
と、詠まれました。
 この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれまています。また、伊勢物語の九段東下りにも採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました。

う~ん。以下は、原文。

 三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
といひければよめる。

から衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。 


 このような作句(歌)上の技巧を「折句」といいます。

 『古今集』には「をみなへし(女郎花)」を折句にした、

小倉山峰立ちならし鳴く鹿の
 経にけむ秋を知る人ぞなき 紀貫之

ぐらやま ねたちならし くしかの にけむあきを るひとぞなき

小倉山の峰を歩いて鳴く鹿が過ごしてきたであろう秋を分かる人もいない。

という歌もあります。

 なお、
  HPには、古代から近世までの例を挙げて詳細に説明してあり、とても興味深い話が載せられています。

                        「業平像」。
       
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