このあたりで少し雲行きがあやしくなって、雨がポツポツ降ってきます。先を急ぐことに。逢妻川の土手に突き当たったら左へ折れ、「逢妻橋」を渡ります。
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一里塚
慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として東海道をはじめとする主要街道に、1里ごとに土を盛ってエノキや松を植えて一里塚を築かせた。この地は松であったといわれる。
国道1号線の開通によって当時のおもかげはないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両脇に塚と記載されている。
ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚(国指定史跡、豊明市)がある。
平成14年3月 刈谷市教育委員会
この「一ツ木一里塚」は日本橋から85里目の一里塚。
しだいに風も強く、雨がけっこう激しくなり、折りたたみ傘の柄が一瞬のうちに折れ曲がってしまうほど。「一里山歩道橋」を上がり、反対側(右側)に移ります。
「夢」と刻まれた石碑の先で「国道1号線」から右の道に入ります。
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これまでも旧東海道沿いにあったように、倉庫が並ぶ道をしばらく進み、再び「国道1号線」に合流し、「歩道橋」を渡り、反対側へ。
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「歩道橋」から来た道を望む(正面奥)。 これから進む道を望む。
雨・風も思ったほどでなく、止みそうな気配。助かります。しばらく進むと、左手に「常夜燈」。
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洞隣寺
・・・寺の入口にある常夜灯は、寛政8年(1796)の年号が刻まれている。
墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の「墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある。
洞隣寺の墓の伝承(「Wikipedia」参照)
・・・洞隣寺には「めったいくやしいの墓」と「中津藩士の墓」があり、墓にまつわる伝承が残されている。
かつて洞隣寺に気立てのよい娘がおり、高津波村(現刈谷市中部)の医王寺で住職に恋をしたが、娘の恋はかなわずに憤死してしまった。亡骸は洞隣寺に葬られたが、この墓の上に青い火玉が浮かんだり「めったいくやしい」という声が聞こえたりしたという。
また寛保2年(1742年)、中津藩家臣の牟礼清五郎と渡辺友五郎が今岡村を通りがかった際、遊女の話で口論となり、斬りあった末にふたりとも亡くなった。ふたりの亡骸は洞隣寺に葬られたが、二基の墓は互いから離れるように傾き、何度直しても傾いてしまった。村人が改めて手厚く葬ってからは傾かなくなったとされる。一般には上記のように語られるが、岡山大学付属図書館が所蔵している『日録』にはやや異なる記述がある。これによると、渡辺友五郎が病気で牟礼清五郎をうち果たし、自身も命を絶ったという。同伴した喜多村弥三右衛門ら4人は洞隣寺で後始末をし、友五郎の位牌には「帰真剣山智光信士霊位」という戒名が書かれている。
今度は右手に「いもかわうどん」の説明板。
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いもかわうどん
江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。
平成14年3月 刈谷市教育委員会
きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部だったとする説、芋川=今岡村とする説、芋川=今川村とする説など諸説ある。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や井原西鶴の『好色一代男』には平打ちうどん(いもかわうどん)が登場し、膝栗毛には「今岡村のたてばにいたる。此ところはいもかはと云めんるいの名物、いたって風味よしときゝて、名物のしるしなりけり往来の、客をもつなくいもかわの蕎麦」という記述がある。(「Wikipedia」より)
「いもかわうどん」は、「芋川うどん」ということで、「芋川」というのは地名だったとは!
子供頃、幅があって平べったいうどんを「ひもかわうどん」と言っていました。普通の細く丸いうどんは「うどん」で、区別していました。「きしめん」という言い方はなかった。
だから、10年前くらいまで(名古屋と行き来するまで)は、「ひもかわ」と「きしめん」とは別の種類のうどんだと思っていました。
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左手奥には名鉄「富士松」駅。
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その先の県道を「歩道橋」で越えます。
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「今川町」交差点で「国道1号線」を横断します。左の道に入り、道なりに右に曲がり、とちょっとややこしく迂回し、右に細い流れがある「地下道」で国道をくぐりぬけ、向こう側に出ます。
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渡った先は少し広い道になります。右手に大きな「敷島製パン刈谷工場」、左手は「健康センター」。
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「境橋」。
境橋
慶長6年(1601)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち合いで橋が架けられた。
この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。
やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。
この橋が国境で、いよいよ三河国から尾張国へ入ります。
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上流。 下流。
渡ったところの橋のたもとにあるモニュメント。
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うち渡す尾張の国の境橋
これやにかわの継目なるらん 光廣
狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋、三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。読み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸殿と称せられた。
豊明市観光協会
そのまま進み、「伊勢湾岸自動車道」のガードをくぐり「国道1号線」に合流します。
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ここで午後4時。初日はここまでにして、「豊明」駅に向かいました。そこから「知立」経由で刈谷駅へ。今夜の宿・「名鉄イン刈谷」は改札口直結でした。