(14:10)「桶川宿」を出て次の「鴻巣宿」へ向かいます。

交通量も多く、広いまっすぐな道をひたすら歩きます。

途中見かけたお店。昔ながらの建物を利用したものか?

(14:20)

「さいたま市」がかなりの広域なのに比べ、「上尾」「桶川」「北本」と、こじんまりとした市が続きます。
広く整備された直線道路。振り返って望む。

「東海道」なら「畷(縄手)」でしょうか。かつては杉並木だった?
最近、開通した「圏央道」を通過します。まだ工事中の箇所も。


沿道にユニークなお店。南国風の建物。

こちらは大きなお屋敷。

ちらほら果樹園も。

こちらは豪壮な建物で「売り家」の表示。

(14:50)「本宿」交差点の先に「北本の歴史」の解説板。



「中山道と本宿」
今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立場がおかれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました。
この古木もいずれ伐採される運命か?

(15:00) JR「北本」駅前のベンチで小休止。「馬室原(まむろはら)一里塚」は、線路をはさんだ西側にあります。そこに向かいます。

踏切を渡り、右に曲がって線路沿いに進むと、左手に案内表示。

(15:18)畑の中にある小高い塚。


徳川幕府は参勤交代を契機として、街道の整備、宿駅の制、伝馬の制を定めた。一里塚は、街道整備のひとつで、主な街道に設けられた距離の目印である。
江戸の日本橋を起点として、1里(約4キロメートル)ごとに道の両側に5間(約10㍍)四方の塚を築き、その頂上に榎や松などが植えられた。中山道の一里塚は、慶長17年(1612)に築かれた。
この一里塚は、当時の中山道を挟み両側に築かれた一対のうち西側のもので、旧中山道の道筋が分かる貴重な資料である。なお、東側の塚は明治16年(1883)の高崎線敷設の際に取り壊された。
明治維新以降交通手段の変化と発達に伴い、一里塚のほとんどが取り壊されて現存する例は少ない。
平成24年2月 埼玉県教育委員会 鴻巣市教育委員会


「埼玉縣北足立郡馬室村大字原馬室」
塚の上からJR線を望む。

帰り道、北側を望む。

この一里塚があったころの「中山道」は、この道よりももう少し西側(左側)にあったようです。しかし、その道は廃道になったのか、現在は不明となっていて、今、「旧中山道」として歩く道は線路の東側になっています。

駅前広場に通じる、正面の道がかつての「中山道」?
(15:40)今回はここまで。北本駅まで戻り、帰宅。ふと、駅そば屋さんを見ると、「中山道」。そこでお蕎麦を食べました。
