おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

馬室原一里塚から熊谷宿まで。その4。(旧中山道をゆく。第4日目。)

2016-01-15 22:43:08 | 旧中山道
 久下(くげ)の荒川土手下に「権八地蔵」があります。
鴻巣市指定民俗資料 権八地蔵とその物語

 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が冒した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はそのご捕らえられ、延宝8年(1680)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられた。

 平成24年2月  鴻巣市教育委員会

 「Wikipedia」によって、少し補足します。

 権八は新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ってしまいます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあった普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れますが、すでに父母が死去していたことから、自首。1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25。
 小紫は権八の刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害。同寺に「(権八と小紫との)比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存しています。

 歌舞伎の世界では、「白井権八」として登場。幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られますが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがあるようです。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存じ鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名です。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソード。
 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等があります。
 吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」があります。(注:この地蔵が久下の「物言い地蔵」のこと)

                           (「Wikipedia」より)

(14:35)中山道はこの地蔵堂の先で荒川土手にさしかかり、「久下の長土手」を経て、熊谷宿に至ります。その間は景色の良さと共に追い剥ぎの名所だったとも伝えられます。上の解説板にあるような、平井権八の強盗殺人事件もこの土手で起きた、ということです。

    
                                     振り返って望む。「元荒川」の流れ。

 荒川堤防には、人と自転車のみ通行できる土手上の、サイクリングロード・遊歩道と、土手の中腹を進む、車も通れる道路とがあります。旧中山道はそちらの車道のようです。
 その道は車の行き来がけっこうあり、前を見たり、後ろを振り返り、振り返り歩くことになるので、景色もよく、安心して歩ける土手上の歩道を歩きました。

 ところが、そのまま進み、「久下橋」を横切り、その先まで土手上を行ってしまうと、旧道沿いの集落を通らずに「熊谷駅」方向に行くことになってしまうので、要注意! 

 「ライオンズマンション行田壱番館」手前からは、一本下の道(車道)を行くことになります。

    
       土手下のおうち。                          荒川河川敷。

「荒川左岸70.8k」。河口(海)までの距離です。
 以前、自転車で荒川(放水路)の土手の道を下り、河口まで行ったことがありました(約10キロ)。
「荒川」河口。「0km」の表示。

 ここは、そこから70㎞上流ということになります。

右手奥が二棟並ぶ「ライオンズマンション行田」。

 本来の「旧中山道」はその手前で、堤防上の道から離れて、右へ下り、中腹の道を進みます(車道)。

 ところが、注意も払わず、車止めが設置された「歩行者専用道路」の方へ進んでしまいました。こうなると、旧中山道とは離れていくばかり(短い区間、重複するところもありますが)。

 土手の上の、車が通らない「快適」な道。自転車で快走する若者、ジョギングを楽しむ人、犬を連れての散歩、ご夫婦でお散歩、と行き交う人々。時折、互いに声を交わしながら進み、「久下橋」の上を横断し、長い桜並木を進んで行きます。
 ここまで来ると、もう「中山道」とは関係のない1時間以上の散策。桜並木の途中で土手を下り、広い道に出てしばらく歩き、右折すると、「熊谷駅」南口のロータリーに突き当たりました。・・・

 

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 「久下の長土手」にあたる区間。土手下の流れは「元荒川」。中山道はもっと「元荒川」沿いのようです。ただし、「元荒川」も「荒川」堤防大改修に伴い、流路変更された可能性、大。

(14:50)その手前の堤防上に、「決潰の跡」碑。

 洪水の恐ろしさを物語る碑。1958(昭和33)年に建立。
 1947(昭和22)年9月のカスリーン台風による洪水のため、この地点で堤防が決壊しました。石碑の碑文には2箇所が決壊し、延長は約100mに及んだとあります。決壊による濁流はすぐ東側を流れる元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れ、大きな被害を出しました。この時の洪水では下流の田間宮村(現.鴻巣市大間)でも、大間堤(荒川の左岸堤防)が決壊。利根川の右岸堤防も大利根町(新川堤)で決壊した(現在、跡地はカスリーン公園)。さらにもっと下流地域の中川(古利根川)などでも決壊し、「荒川」以東の下町地域も床上浸水などの大きな被害が出ました。

堤防下。向こうには「元荒川」。

(15:20)そのまま進むと「久下橋」下流を望む。

「荒川」の流れそのものは、はるか遠くに。


(15:30)「久下の渡し・冠水橋跡」碑。
                              ここは、「旧中山道」と重なるところか?

対岸を望む。

集落の中を通る道が「中山道」だった! 

 しかし、そのまま堤防上を進んでいくと、上空からエンジン音が響いてきます。見上げると「モーターパラグライダー」でしょうか、悠然と舞っています。



(15:40)さすがにここまで歩いてくると、たどっている道のおかしさに気づきます。手にした「案内図」では左手に見えるはずの「東竹院」の杜が土手の右下前方に。あれ!



 「道を間違えたようだ。」と。が、ここでも土手下に下るのを躊躇して、そのまま進みます。そのうち、桜並木が続くようになります。さぞかし春には華やかな・・・。 

(15:50)「海まで75㎞ 水源まで94㎞」。

はるか西には山々の姿がうっすらと。時刻は、そろそろ午後4時。

(16:15)結局、その先を下って「万平公園」脇を通り、「熊谷駅南口」まで向かいました。

熊谷駅南口にある解説板。
                     ○のところで土手を下り、駅方向に行くのが「旧中山道」(→)。

「久下橋」からの富士山。
                               せめてこれくらいは見たいものでしたが。

 ということで、結局、後半の約1時間は「中山道」歩きではないまま、終了。これではどうしようもないので、しかたなく後日行くハメに。今度は下調べも十分にしてから、ということで。次回は迷うことなく歩きます。
コメント
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