「深谷宿」を出て、次の「本庄宿」へ向かいます。「深谷」には渋沢栄一さんに因んだ名所コースがあるようですが、街道筋にはなさそうなのでスルーします。
古い教場のような建物。

しばらく道なりに進むと、「国道17号線」と交差します(「宿根」交差点)。その先には「龍宮神社」。
(14:28)

中山道はすぐG・Sのところで「国道17号線」に合流し、そのまま国道沿いに進みます。

「国道17号線」東京方向を望む。

この道が17号線? ちょっとに心配なる程の変哲のない道路。
沿道には漬け物屋さんがちらほら。

大きな屋敷も。

(14:45)

(14:52)「普済寺」入口。石碑群。


右手が大きく開けてきます。

左手には「火の見櫓」。町内放送用の拡声器が。


右手には「水越医院」の昔の建物。

右手の奥には赤城をはじめ上州の山々が見えるように。

目線を少し北にずらすと、白銀に輝く山々が見えます。近くで人参の収穫にいそしむ農家の人に聞くと「谷川の方ではないか」と。西日を浴びて光る山並み。ちょっと感動!

(15:06)

分岐点には赤塗りの「バス・ラーメン」屋さん。

(15:12)その先の右手に大きな「耕地整理紀念碑」。

そしてまたしても「火の見櫓」。



「伊萬里」という珈琲とスパゲッティのお店。しゃれた造りです。
(15:26)そのまま進むと、道が二手に分かれますが、道しるべに従って、正面の道を進みます。


解説碑と馬頭観音。
中山道古道について
現在岡上地内を通る旧中山道は、田嶋一朗氏東のなだらかな切り通しをくだり、17号バイパスを横断、瀧岡橋へと至る。
江戸時代の中山道にこの切り通しはなく、丸矢商店の前を直進し田島和弘氏東で右折、八坂神社・百庚申脇の急峻な坂をくだる道筋がとられた。
切り通しの開鑿は明治期になってからであり、今のように拡幅されたのは、瀧岡橋の竣工がなった昭和3年のことであるという。
江戸期の中山道は、この坂道をくだると、幾度か右折左折を繰りかえし、現在の瀧岡橋より200メートル程上流で、小山川を渡河した模様である。
近年の歴史探索ブームの中、大勢の来訪者を迎えるにあたり、岡部郷土文化会では、大名行列が行き交い、皇女和宮の降嫁行列も通過した往時の中山道の正確な道筋をここに識し、ご案内の一助といたします。
平成23年11月吉日 岡部郷土文化会





1880年代のようす。○が「百庚申」のある「豊見坂」。「小山川」の流れ(河床)はかなり変遷しているようで、そのため道も複雑になっていたようです。

(15:30)急な坂道「豊見坂」を下ると、左手にたくさんの石塔。「百庚申」。



百庚申
百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
百庚申が建立されたのは、幕末、万延元年の庚申の年(1860)で、岡の有志13人によって計画され、翌年の万延2年にかけて完成を見た。
このことは、庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがいしることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は「田島新新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、木暮弥一右衛門、木暮半次郎、小林常七、小林□兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野屋宗助。」という人々であったことがわかる。
もともと、この場所には、享保元(1716)年に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の大老井伊直弼が江戸城の桜田門外において水戸浪士達により、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢が破られた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と万延元年(庚申の年)が重なり百庚申が造立されたといえよう。
平成3年3月 埼玉県 岡部町
注:「二十二夜塔」=「月待塔」の一つ。
月待塔(つきまちとう)は、日本の民間信仰。特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待信仰塔ともいう。
月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。
文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。板碑としては埼玉県富士見市の嘉吉3年(1441年)のものを初見とする。
特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月さま」の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられる。
(以上「Wikipedia」参照)
