しばらく新興住宅地。所々に稲刈りを終えた田圃が続きます。
「一里塚」のような雰囲気。丘の上に祠があります。
道筋に所々、貼ってある「中山道」という表示が案内してくれます。

ここは中山道前砂村。英泉の「鴻巣・吹上富士」はこのあたりで描かれた。
『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景である。旅路の目印となる榎が疎らに植えられた昿原(こうげん)の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪を頂く富士の山が雄大な姿を現している。
今は「老人ホーム」が視界を遮っています。
この建物からは富士山が遠望できるのでしょうか。
右手の田圃の向こうに高崎線の電車が。
(13:15)しばらく進んだ左手には「前砂一里塚」。

解説板も跡碑もほとんど判読不可能な状態です。日本橋から14里目。
右手のお宅の中に解説板があります。ちょっと入らせてもらいました。
鴻巣市指定文化財
・高札(12枚)
文化年間(1810年頃)幕府によって作成された「中山道分間延絵図」によれば、前砂村の高札場は村の中程、旧中山道の北側にあったことが分かる。
高札は幕府のお触れを庶民に知らせる重要な手段の一つであるが、江原家(旧名主)に保管されている12枚は切支丹札、人売買札、浪人札等当時の動きを知る上で貴重な資料といえる。
・忍領界石標
天正18年(1590)徳川家康が江戸に入ってその領地となった関東は、幕府直轄地や旗本領社寺地など入りくんで諸所境界争いが絶えなかった。そのため各領主は、自分の領域を示す杭を建てた。御分木ともいったが忍藩では安永9年(1780)6月領主阿部正敏の時、「従脊西忍藩」の石標を旧中山道で隣接する中井村との境南側に建てた。
本石標は高さ2メートル、幅30センチメートル、厚み21センチメートルの堂々たるものである。
解説板の裏手にある「領界石標」。東海道ではよく見かけたましたが。
分岐点にもお手製の案内表示。
案内碑通りに右斜め道を進みます。
かつては浮世絵のごとく見わたす限り広大な関東平野。
「東海道」で三重から京都にかけて見かけた「飛び出し」坊やとは違いますが。
住宅街を進み、「高崎線の」踏切を越えると、「吹上」。踏切の手前に道しるべ。

中山道間の宿吹上
・熊谷宿へ2里6町(約8.6粁)・京三条大橋へ120里10町(472.7粁)
・鴻巣宿へ2里3町(8.2粁) ・江戸日本橋へ15里32町(62.4粁)
鴻巣宿は池川宿から1里30町に対して、熊谷宿へは4里6町余と長く、荒川堤防上の「久下の長土手」の手前、「吹上」が「間の宿」として茶屋や休憩所が出来ました。吹上には茶屋本陣、宿屋、料理茶屋などがあったそうです。また、「八王子千人同心街道」が通っていました。
注:「八王子千人同心街道(せんにんどうしんかいどう)」
江戸時代に八王子千人同心が日光勤番のために整備した八王子から日光へ至る、40里(約160km)の脇往還に属する街道である。沿道 では日光道などと呼ばれていたが、日光街道と区別するために千人同心街道、日光火の番街道、八王子街道、館林道、日光脇街道など とも呼ばれた。現在でも、埼玉県日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残っている。
線路脇を斜めに進み、広い道に合流します。
街道筋らしいおうちもチラホラ。
「吹上本町」の交差点を左折します。
今でこそ駅前からの道は広く、北に通じていますが、かつてはここで荒川土手に向かって左折する道しかありませんでした。
鴻巣宿から熊谷宿までは4里6町余(約16粁)と特に長かったため、立場(茶屋や休憩所・宿屋)ができ、「間の宿(あいのしゅく)」として賑わいました。八王子千人同心街道とも交わる街道の名所です。

1880年代のようす。←が「八王子千人同心街道。この道はわずかに「中山道」を通り、北側に抜けていきました。
左に折れてすぐにある「東曜寺」付近が間の宿「吹上」の中心部。門前は中山道と八王子同心街道とが重複していたこともあって、立場・料理茶屋などが軒を連ねていました。
(14:10)しばらく進むと高崎線と交差する所に出ます。そこに解説板と「中山道」碑があります。

吹上「間の宿」
中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「あいの宿」として発展した町ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。
しかし、それにもかゝわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や、馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
年に30家もの大名が江戸や国許へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄、狂歌師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ得意な作品を残しています。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品に数えられていました。
この場所は、かつての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。

「渡線橋」から高崎線を見下ろす。あいにく列車は撮れなかった。中山道は左奥に進みます。
振り返って望む。
しばらく道なりに進むと「中山道 榎戸村」の石碑。

ここは榎戸村の上方。村は中山道に面して東西5丁、南北6丁の小村だが、江戸以来、吹上、大芦村から糠田村に至る八ヶ村への田用水を供給する元荒川の「榎戸堰」があり、風光明媚な所として知られた。
(14:25)右に行くと「榎戸堰公園」。トイレもあり、小休止。

「元荒川」の流れ。

道筋に所々、貼ってある「中山道」という表示が案内してくれます。



ここは中山道前砂村。英泉の「鴻巣・吹上富士」はこのあたりで描かれた。

『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景である。旅路の目印となる榎が疎らに植えられた昿原(こうげん)の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪を頂く富士の山が雄大な姿を現している。
今は「老人ホーム」が視界を遮っています。

この建物からは富士山が遠望できるのでしょうか。
右手の田圃の向こうに高崎線の電車が。

(13:15)しばらく進んだ左手には「前砂一里塚」。



解説板も跡碑もほとんど判読不可能な状態です。日本橋から14里目。
右手のお宅の中に解説板があります。ちょっと入らせてもらいました。

・高札(12枚)
文化年間(1810年頃)幕府によって作成された「中山道分間延絵図」によれば、前砂村の高札場は村の中程、旧中山道の北側にあったことが分かる。
高札は幕府のお触れを庶民に知らせる重要な手段の一つであるが、江原家(旧名主)に保管されている12枚は切支丹札、人売買札、浪人札等当時の動きを知る上で貴重な資料といえる。
・忍領界石標
天正18年(1590)徳川家康が江戸に入ってその領地となった関東は、幕府直轄地や旗本領社寺地など入りくんで諸所境界争いが絶えなかった。そのため各領主は、自分の領域を示す杭を建てた。御分木ともいったが忍藩では安永9年(1780)6月領主阿部正敏の時、「従脊西忍藩」の石標を旧中山道で隣接する中井村との境南側に建てた。
本石標は高さ2メートル、幅30センチメートル、厚み21センチメートルの堂々たるものである。

分岐点にもお手製の案内表示。

案内碑通りに右斜め道を進みます。

かつては浮世絵のごとく見わたす限り広大な関東平野。

「東海道」で三重から京都にかけて見かけた「飛び出し」坊やとは違いますが。

住宅街を進み、「高崎線の」踏切を越えると、「吹上」。踏切の手前に道しるべ。


中山道間の宿吹上
・熊谷宿へ2里6町(約8.6粁)・京三条大橋へ120里10町(472.7粁)
・鴻巣宿へ2里3町(8.2粁) ・江戸日本橋へ15里32町(62.4粁)
鴻巣宿は池川宿から1里30町に対して、熊谷宿へは4里6町余と長く、荒川堤防上の「久下の長土手」の手前、「吹上」が「間の宿」として茶屋や休憩所が出来ました。吹上には茶屋本陣、宿屋、料理茶屋などがあったそうです。また、「八王子千人同心街道」が通っていました。
注:「八王子千人同心街道(せんにんどうしんかいどう)」
江戸時代に八王子千人同心が日光勤番のために整備した八王子から日光へ至る、40里(約160km)の脇往還に属する街道である。沿道 では日光道などと呼ばれていたが、日光街道と区別するために千人同心街道、日光火の番街道、八王子街道、館林道、日光脇街道など とも呼ばれた。現在でも、埼玉県日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残っている。
線路脇を斜めに進み、広い道に合流します。



今でこそ駅前からの道は広く、北に通じていますが、かつてはここで荒川土手に向かって左折する道しかありませんでした。
鴻巣宿から熊谷宿までは4里6町余(約16粁)と特に長かったため、立場(茶屋や休憩所・宿屋)ができ、「間の宿(あいのしゅく)」として賑わいました。八王子千人同心街道とも交わる街道の名所です。


1880年代のようす。←が「八王子千人同心街道。この道はわずかに「中山道」を通り、北側に抜けていきました。
左に折れてすぐにある「東曜寺」付近が間の宿「吹上」の中心部。門前は中山道と八王子同心街道とが重複していたこともあって、立場・料理茶屋などが軒を連ねていました。
(14:10)しばらく進むと高崎線と交差する所に出ます。そこに解説板と「中山道」碑があります。


吹上「間の宿」
中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「あいの宿」として発展した町ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。
しかし、それにもかゝわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や、馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
年に30家もの大名が江戸や国許へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄、狂歌師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ得意な作品を残しています。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品に数えられていました。
この場所は、かつての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。

「渡線橋」から高崎線を見下ろす。あいにく列車は撮れなかった。中山道は左奥に進みます。

しばらく道なりに進むと「中山道 榎戸村」の石碑。


ここは榎戸村の上方。村は中山道に面して東西5丁、南北6丁の小村だが、江戸以来、吹上、大芦村から糠田村に至る八ヶ村への田用水を供給する元荒川の「榎戸堰」があり、風光明媚な所として知られた。
(14:25)右に行くと「榎戸堰公園」。トイレもあり、小休止。


「元荒川」の流れ。