(12:55)荒川の堤防に上がると、すぐ右手に「久下の渡し 久下冠水橋跡」碑があります。

ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。
春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。
車一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました
幅2.7㍍長さ282.4㍍3㌧。中央部99.4㍍の区間は幅4.5㍍の待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
昭和30年県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され、48年間、地元の志画かつ道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。
《周辺の歴史》
この地は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の良一で、やや下流には館もあったおいわれる。
江戸の頃、幕府の施策でこの一帯は荒川の付け替え大工事が行われ現在の荒川になった。
以後、明治の鉄道開設まで江戸との舟運の起点、久下新川河岸として「栄え、帆を張った草船や中山道の旅人で賑わった。
舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年頃県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
もう少し詳しく「Wikipedia」を参照して。
開通は1955年(昭和30年)7月19日。開通当時は市町村道の橋梁だったが、地元住民の埼玉県への陳情により1966年(昭和41年)4月に県道(埼玉県道257号冑山熊谷線)に昇格されている。
橋脚が鋼製(一部コンクリート製)、橋桁が木製の冠水橋であった。欄干は初めは付けられていなかったが住民の要望に応じ、1968年(昭和43年)6月頃に鉄パイプを立ててワイヤーを張った簡素な欄干が設置された。この欄干は洪水の際に着脱が可能なものである。元々は中洲を挟み熊谷側と大里側にそれぞれ橋が架けられていたが、洪水などで中洲が消失した他、橋の破損の補修を繰り返しているうちに1本の橋に繋がったものである。橋の中央部の幅員がやや広くなっているのはその名残である。
1970年代から永久橋に架け替える計画が存在しており、1977年(昭和52年)10月11日に久下・佐谷田地区内関係者を対象に地元公民館で説明会が行われたが、生活に密着した身近な橋であったことや騒音問題を危惧したことなどから、地元住民によって「久下橋かけかえ反対期成同盟会」が結成され、住民と行政にて長期に亘る協議・交渉が行われた。
珍しい構造の橋であることから文化的意味合いもあって、地元では撤去を惜しむ声が強く「久下橋を残す会」が結成され署名運動が行われ約四千名の署名が集まったことで保存も検討されたが、老朽化が著しく、河川の管理上や財政上の問題もあり、各種方面との協議の結果、最終的に撤去する結論に至った。
埼玉県道最後の冠水橋であった旧橋は、現行橋の開通に伴い、2003年(平成15年)6月15日午後5時をもって通行止となり50年近い歴史に幕を閉じ、同年度中に撤去された。
2004年(平成16年)9月4日に左岸側の旧橋跡付近に記念碑・説明板と旧橋主桁部の廃材で作製されたベンチが有志による募金にて設置された。

冠水時のようす。
(
HPより)

来た道を振り返って望む。 対岸を望む。
その先を下って行きます。正面のおうちのところに解説板が立っています。
みかりや跡
中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらきごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り、「柚餅子」が名物だったのだろう。また、忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので、「御狩屋」と呼ばれたという。
昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 戸森昭三(みかりや)
忍藩主が狩りの時に休んだのが、店名の由来。明治・大正期は、カイコの幼虫の蚕種製造をしていました。御狩屋の店主の戸森家には、茶店の名物だった柚餅子(ゆべし)の作り方が伝っているそうです。
(この項
HPより)
また、「英泉の描いた八丁堤の景」という解説板。

右に見えるのは、権八地蔵と道標?
立派な門構えと広い敷地のおうち。
土手方向を望む。
先ほどの車道に合流し、進みます。
(13:05)左手に「東竹院」。

荒川寄りには養魚場・釣り堀(埼玉中央漁協)。
鱒の養魚場で、釣りも出来る、らしい。
しばらくそのまま進みます。「元荒川通り」とぶつかる手前に、世界で熊谷市のみに生息する「ムサシトミヨ」が棲む川に出会います。


ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。
許可を得ないで、動物・植物を採捕することは禁じられています。
川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。
平成8年3月 熊谷市・熊谷市教育委員会 環境庁 埼玉中央漁業協同組合 熊谷市ムサシトヨミを守る会・・
流れを見ていると、食卓に上る食材が。

元荒川の水草 オランダガラシ(クレソン)
生食野菜として明治初期に輸入。クレソンの名で食用に栽培されていたものが野生化した帰化植物。
全国の河川や湧水のある水路に群生する。通常水面上に繁茂するが、湧水中では沈水状態でも生育する。
茎が太く流れに安定で、特にヒゲ根はムサシトミヨの巣の素材として好まれる。
ヨーロッパ原産。
ムサシトミヨ保全推進協議会

ムサシトミヨはトゲウオ目トゲウオ科トミヨ属に属する体長3cm~5cm位の淡水にすむ1年魚です。オスが水草などで球形の巣を作り、子育てをする珍しい魚です。
湧き水が出ていた昭和30年代頃までは、東京と埼玉の限られた湧水に生息していました。埼玉県内では、熊谷市のほかに上里町・本庄市・川越市などでも見られました。
しかし、開発による川の汚染や湧き水の枯渇などにより、現在では熊谷市の元荒川上流域が世界で唯一の生息地となってしまいました。この周辺は豊かな地下水を利用した養鱒場があり、汲みあげられた地下水が放流されてきたため生き残ったのです。
2011年2月調査の推計生息数は22,655尾。ムサシトミヨは、環境省や埼玉県のレッドリストで「絶滅危惧IA類」※に分類され、絶滅の危機に瀕する希少な魚です。
※ごく近い初来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
(
HPより)
旧中山道はその先で右に折れ、「元荒川通り」を突っ切って進み、その先を左に折れ、先ほどの道に合流します。

「熊谷」と「久下」の境だった「熊久橋」跡。
「過ぎし世の熊久橋(ゆうきゅうばし)や左富士」
この「左富士」というのは「東海道」には二ヶ所ありましたが、「中山道」で?
この表現は、京から江戸に向かう旅人の視線なのでしょう。京から来るとき、はるか右手遠くに見える富士山が、道を曲がったここからは一瞬、左手に見えるということに。




1880年代のようす。→が「熊久橋」付近。直角に曲がっていることがわかる。「元荒川」の流れも確認できる。
「元荒川」。
先ほどの通りに合流し、少し「元荒川通り」方向に進んだところには「元荒川起点の碑」。

元荒川の源流付近(南側)。
北側。


ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。
春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。
車一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました
幅2.7㍍長さ282.4㍍3㌧。中央部99.4㍍の区間は幅4.5㍍の待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
昭和30年県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され、48年間、地元の志画かつ道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。
《周辺の歴史》
この地は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の良一で、やや下流には館もあったおいわれる。
江戸の頃、幕府の施策でこの一帯は荒川の付け替え大工事が行われ現在の荒川になった。
以後、明治の鉄道開設まで江戸との舟運の起点、久下新川河岸として「栄え、帆を張った草船や中山道の旅人で賑わった。
舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年頃県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
もう少し詳しく「Wikipedia」を参照して。
開通は1955年(昭和30年)7月19日。開通当時は市町村道の橋梁だったが、地元住民の埼玉県への陳情により1966年(昭和41年)4月に県道(埼玉県道257号冑山熊谷線)に昇格されている。
橋脚が鋼製(一部コンクリート製)、橋桁が木製の冠水橋であった。欄干は初めは付けられていなかったが住民の要望に応じ、1968年(昭和43年)6月頃に鉄パイプを立ててワイヤーを張った簡素な欄干が設置された。この欄干は洪水の際に着脱が可能なものである。元々は中洲を挟み熊谷側と大里側にそれぞれ橋が架けられていたが、洪水などで中洲が消失した他、橋の破損の補修を繰り返しているうちに1本の橋に繋がったものである。橋の中央部の幅員がやや広くなっているのはその名残である。
1970年代から永久橋に架け替える計画が存在しており、1977年(昭和52年)10月11日に久下・佐谷田地区内関係者を対象に地元公民館で説明会が行われたが、生活に密着した身近な橋であったことや騒音問題を危惧したことなどから、地元住民によって「久下橋かけかえ反対期成同盟会」が結成され、住民と行政にて長期に亘る協議・交渉が行われた。
珍しい構造の橋であることから文化的意味合いもあって、地元では撤去を惜しむ声が強く「久下橋を残す会」が結成され署名運動が行われ約四千名の署名が集まったことで保存も検討されたが、老朽化が著しく、河川の管理上や財政上の問題もあり、各種方面との協議の結果、最終的に撤去する結論に至った。
埼玉県道最後の冠水橋であった旧橋は、現行橋の開通に伴い、2003年(平成15年)6月15日午後5時をもって通行止となり50年近い歴史に幕を閉じ、同年度中に撤去された。
2004年(平成16年)9月4日に左岸側の旧橋跡付近に記念碑・説明板と旧橋主桁部の廃材で作製されたベンチが有志による募金にて設置された。


冠水時のようす。
(



来た道を振り返って望む。 対岸を望む。
その先を下って行きます。正面のおうちのところに解説板が立っています。

中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらきごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り、「柚餅子」が名物だったのだろう。また、忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので、「御狩屋」と呼ばれたという。
昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 戸森昭三(みかりや)
忍藩主が狩りの時に休んだのが、店名の由来。明治・大正期は、カイコの幼虫の蚕種製造をしていました。御狩屋の店主の戸森家には、茶店の名物だった柚餅子(ゆべし)の作り方が伝っているそうです。
(この項

また、「英泉の描いた八丁堤の景」という解説板。


右に見えるのは、権八地蔵と道標?
立派な門構えと広い敷地のおうち。

土手方向を望む。

先ほどの車道に合流し、進みます。

(13:05)左手に「東竹院」。


荒川寄りには養魚場・釣り堀(埼玉中央漁協)。

鱒の養魚場で、釣りも出来る、らしい。
しばらくそのまま進みます。「元荒川通り」とぶつかる手前に、世界で熊谷市のみに生息する「ムサシトミヨ」が棲む川に出会います。




ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。
許可を得ないで、動物・植物を採捕することは禁じられています。
川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。
平成8年3月 熊谷市・熊谷市教育委員会 環境庁 埼玉中央漁業協同組合 熊谷市ムサシトヨミを守る会・・
流れを見ていると、食卓に上る食材が。


元荒川の水草 オランダガラシ(クレソン)
生食野菜として明治初期に輸入。クレソンの名で食用に栽培されていたものが野生化した帰化植物。
全国の河川や湧水のある水路に群生する。通常水面上に繁茂するが、湧水中では沈水状態でも生育する。
茎が太く流れに安定で、特にヒゲ根はムサシトミヨの巣の素材として好まれる。
ヨーロッパ原産。
ムサシトミヨ保全推進協議会

ムサシトミヨはトゲウオ目トゲウオ科トミヨ属に属する体長3cm~5cm位の淡水にすむ1年魚です。オスが水草などで球形の巣を作り、子育てをする珍しい魚です。
湧き水が出ていた昭和30年代頃までは、東京と埼玉の限られた湧水に生息していました。埼玉県内では、熊谷市のほかに上里町・本庄市・川越市などでも見られました。
しかし、開発による川の汚染や湧き水の枯渇などにより、現在では熊谷市の元荒川上流域が世界で唯一の生息地となってしまいました。この周辺は豊かな地下水を利用した養鱒場があり、汲みあげられた地下水が放流されてきたため生き残ったのです。
2011年2月調査の推計生息数は22,655尾。ムサシトミヨは、環境省や埼玉県のレッドリストで「絶滅危惧IA類」※に分類され、絶滅の危機に瀕する希少な魚です。
※ごく近い初来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
(

旧中山道はその先で右に折れ、「元荒川通り」を突っ切って進み、その先を左に折れ、先ほどの道に合流します。

「熊谷」と「久下」の境だった「熊久橋」跡。

「過ぎし世の熊久橋(ゆうきゅうばし)や左富士」
この「左富士」というのは「東海道」には二ヶ所ありましたが、「中山道」で?
この表現は、京から江戸に向かう旅人の視線なのでしょう。京から来るとき、はるか右手遠くに見える富士山が、道を曲がったここからは一瞬、左手に見えるということに。




1880年代のようす。→が「熊久橋」付近。直角に曲がっていることがわかる。「元荒川」の流れも確認できる。

先ほどの通りに合流し、少し「元荒川通り」方向に進んだところには「元荒川起点の碑」。


元荒川の源流付近(南側)。

北側。
