しばらく「国道17号線」を進みます。次に目指すは、「新島一里塚」。
(10:43)国道から左に分かれて進みます(正面左の道)。

左に入る手前にあるお店。

(10:46)右手に大きなケヤキの古木。「新島一里塚」。真ん中ほどから上がありません。樹齢300年以上らしい。しかし、2010(平成22)年9月の雷雨により折れてしまったようです。何だか痛々しい感じですが、上部には若い枝があります。


熊谷市指定文化財史跡 一里塚
この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ12㍍、樹齢300年以上のけやきの大木が残っています。
慶長9年(1604)、江戸幕府は江戸日本橋を起点に、東海道・中山道など主要な街道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里(約4キロメートル)ごとに一里塚を設けました。
当時は、中山道の両側に五間四方の塚を築き、榎などが植えられたといわれますが、西側の石原分の塚は現在残っていません。
宝暦6年(1756)の「道中絵図」には、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は曙町)・新島に一里塚が描かれ、「榎二本づつきづく」とあるが、現存する新島の大木は不思議なことにけやきです。
平成12年9月 熊谷市教育委員会
日本橋から17里目。

すぐ左手に「従是南忍領」碑。

埼玉県指定文化財旧跡 忍領石標
「従是南忍領」と彫られたこの石標は、忍藩が他藩との境界を明らかにするため16箇所に建てたものの一つです。初めは木材を用いていましたが、安永9年(1780)に石碑として建て直されました。その後、明治維新で撤去されることとなりましたが、昭和14年(1939)に再発見され、保存の道が講じられ、元の位置に再建され現在に至っています。
また大字石原字上植木には、「従是東南忍領」と彫られた石標がもう一基ありましたが、そちらは現存していません。
平成13年11月 熊谷市教育委員会
なお、上には「・・・そちらは現存していません」とありますが、「熊谷市文化センター3階・歴史展示コーナー」に上半分を崩した石標が実在している、そうです。


忍領石標
安永9年(1780年)忍領主が領分の境界を示すために建てたもので、原位置に近く建っているものはここだけです。
先に進みます。

左手が開けて、田畑が広がります。遠くに新幹線、在来線。

(11:05)しばらく進むと「国道17号線」に合流。


歩道橋を渡って反対側に。


大きな看板が目印。そこを右に。

(11:14)バス停「筋交(すじかい)橋」。

変則的な道筋で前後左右から車が行き違うところ。その名の如く、ひっきりなしに車が互いに通り抜けていき、恐いくらい。
両側に大きくて古いおうちと用水路が続く道です。


「玉井南」交差点を渡ると、大きく視界が開けてきます。

(11:34)高圧線の下に「熊谷市玉井団地」の碑。

住宅地の一角に「庚申塔」、その奥に観音堂。


「奈良堰用水」を過ぎた、左側に「明治天皇御小休所跡」碑。

「志がらき茶屋本陣」跡。茶屋本陣とは、中山道を行き来する大名や幕府公用者に食事や茶などを提供する休憩所。
街道筋らしい建物が所々に。

この先、「鬼林稲荷神社」手前に「東方一里塚」(日本橋から18里目)があったということですが、よく分からないまま通り過ぎてしまいした。
(12:12)

商家。

この地域は、用水路が張り巡らされたところです。

街道沿いにはかつての火の見櫓が目に付きます。

(12:36)その先には、「グル米ハウス」。

「JAふかや」が経営するスパーマーケット、らしい。

街道沿いのおうちには立派な木々。

一方で住宅地の間に共同墓地。

「愛宕神社」。

しだいに松などを植えた並木が目立つように。東海道と比較しては気の毒ですが、何とも痛々しい印象。



深谷市中山道ふるさとの並木道
・・・
この並木道は中山道が国道17号と交差する地点の東西に延び、江戸末期の安政年間には、松、杉、合わせて400本ほどあったといわれていますが、今では「見返りの松」に昔日の面影が偲ばれるにすぎません。現在の並木は中山道の拡幅整備に伴い、イチョウ、クロマツ、ケヤキを復元したもので、総延長は約1kmです。
平成3年 埼玉県


その「見返りの松」も2006(平成18)年に枯れてしまいました。
(13:00)


永く市民にあいされてきたみかえりの松は、平成18年2月、枯死により伐採のやむなきに至った。
往時を偲び、ここに2代目のみかえりの松を植える。
国土交通省 大宮国道事務所

そこから望む。中山道は右手前から左奥へ国道17号線を斜めに交差して進みます。「高崎まで31㎞、本庄まで12㎞」。

ちょうど午後1時。右手にある讃岐うどんのお店に入って昼食。