「明大前」駅を眼下に見て進みます。上・下高井戸宿へ向かいます。
高井戸宿
かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。
通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。
当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。
周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
助郷村は、久我山村、和泉村、松庵村、田端村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年))、成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年)、久我山村代助郷)。
下高井戸宿
日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。
上高井戸宿
日本橋から4里12町40間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。
(「Wikipedia」参照)
「下高井戸商店街入口」。
相変わらず首都高の下を歩く。
(10:57)通りの向こうに面白い建物。
「薪ストーブ専門店・TOKYO STOVE」とあります。
東京・杉並区にある薪ストーブ屋のInstagramです。毎日を素敵に、そしてちょっと贅沢にしてくれる“薪ストーブのある暮らし”をご提案します。メンテナンスもお任せください! #東京ストーブ www.tokyo-stove.com
(blogより)
ようやく首都高が大きく右へ曲がって行きます。
通りの向こうに「鎌倉街道入口」の標識。
(11:13)「甲州道中一里塚跡」解説板。
江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。
この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、飯田藩の三藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もありました。
この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて4里目(約16キロメートル)を示す「一里塚」がありました。
当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。
塚は5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えられてありました。
昭和54年2月1日 杉並区教育委員会
街道・旧道(「国道20号線」)は左方向に進みます。
頭上の圧迫感がなくなって、ホッと。
「八幡山駅」を過ぎ、「環八通り」陸橋の下を進みます。その手前にある交番には「上高井戸」とあります。
(11:28)「日本橋から17㎞」ポスト。
陸橋をくぐったあと、すぐ「国道20号線」から分かれて左に入り、芦花公園、烏山方面へ進みます。
「長泉寺」入口にある石仏群。
材木屋? 廃屋?
木工所。
うだつがある建物。「山本農機」。
かつて農村地域だったことを彷彿とさせます。
旧道らしい道筋を歩く。
「烏山下宿」バス停。
その先、左手に橋の欄干を模した大きな碑。「大橋場跡」。他に「庚申塚」など石仏が何体か。奥に由来碑がありますが、判読不能。
この付近の、1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央付近に川があります。この川に架かっていた橋?
実は、由来碑にまつわる記事がありました。関東大震災の時に起こった「朝鮮人虐殺事件」にかかわるものです。
烏山の惨行
9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。
この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。
朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の朝鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の一同1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)
加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。
(「東京日日新聞」1923年10月21日付。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)
※ 読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開き、句読点を打った。「鮮人」も「朝鮮人」に直している。
(2014年2月23日記)
・・・
荒川の河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方から、会でまとめた資料集をいただきました。そのなかに、東京日日新聞1923年10月21日付の「府下版」が掲載されていました。そこには、この「烏山事件」で負傷、死亡したすべての朝鮮人の名前が列挙されていたのですが、それによれば、病院まで送られた人が3人で、死者は洪其白さん1人となっていたのです。
追悼する会に確認したところ、「新聞によって幅はあるが、おそらく1人が正しいだろう」との答えをいただきました。たしかに、死者、負傷者について、名前を明記しているのですから、この「府下版」の記事がもっとも信頼できると考えるべきでしょう。死者3人とする史料もあり、入院した3人のうち2人が亡くなった可能性もありますが、冒頭に掲載した東京日日新聞の記事の「被害者中の一同」が死亡したという記述は「被害者中の1名」の誤字と考えるのが妥当だと思われます。つまり、『世田谷、町村のおいたち』は、死者数については誤りだということになります(その場にいた朝鮮人労働者全体の数についても史料によって幅があります)。
しかしそうなると新たな疑問がわいてきます。烏山神社の椎の木は、ではいったい何の目的で植えられたのか。
この疑問を率直にぶつけると、「追悼する会」の方から、今度は87年に発行された『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』を送っていただきました。「編者は世田谷区の文化財保護委員や調査員などをやった方で、事件の地元の人です。椎の木は誰のために植えられたのかについて今の時点ではこれ以上に信頼のおけるものは見ていません」というメッセージつきでした。そこには、あのとき起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳しく書かれていました。
まず、事件は、旧甲州街道を横切る烏山川にかかる石橋で、朝鮮人労働者を載せたトラックが崩落箇所にはまり、自警団に包囲されたところから始まったとあります。このブログ記事冒頭の写真(「事件があったと思われる附近」)をよく見ていただくと、左右に小道が横切っているのが分かりますが、これが今は暗渠となっている烏山川であり、事件の現場です。石橋の崩落箇所に…という事件のディティールは、内田良平の記録にも出てきます。その後に起きたことについては、おおよそ東京日日新聞の伝えるとおりです。
そして、烏山神社の椎の木については、『大橋場の跡』は次のように説明しています。
「結局12人の被害者に対して12人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」
「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」
この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚であるということです。苦い結論ですが、そのように受け止めざるを得ません。
現時点で分かっているのは以上の内容になります。
釈放された人々とともに椎の木を植えたとき、村の人々の心にどんな思いが交錯していたのか、本当のところはわかりません。なぜ一部で「あの椎の木は死んだ朝鮮人の供養のために植えられたのだ」という話が伝えられてきたのか。それもわかりません。
今も、烏山神社の正面の鳥居をくぐってすぐのあたり、参道の左右に、4本の椎の木がそびえているのを確かめることができます。
(2014年2月23日記)
(「9月、東京の路上で」関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト
tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/1... より)
高井戸宿
かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。
通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。
当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。
周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
助郷村は、久我山村、和泉村、松庵村、田端村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年))、成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年)、久我山村代助郷)。
下高井戸宿
日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。
上高井戸宿
日本橋から4里12町40間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。
(「Wikipedia」参照)
「下高井戸商店街入口」。
相変わらず首都高の下を歩く。
(10:57)通りの向こうに面白い建物。
「薪ストーブ専門店・TOKYO STOVE」とあります。
東京・杉並区にある薪ストーブ屋のInstagramです。毎日を素敵に、そしてちょっと贅沢にしてくれる“薪ストーブのある暮らし”をご提案します。メンテナンスもお任せください! #東京ストーブ www.tokyo-stove.com
(blogより)
ようやく首都高が大きく右へ曲がって行きます。
通りの向こうに「鎌倉街道入口」の標識。
(11:13)「甲州道中一里塚跡」解説板。
江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。
この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、飯田藩の三藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もありました。
この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて4里目(約16キロメートル)を示す「一里塚」がありました。
当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。
塚は5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えられてありました。
昭和54年2月1日 杉並区教育委員会
街道・旧道(「国道20号線」)は左方向に進みます。
頭上の圧迫感がなくなって、ホッと。
「八幡山駅」を過ぎ、「環八通り」陸橋の下を進みます。その手前にある交番には「上高井戸」とあります。
(11:28)「日本橋から17㎞」ポスト。
陸橋をくぐったあと、すぐ「国道20号線」から分かれて左に入り、芦花公園、烏山方面へ進みます。
「長泉寺」入口にある石仏群。
材木屋? 廃屋?
木工所。
うだつがある建物。「山本農機」。
かつて農村地域だったことを彷彿とさせます。
旧道らしい道筋を歩く。
「烏山下宿」バス停。
その先、左手に橋の欄干を模した大きな碑。「大橋場跡」。他に「庚申塚」など石仏が何体か。奥に由来碑がありますが、判読不能。
この付近の、1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央付近に川があります。この川に架かっていた橋?
実は、由来碑にまつわる記事がありました。関東大震災の時に起こった「朝鮮人虐殺事件」にかかわるものです。
烏山の惨行
9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。
この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。
朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の朝鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の一同1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)
加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。
(「東京日日新聞」1923年10月21日付。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)
※ 読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開き、句読点を打った。「鮮人」も「朝鮮人」に直している。
(2014年2月23日記)
・・・
荒川の河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方から、会でまとめた資料集をいただきました。そのなかに、東京日日新聞1923年10月21日付の「府下版」が掲載されていました。そこには、この「烏山事件」で負傷、死亡したすべての朝鮮人の名前が列挙されていたのですが、それによれば、病院まで送られた人が3人で、死者は洪其白さん1人となっていたのです。
追悼する会に確認したところ、「新聞によって幅はあるが、おそらく1人が正しいだろう」との答えをいただきました。たしかに、死者、負傷者について、名前を明記しているのですから、この「府下版」の記事がもっとも信頼できると考えるべきでしょう。死者3人とする史料もあり、入院した3人のうち2人が亡くなった可能性もありますが、冒頭に掲載した東京日日新聞の記事の「被害者中の一同」が死亡したという記述は「被害者中の1名」の誤字と考えるのが妥当だと思われます。つまり、『世田谷、町村のおいたち』は、死者数については誤りだということになります(その場にいた朝鮮人労働者全体の数についても史料によって幅があります)。
しかしそうなると新たな疑問がわいてきます。烏山神社の椎の木は、ではいったい何の目的で植えられたのか。
この疑問を率直にぶつけると、「追悼する会」の方から、今度は87年に発行された『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』を送っていただきました。「編者は世田谷区の文化財保護委員や調査員などをやった方で、事件の地元の人です。椎の木は誰のために植えられたのかについて今の時点ではこれ以上に信頼のおけるものは見ていません」というメッセージつきでした。そこには、あのとき起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳しく書かれていました。
まず、事件は、旧甲州街道を横切る烏山川にかかる石橋で、朝鮮人労働者を載せたトラックが崩落箇所にはまり、自警団に包囲されたところから始まったとあります。このブログ記事冒頭の写真(「事件があったと思われる附近」)をよく見ていただくと、左右に小道が横切っているのが分かりますが、これが今は暗渠となっている烏山川であり、事件の現場です。石橋の崩落箇所に…という事件のディティールは、内田良平の記録にも出てきます。その後に起きたことについては、おおよそ東京日日新聞の伝えるとおりです。
そして、烏山神社の椎の木については、『大橋場の跡』は次のように説明しています。
「結局12人の被害者に対して12人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」
「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」
この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚であるということです。苦い結論ですが、そのように受け止めざるを得ません。
現時点で分かっているのは以上の内容になります。
釈放された人々とともに椎の木を植えたとき、村の人々の心にどんな思いが交錯していたのか、本当のところはわかりません。なぜ一部で「あの椎の木は死んだ朝鮮人の供養のために植えられたのだ」という話が伝えられてきたのか。それもわかりません。
今も、烏山神社の正面の鳥居をくぐってすぐのあたり、参道の左右に、4本の椎の木がそびえているのを確かめることができます。
(2014年2月23日記)
(「9月、東京の路上で」関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト
tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/1... より)