おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

府中~日野~横山(八王子)。その6。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-28 19:52:43 | 甲州街道
日野宿
 甲州街道の5番目の宿場町であり、日野市の前身である。
 宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれている。甲州街道は幾度か経路の変遷があるが、1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越え、東京都道149号立川日野線を南下し、新奥多摩街道入口信号で右折して東京都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側の日野不動産裏を左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋だった。
 本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。その前の現在駐車場になっている辺りにあった長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた。この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。この向かいに問屋場と高札場があったが、現在は石碑が建つのみである。
 1889年(明治22年)に町村制が施行された時点では、日野宿という名称のまま神奈川県南多摩郡の自治体となったが、東京府への移管後に日野町へ改称されている。

本陣1、脇本陣1、旅籠20軒。

 (11:12)橋を越えた右手には「市民の森公園」。ここでトイレ休憩。

 (11:26)その先、右手にログハウス調の建物。「クレアホームアンドガーデン」。
    

 この先で、右に曲がります。いよいよ「日野宿」。


 左側に大きな旧家らしい建物が並んでいます。
    

 交差点の左角に「高幡不動」へ向かう「道標」。川崎街道の道筋でもあります。
    
                                写真では右手に行く道。

 (11:32)その先、左手に「日野宿本陣」の看板が見えてきます。
    

解説板。   

日野宿本陣跡
 日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を勤めていた下佐藤家の住宅として建てられた物である。下佐藤家は正保年間(1644~48年)頃に名主に取り立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に名主を勤めてきたといわれる。また正徳6年(1716年)に上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永2年(1849年)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久3年(1863年)4月には上棟し、元治元年(1864年)末に完成したものである。
 日野宿本陣は瓦葺きの建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物の保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に遺る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。

                     日野市教育委員会

日野宿脇本陣跡
 日野宿は、甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には、日野本陣の名主と日野宿問屋役人を兼帯し世襲する、二軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤家」)は本陣を、東側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤家」)は脇本陣を務めました。本陣は、公家・大名・旗本や幕府役人の専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割をもっていました。なお、この脇本陣は19世紀初冬以降、本陣と同様の機能を担っています。
 本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪であったといい、甲州道中で本陣・脇本陣などの二軒共に100坪を越える例は犬目宿(山梨県)と日野宿だけであったとされます。
 嘉永2年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は、元治元年(1864)に完成しました。北西中央に式台玄関を備え、屋根は瓦葺きであり、一般的な名主屋敷と異なり、脇本陣としての格式を備えた建物です。また、本屋敷は新撰組とも深いかかわりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。
 東京都内には、江戸時代に五街道を中心に10余りの宿場が設置されていましたが、敷地外屋敷が現存しているのはこの脇本陣のみです。

                          平成24年3月 建設 東京都教育委員会
    

    

 「日野宿本陣」は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。
 今の建物は嘉永2年(1849)正月18日の大火で焼失してしまった主屋にかわるものとして建設されました。幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として翌元治元年(1864)12月から使用された建物です。
 大火をきっかけに自衛の必要を痛感した佐藤彦五郎は八王子千人同心の井上松五郎から天然理心流を紹介され、近藤周助に入門し、自宅に道場も開きました。佐藤彦五郎は卓越した技量からか4年後には免許皆伝をとっています。
 この道場には、やがて近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになり、日野出身の土方歳三・井上源三郎らを交えた新選組と日野の人々との物語の幕が開けられたのです。まだ、この建物が完成する前のことです。
 建物は文久3年(1863)4月に上棟され、翌年完成しています。上棟の少し前、同じ文久3年2月には徳川14代将軍家茂が上洛。その警護のために新選組の前身となる浪士組が京都へ向っています。この浪士組に近藤勇や土方歳三、井上源三郎、沖田総司らが参加しています。本陣の建物の準備には10年に及ぶ歳月を費やしたと言いますから本陣建設の槌音を聞きながら、同じ敷地内にあった道場ではのちに新選組になる面々が木剣の音を鳴り響かせていたことになります。
HPより)

 ところで、いったいこの建物は「本陣」なのか「脇本陣」なのか? 「脇本陣」の方は「・・・跡」という解説になっていますし、建物は、ここ一つしかないようですし、・・・。
 解説板も日野市と東京都で別々に建っています。結局推するに、「脇本陣」だったものが「本陣」格になった建物ということなのでしょう。「脇本陣」よりか「本陣」の方が格式は高いし、観光的価値も高いのでしょう。
 上・下両佐藤家(どちらも「佐藤」姓?)の由緒争いもあるのでしょうか?
 こっちの方がよほど興味深いですね。



道路を挟んだ右側に日野市図書館の古風な雰囲気のある建物。

その前に「日野宿問屋場・高札場跡」碑。

図書館脇も整然と落ち着いた雰囲気の道。

本陣以外には宿場町当時を偲ばせる建物はなさそうです。古い商家。

(11:57)「天然理心流奉納額」。
 安政5年(1858)天然理心流近藤周助の門人であり、佐藤道場で稽古に励んでいた25名によって八坂神社(牛頭天王社)に奉納。欅板に大小2本の木刀が架けられていある。
 最後に嶋崎勇とあるが、後の近藤勇のことである。最後から2番目に名がある沖田惣次郎は後に総司と改めている。正式入門が安政6年の土方歳三の名前はない。
 八王子の千人同心、井上松五郎と弟の 井上源三郎の子孫は今でも日の出近藤勇の子孫と共に「天然理心流勇武館」を組織し、流派を継承している。

天然理心流とは
 天然理心流は、寛政年間(1789年~1800年)に近藤内蔵之助が創始した武術で、鹿島神道流を淵源としています。
 その内容は、剣術、居合術、柔術、棍法(棒術)、活法、気合術等を含む総合武術です。
 また、幕末期には四代目の近藤勇と、門人の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが京都において「新選組」を結成し、有名な池田屋事件の際には京の町を焼き 払う計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救ったことでも知られています。

公式HPより)

 現在活動している会派としては、松崎和多五郎から井上才市へ伝承された天然理心流剣術の全伝を伝える心武館を大塚篤が主催している。また、同系の高鳥天真が試衛館を主宰している。(この項、「Wikipedia」より)

 もともとの「甲州街道」はそのまま正面の坂道を進んで行きました。現在はJR線でさえぎられてしまうので、「日野駅東」を右に折れ、ガードをくぐり、左折します。信号先の左手にあるお寺が「宝泉寺」(12:00)。


そのまま坂道を上がると、JR線の手前、右手に「坂下地蔵堂」があります。
 立ち寄らなかったのでHPより拝借します。





1880年代のようす。「大坂」に続く。



現在のようす。JR線で分断されているが、旧道がつながっていることが分かる。

 (追記:4/17)4月15日(土)、「甲州街道」を久々に歩きました。中央線での朝方の人身事故のため、電車は遅れ気味。遅れついでに「日野駅」のホームに立ち寄り、ホーム上から「坂下地蔵堂」付近をを撮りました。補足します。
    

線路の反対側、大坂を望む。直線でつながっていたことが分かります。
コメント
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