1880年代のようす。
現在のようす。↓が旧道。当時に比べ、道筋は拡幅・整備で少し変化しているようです。
「大和田橋」のたもとに「大和田橋焼夷弾の跡」碑。
焼夷弾・弾痕の保存について
八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。
車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。
建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し、太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。
弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、他15箇所は色タイルでその位置を示してあります。
平成9年10月 建設省関東地方建設局相武国道工事事務所
透明板で覆われた弾痕。
色タイル。点在しています。
「大和田橋」を渡ると、横山(八王子)宿に入ります。「浅川」の下流を望む。
上流、橋のたもとには結婚式場。
橋を渡り終えると、すぐ右折します。その先、八王子市立第五中の脇を左折する道が旧道。
右手の公園に「一里塚跡」碑があります。
新町竹の鼻一里塚跡
一里塚は、慶長9年(1604)に日本橋を起点として1里(約4㎞)ごとに塚を築き、榎を植えた場所です。旅人の距離の目安となったり、木陰が憩いの場になったともいわれています。
ここ、新町の一里塚は甲州街道中八王子宿の東の入口に位置し、江戸から12里目にあたります。
明治30年(1867)の八王子大火で焼かれるまでは、大榎が涼しい木陰を作り、往時をしのばせていたようですが、現在は付近で鍵の手で曲がる道筋が、昔の面影をわずかに残しています。
平成21年3月1日 八王子市教育委員会
来た道を振り返って望む。
右手に永福神社。
芭蕉の句碑あり。蝶が飛ぶ ばかり野中の 日かげかな
この句は、貞亨2年(1685)、芭蕉42歳のときの作句。愛知・鳴海にて。(『野ざらし紀行』)
正面が鍵の手になっていて、左に折れます。
1880年代のようす。↓が一里塚碑付近 現在のようす。同
この先、市守神社の前辺りで時間切れ。そのまま「JR八王子駅」に向かい、帰途につきました。次回はここから、小仏峠方向に向かうことになります。