おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その8。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-07 20:34:00 | 甲州街道
 いよいよ奇橋・「猿橋」に向かいます。

「東京から90㎞」ポスト(14:41)。

蛇骨沢を過ぎ、常夜灯のある七面大明神の石碑の下を過ぎると、


「小菅」交差点。そこを右に折れます(14:45)。

                この道が旧甲州街道。ここから「猿橋」を渡って「猿橋宿」へ向かうことになります。

「仙台屋食堂」の手前に旧中央線トンネルの猿橋側の坑門が桂川渓谷に向かって開いています。




 もともと開口部は桂川に向いていましたが、切り立った崖と生い茂った木々のためにハッキリとは目視できません。また、「猿橋」のすぐ脇で「桂川」を越えていた鉄橋も撤去されています。

(↓)

 ここのメインは「猿橋」と「八つ沢発電所第1号水路橋」。この「水路橋」を遠目に見て線路跡とぬか喜びしてしまいそうです。

水路橋(以前撮った写真)。

    
                「八つ沢発電所・第1号水路橋」。国の指定文化財。

(14:49)眼下に「猿橋」が見えて来ます。
         

橋の上には毛氈(緋毛氈)が敷かれ、何かのイベントがありそうな雰囲気。


猿橋
 江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。

《構造》
 猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
 刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

《歴史》
 猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点付近に位置し、甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点に位置する。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。
 猿橋の架橋については、7世紀に百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
 室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
 1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
 この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14年(1817年)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いている。
 江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重は甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
 広重は後に旅の記録を『甲州日記』としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13年(1842年)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。
 1880年(明治13年)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年6月18日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。
 木造で現存する刎橋はない。
 古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
 なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。

                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

注:奇橋=日本の古橋の中でとくに構造的に変わったものとして挙げられる橋。

 「日本三大奇橋」には説がいくつかあるようです。
・猿橋 【山梨県大月市】
・錦帯橋 【山口県岩国市】

 の二つは確定的ですが、現在は3番目にはいろいろと。
・愛本橋 【富山県黒部市】
 かつては全長63mにも及ぶ刎橋(はねばし)=「猿橋」と同様の構造=であったため。  

 おそらく、江戸時代にはこの三橋だったと思われます。しかし「愛本橋」が近代的な橋に架け替えられ、観光的・歴史的な意義はあっても外れてしまった?

そこで、三番目の候補として。
・木曽の桟(かけはし) 【長野県上松町】
 険しい山の崖ぎわに短く切った木をかけ渡した木の橋。
※現状では存在していないようです。石垣の一部が史跡として保存されているのみ。これもちょっと?

・かずら橋 【徳島県三好市】
・神橋 【栃木県日光市】

 などが挙げられるようです。こちらは現存する橋。

 「祖谷のかずら橋
     
 現在の西祖谷山村善徳のかずら橋は長さ45m、幅2m、谷からの高さ14mで日本三奇橋の一つであり、重要有形民俗文化財である。大正時代に一度、ワイヤーを使った吊り橋に架け替えられたが、1928年(昭和3年)、地域振興目的でかずら橋が復活された。ただし安全のためワイヤーは使われており、かずらはワイヤーを包み込む装飾とも言える。
 1970年に国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンで登場したことで知名度が飛躍的に向上。現在でも年間35万人の観光客が通るため、老朽化が早い事から3年に一度架け替えが行われており、約1ヶ月を要する。材料である太いかずらの調達は年々困難になってきており細いかずらを撚り合わせて使用しているという。使用するかずらは高知県産のシラクチカズラである。
 東祖谷菅生のものは奥祖谷二重かずら橋と呼ばれ、男橋と呼ばれる長さ42mのものと女橋20mが並んで架かっている。いずれも人ひとり渡っても揺れ、床面も「さな木」と呼ばれる丸太や割木を荒く編んだだけであり、すき間から川面が望める。そういったこの橋の特徴をよく表す歌として「祖谷の粉ひき節」が知られている。
 2012年10月、徳島県のかずら橋がトリップアドバイザーの企画「バゲットリスト」の「世界の徒歩吊り橋10選」に選ばれた。
(以上、「Wikipedia」より。写真も借用。)

「神橋」は、「日光街道」のゴールにある橋。

 私(わたくし)的には「かずら橋」が入るかな、と。


                        解説板。



                  

            

橋の下(眼下30㍍)は「桂川」。なかなかの渓谷美。


                            

猿橋や 月松にあり 水にあり 芭蕉

甲州猿橋 お山の猿が お手々つないで かけた橋  野口雨情
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