(9:32)「デイリーヤマザキ」のところで国道に戻って大月に向かいます。途中にあった街道筋らしい古いおうち。
本来、旧甲州街道は国道の右側にあったはずですが、消滅しているので、「国道20号線(現甲州街道)」を「高月橋」入口交差点まで進み、そこを右折します。目の前には特異な山容の「岩殿山」が迫ってきます。
交差点角に「大月織物会館」。
JRの線路にぶつかったら左折し、大月駅前に通じる商店街の道を進みます。線路を挟んで「岩殿山」。
岩殿山
東京スカイツリーと同じ高さの634m!
JR大月駅から徒歩1時間ほどで頂上に到達できるお手軽なハイキングが可能です。かつて岩殿山城があったこの山一帯は岩石で構成され、豪快な石の壁と秀麗富嶽12景に選定された富士山が堂々と目に入ってきます。・・・
岩殿山頂上の南側には、鏡岩(かがみいわ)と呼ばれる礫岩(れきがん)が露出した約150メートルの崖が大迫力で眺められます。山容とは裏腹に山頂までのハイキングルートは丁寧に整備され、誰でも山頂を目指せます。JR大月駅から山頂まで1時間ほどで到着するアクセスの良さも魅力で、山梨県が定めた秀麗富嶽12景に選定された絶景は見ごたえたっぷり!
岩殿山の標高はさほど高くありませんが、下を流れる桂川から一気に山頂まで階段で登るので思いがけず大変です。ですが、ルートの整備状態は良く途中までは舗装路を行き、登山道に入っても歩きにくい場所はありません。高齢者や家族連れも多く訪れていて、頂上までの往復なら登山初心者には最適です。
稚児落とし分岐から山頂までは20~30分ほどで到達します。おおむね階段が整備され、危険な個所もありません。さらに山頂からは猿橋方面へ下る東ルート、稚児落とし分岐からの巨石や崖が楽しめる西ルートも見逃せません。
東ルートは岩殿山の東側へダイレクトに下山し葛野川に沿うように名勝猿橋を経由するもの。西ルートは鎖場を幾度となく越えて天神山を縦走する崖沿いのルートで、稚児落としを経由するスリル満点のルート!西ルートは高所恐怖症の方にはお勧めできませんし、整備状態が良いとはいえすべて自己責任ですからよく考えてルートを選びましょう。
猿橋駅までの東ルートは約3時間、さらに西ルートは岩殿山山頂経由でJR大月駅までもどる標準時間は約4時間です。その分素晴らしい体験ができるのは間違いありませんが過信は禁物ですから、西ルートは経験者や上級者との同伴をお勧めします。
岩殿山はその姿に似合わず、だれでも登れる山としてルートが整備されています。さらに駅から徒歩で赴けるハイキングルートとしても注目です。さらにコンビニやお土産屋などの充実も見逃せません。ぜひ観光協会で自分の目的に合ったルートを紹介してもらって、最適なスケジュールを組んで出かけてみてはいかがでしょうか?
(HPより)
岩殿山城(いわどのやまじょう)
標高634メートルの岩殿山に築かれた山城。
甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされ、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られた。
相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置する。頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んでいる。
・・・
甲州街道の通過する大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、永正6年(1509年)に武田氏に敗北すると、武田氏の傘下に入った。その後は武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏と争い、相模・武蔵と接する郡内領は軍事的拠点となり、岩殿山城は国境警備の役割を果たしていたと考えられている。
岩殿山城は東西に長い大きな岩山をそのまま城にしている。全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。周囲には集落や武家館が点在していたと考えられている。
(以上、「Wikipedia」参照)
まっすぐ行った右側には「大月駅」。
(9:48)「大月宿」の表示。
「岩殿山」。右奥から歩いてきました。
駅前から西に延びる商店街の通りがかつての宿場の街並み。
右手には「木村屋菓子舗」。
昔懐かしい印象の店構え。
(10:00)「大月二丁目」のところで国道に合流。
国道を少し進むと、「明治天皇御召換所址」という石碑があります。
明治大帝は王政維新後民情安定に大御心を注がれ給ひ明治十三年六月十六日宮城御發輦二品伏見宮貞愛親王を始め太政大臣三條實美参議寺島宗則仝伊藤博文仝山田顕義宮内卿徳大寺實則文部卿河野敏謙内務卿松方正義侍從長米田虎雄山口正之陸軍中将三浦梧樓宮内少輔土方又元太政少書記官伊東巳代治等百官有司供奉し峻坂難路の甲州街道を降らせられ小佛の險を越へ鳳輦親しく我縣に臨み一週日間に亘り縣下の民風土情を宸察あらせらる此の砌仝十八日大月町字大月先々代溝口五左ヱ門宅に御駐輦あらせられた由緒深き尊き御遺跡なり
しばらく進むと左手下に「富士急上大月駅」。
「大月橋」東詰の交差点へ。「富士道」(現国道139号線)との分岐点となりますが、かつて旧道は「桂川」の上流を通っていたようです。そこで、手前で右に折れ、富士急の線路沿いに進み、JR線を越えた後で左折し、「新大月橋」を渡ることにします。「大月得東中学校」の脇を抜けて行きます。
路傍に「鮎供養」碑。
城塞のようにそそり立つ「大月東中」校庭。
「新大月橋」からの「大月橋」とJR鉄橋。
桂川(笹子川)には鮎釣り人が点在。
旧道?
国道に合流します。正面から来ました。
合流してすぐ国道の左側に「下花咲一里塚」跡の解説板や石仏が集まった緑地があります。
甲州街道沿いに一里(約4㎞)ごとに設置された塚の一つで、この一里塚は下花咲宿の入口付近にありました。現在、道路工事や鉄道により当時の面影がほとんどありませんが、古い絵図等から、この場所に一里塚があったと分かっているようです。日本橋から24里目。
庚申塔や題目碑、馬頭観音、芭蕉句碑など多くの石碑が集められています。
「芭蕉句碑」
しばらくは花のうへなる月夜かな はせを 元禄4年 48歳(初蝉)
※同じ句を刻んだ句碑が亀戸天神境内にあるようです。
振り返って望む。