この付近には旧道も断続的にあるようですが、現甲州街道の「国道20号線」を進みます。
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かなり高いところに中央線の鉄橋があります。右に旧橋脚跡らしき建造物。
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おそらく旧道(甲州古道)は先ほどのバス停付近から右に入って天神峠を登り、「白野宿」へ向かっていました。その途中に「白野一里塚」がありました。ただし、明治になって旧甲州街道が国道として整備された時にはすでにその古道は失われていて、現国道と同じルートになっています(「今昔マップ」参照)。
(13:05)国道を回り込んだところで右の道に入ると、「白野宿」となります。
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白野宿
白野宿は、江戸から23番目の宿場。次の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿の3宿で継ぎ立てを分担するという小さな宿場でした。本陣1、脇本陣1、旅籠4。
行き交う車も人通りもなく、静かで落ち着いた町並み。
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土曜の昼下がり。暑い日差しです。
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(13:11)「白野宿」表示。
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「宝林寺」。この付近に今泉本陣跡などがあったようですが。
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このおたくかな?
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「白野下宿」バス停。
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そこから来た道を振り返って望む。
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(13:18)宿場の出口付近にある「子神社」。
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ちなみにこの先、コンビニ・食料品店は笹子峠を越えて「甲斐大和」駅付近に出るまで、まったくないようです。
「原入口」から右に入り、JRのガードをくぐったら左に進みます。
案内図。
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この立石は現存しているようで、先達のレポートがありますので紹介します。なお、読みは「たていし」ではなくて、「たちいし」のようです。
(以下、「鬼の石杖 http://www.ymnco2.sakura.ne.jp/me/onitue/onitue.htm 」HPより)
郡内には石杖の伝説がある。このことについて書いてある本がいくつかあるのだが内容がすこしづつずれている。・・・たいていのものは「大月市の伝説と民話:石井深編.大月市教育委員会.昭和55年」を元にしている。”大月市の伝説と民話”は地元のお年寄りのお話や、”北都留郡史”を基にしているという。
石杖がどのようなものか現地調査してみた。
立石坂の立石
笹子駅を出て国道20号を大月方面へ進む。”武田ニ十四将”で有名な、笹一酒造の前を過ぎ、笹子川を渡る。左側に田んぼが出てきて中央線が平走するようになると吉久保バス停が現れるのでここを左に入り、中央線をくぐってT字路を右に進む。稲荷神社で左に曲がると滝子山であるが、石杖を見るには真っ直ぐ進む。旧甲州街道を10分ほどして右に中央線が手に触れるほど近づくあたりで、右へカーブしながら坂道を下り、中央線をくぐって再び国道20号に出る。さらに進めば白野に至る。
20号にぶつかるところは工場の敷地の一角で、中央線をくぐるところに「立石坂の立石」の標があるので、これにしたがって工場の敷地の中を進むと線路沿いの林の中に引きこまれ、説明板とともに、石杖(立石坂の立石)が現れる。中央線のすぐ横に ザクッ と刺さっている。
高さは2mほどある。岩盤から突き出しているのだろうが、仮に地下に同じだけ刺さっているとすると、全長4m。厚さは20cmほどある。巾は1mほどある。全部で800000cm3ということになる。石の種類にもよるが、2t以上にはなりそうだ。この石が山姥の杖だとすると山姥の身長は少なくとも4mくらいありそうである。巨大だ。この石が岩殿山の鬼のものだとすると、2tの石を9.5kmほど投げ飛ばしたことになる。これまたすさまじい。
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注:記事は笹子駅から大月方向に進む行程になっています。
しばらくは線路沿い。振り返って望む。
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南側を望む。
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「原」の集落。「大月宿」付近からは「笹子峠」まで、ほぼ上りが続きます。
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(13:26)「萬霊塔」。
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落ち着いた家並み。
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「親鸞聖人念仏塚」。
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(13:33)稲村神社角は「滝子山」の登山道入口となっています。
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旧道をそのまままっすぐ進むと、JRの線路にぶつかってしまうので、左に折れてガードをくぐります。
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その分岐点にある白壁のおうち。
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(13:36)JRのトンネルをくぐる手前左手の高台に「蘆が池由来」碑と解説板があります。ただし、解説板は判読不明個所多し。
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先ほどの「親鸞聖人念仏塚」に解説文がありますので、引用します。
・・・去る程にこの前方の低地が昔時、甲斐沼地としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其の池の總面積は最大時は三丁歩余り葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。
鎌倉時代、西暦一二二五年代浄土真宗の開祖親鸞上人が甲州等々力の積舎萬福寺に参詣の帰路、此地の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ葦ヶ池にまつはる毒蛇済度の祈願を懇請される。
葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、たまたま京より来りし半僧修業僧・晋挺奈良興福寺法性宗の高僧行基が造った、阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて断食修業中、その晋挺に心をよせしが僧業の身には女性のその意を深く説得され其の意の通ぜさるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果てしときく。
地頭の懇願に依り上人供養三七二十一日間小石に大字の名号を墨書きし、池中に投入するや、「よし」の霊は成仏済度され池中に異様な轟き有りて「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた、小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中、東南の空高く消え去りて遠く、伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。
池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源と伝へられる。・・・
来た道を振り返って望む。
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