「鳥沢宿」に入ります。
鳥沢宿(山梨県大月市)
概要:
甲州街道の宿場町である鳥沢宿は2宿に分かれていて上鳥沢宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒(大5軒・中3軒・小5軒)、問屋1軒、宿場の規模は6町17間(約685m)。下鳥沢宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠11軒(大3軒・中4軒・小4軒)、問屋1軒、宿場の規模は4町30間(約495m)と甲州街道では小規模の宿場町がほぼ隣接(約550m)した形で設置されました。
人馬継立や問屋役等は1ヶ月を半分に分け前半15日間を上鳥沢宿、後半15日間を下鳥沢宿でその役を務めました。元々は小西村と称していたそうですが、江戸時代初期に周辺の地名と共に十二支に因んだものに変更になったとされます(犬目宿や猿橋宿、駒橋宿など)。明治時代以降、鉄道の駅舎が設置された事で、周辺(旧富浜村)の中心として地位を確立し村役場や小学校が建設され市も開設され繁栄しました。道路の幅が当時から広かった為、藩政期の建物は少ないものの両側に木造2階建、切妻、平入り、出桁造の町屋建築が軒を連ね、宿場町らしい町並みを一部残しています。
(「山梨県:歴史・観光・見所」 www.yamareki.com/ootuki/tori.html HPより)
申(さる)=猿橋、酉(とり)=鳥沢、戌(いぬ)=犬目。 「猿橋」がもともとあって、それにあやかって東側に続く宿場の名をつけたのではないでしょうか?
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(13:38)「東京から87㎞」ポスト。
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古い街並みが残っています。
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「下鳥沢宿」表示。
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「山梨県東部JR八駅トレッキング推進協議会」とあります。
木造2階建、切妻、平入り、出桁造の町屋造りの建物が続きます。そのいくつか(順不同)。
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(13:46)この信号、左手に「鳥沢駅」。
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駅のベンチで小休止。
(14:04)右手の「セブン・イレブン」の先に「上鳥沢宿」という案内表示と「明治天皇駐蹕地」碑。「井上本陣」跡。
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注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。
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通りを挟んで古民家。
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しばらく進み、「三栄工業」の看板のところを右に入ります。(14:09)
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「横吹沢」。
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再び国道に合流。
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この付近は、鳥沢駅から猿橋駅までかつてあった中央線の廃線跡探索で歩いたことがあります。その時の記録も交えて。
※かつての線路・築堤の上はこんな感じ。ちなみに「国道20号線」に合流する右下の道が今回歩いた「旧甲州街道」。
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(14:25)再び国道から右の道を上り、Y字路を左折します。その道が旧道。
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※曲がらずに右の坂を上って行くと、突き当たりに「富浜公民館小向袴着分館」。その右手奥にトンネルの猿橋側の入口が見えます。
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「公民館」の位置からは下にあって、廃線後、土盛りをした様子が分かります。「公民館」側を望む。
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旧道は私有地に入ってしまい、行き止まり。雑草の中の細道を国道側に降ります。
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降り立ったところは、国道20号線「宮谷橋」の脇。東京電力の管理する「水路橋」が橋のすぐ右手にあります。
※道路沿いの目の下に古びた橋梁(以前撮った写真。今回は、周囲の木々の緑が濃くて、全容がはっきりしませんでしたので)。「八ツ沢発電所」施設の一つ、「第3号水路」のようです。上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造。
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名勝「猿橋」のすぐそばには「第1号水路橋」があります。
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「八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設である。
東京電燈株式会社が第二水力電気事業の一環として建設したもので,明治43年に着工,大正3年の大野調整池の完成をもって全体が竣工した。
建造物は,取水口施設,第一号から第一八号の隧道,第一号開渠,第一号から第四号の水路橋,大野調整池施設,水槽余水路などで,約14kmの範囲に現存する。
取水口の沈砂池や隧道は,土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれる。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり,大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つである。
八ツ沢発電所施設は,大規模調整池を有するわが国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく,類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており,土木技術史上,高い価値がある。
わが国の重要文化財のなかで、最大規模となる。」
(以上、「
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(14:31)
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下の方まで降りて行った方の写真を見ましたが、見上げると、なかなか壮観なようです。水路には激しい勢いで水が流れています。構造的には「東海道」歩きの時に立ち寄った京都・南禅寺の「水路閣」と同じ頃つくられた、同じような構造の建築物のようですが。
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なお、民家の敷地を抜けていった「宮谷川」沿いに「宮谷川橋梁」の橋脚と橋台が残されているようです。
この付近は、谷や山が入り組み、地盤などの崩壊なども激しいようで、旧道もここで途絶えてしまいます。かつての鉄道線路も維持管理の大変だったことが想像できます。