おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

金沢城・兼六園。その2。

2018-04-18 21:29:38 | つかのまの旅人
                           「橋爪橋」を渡っていきます。


橋爪門
 橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていました。文化5年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化6年(1809)に再建された姿を復元しています。

雁木坂」。 
                                          これはその一部の復元?
 このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂という石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿への玄関に至ります。

 階段になった坂を一般に「雁木坂」といいますが、もともとは木組みで造られていたのではないかと思います。東京・港区麻布に「雁木坂」と呼ばれる坂があります。
  木漏れ陽の下の急坂。
                (「都内の坂めぐり」より。2015・5・18撮影)

広大な空間「二の丸広場」に出ます。
                            向こうに見えるのは、「菱櫓」と「五十間長屋」。



                     
二の丸~金沢城の中枢~
 初期の金沢城は本丸を中心とした城作りが行われていたが、寛永8年(1631)の大火を機に中心は二の丸に移った。敷地を拡張し大規模な御殿が作られ、以後、城主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。
・・・二の丸御殿は、幾度となく姿を変えながらも幕末・維新期まで御殿としての機能を持ち続けていた。その後、陸軍の兵舎として利用されたが、明治14年(1881)の失火により惜しくも全焼した。
 現在金沢城内に二の丸の名残は見られないが、御殿正面玄関にあった唐門は場外へ移築され、現在は尾山神社の東神門(国登録有形文化財建造物)となっている。

跡は広大な空間になっています。

「二の丸」解説板。開館時間を過ぎていました。

周囲も薄暗くなってきて、そろそろホテルに戻ろうと思います。
                                      大きな楼台石垣が残っています。

「大手門口」から望む。  
                                                  「大手町」碑。

「大手堀」。

「博労町南」交差点。

「旅館すみよしや」。風情のある建物。

 百万石の城下町、金沢。
すみよしやは、この街で最も長い歴史を持つ旅館です。
けやきの一枚看板、ひと抱え以上もある松の梁などに往時を忍ぶ姿が見られます。
時代は移り変わっても、「ようこそ金沢へ、きてもってあんやとね,
なんもないけど いんぎらあーと していってたいね…」の心で、
これからもお宿一筋に努めてまいります。
どうぞ、ごゆっくりとおくつろぎください。
HPより)

                    「べんがら塗り」。

こちらは伝統を生かした家屋。

「近江町市場」にも立ち寄りましたが、この時間だとほとんど閉まっています。明日に期待。


落ち着いた街並み。

 ホテルにチェックインしたあと、しばらくして夕食へ。金沢はおいしい食事処が満載。さて? 事前に調べておいたお店に。
 

                  
                            「能加万菜 郷(のうかばんざい KYO)
 器が九谷焼、輪島塗、ガラス工芸と凝っています。特にガラス製の酒器は抜群。ゆっくりと能登のお酒、焼酎を飲みながら「おばんざい・おまかせ八寸」などをつまみ、仕上げには氷見うどん。
 若い男女がカウンターの中で手際よく食事をつくり、運び。店内には静かにジャズが流れる、シックでモダンな色調の落ち着いた雰囲気。けっこう満足しました。
コメント
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