3月28日(水)。晴れ。じじばばがそぞろ歩きの隅田公園。桜を愛でる人々。そんな隅田公園(墨田区側)を。
序詞 野口雨情
都鳥さへ
夜長のころは
水に歌書く
夢も見る
立札
ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唄われたものである。
東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
昭和63年10月9日 墨田区
何とも仰々しい「立て札」ではあります。
ついでに台東区側の隅田公園にある歌碑、句碑。
「花」(滝廉太郎)の碑。「春のうららの隅田川・・・」
「羽子板や子はまぼろしのすみだ川 秋櫻子」水原秋櫻子の句碑。
さて、墨田区側。
「住民が育てた墨堤の桜」。
江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1880年代から、地元の村の融資らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
墨堤の桜が地元の人々に愛された桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。
「墨堤植桜の碑」。
こちらは「平成植桜の碑」。
早咲きの「河津桜」。すでに葉桜になっています。
隅田公園には土手に植えられた「ソメイヨシノ」の並木の他にも、単体でさまざまなサクラが植えられています。
「オオシマザクラ」。
「長命寺の桜もち」のお店のそばにあります。
ここは、正岡子規の仮寓の地でもあったようで、解説板があります。
向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の二階を3ヶ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次のような句を詠んでいる。
花の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ
明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も
から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん
と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。
子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴き声は悲壮で、「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。
「エドヒガン」。
「ベニユタカ」。
「シロタエ」。
「ヨウコウ」。
「ヤエシダレザクラ」。
「センダイヤ(仙台屋)」。
原木は高知市内の仙台屋という店の庭にあったことから、牧野富太郎が命名した。
「ソトオリヒメ(衣通姫)」。
ソメイヨシノとオオシマザクラの自然交雑で生じた。
他にもたくさんの種類のサクラ。咲き終わったのや、これからのものも。撮り損ねたのもまだまだありそう。
公園内もソメイヨシノが満開。
「ソメイヨシノ」。
「ソメイヨシノ」は、江戸末期から明治初期に、江戸・染井村の造園師や植木職人達によって育成されました(ただし、「吉野」とあるが、吉野山に多い「ヤマザクラ」とは別種)。
「ソメイヨシノ(染井吉野)」は「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交配によってできたかなり限られた数の原木を始源とするクローンであることが判明しています。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)挿し木などによって増やしたもので、ソメイヨシノ同士の自然交配による純粋な子孫はありません。そのため、すべての個体が同一に近い特徴を持ち、一斉に咲き、一斉に花を散らす理由になっています。よくTVで見る「桜前線」は、そうした特徴をよく表しています。
しかし、病気や環境の変化に負ける場合には、多くの株が同じような影響を受け、植樹された時期が同時期ならば、同時期に樹勢の衰えを迎えようです。
公園や街路樹などでソメイヨシノばかりが植えられている現状にはこれでいいのかとうなってしまいますが・・・。
根元にも花が数輪。
「明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯」の碑。
「隅田公園」は、関東大震災後の復興計画の中で、、三大公園(あとの二つは「浜町公園」と「錦糸公園」)の一つとして計画されました。隅田公園は、隅田川の両岸にあって、徳川吉宗以来、桜の名所であった隅田川堤と旧水戸藩邸の日本庭園(墨田区側)を取り込み、和洋折衷の大規模な公園として整備されました。
「ユリカモメ」が数羽、羽を休めています。
主人公として在原業平が想定されている『伊勢物語』の「九段 東下り」に登場する「都鳥」は、ユリカモメを指しています。
なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。・・・さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
ここでの「都鳥」は「ユリカモメ」だとされています。当時、京の都には飛来していなかった鳥のようです。
「ミヤコドリ」。(「Wikipedia」より)
「ゲンペイモモ(源平桃)」。