おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「深代惇郎と新聞の時代 Tenjin」(後藤正治)講談社文庫

2018-04-11 22:37:27 | 読書無限
 「朝日新聞」天声人語の筆者として、今も語り継がれる深代惇郎さんと同時代の新聞界を描くドキュメンタリー。

昭和50年(1975)8月16日付け天声人語

 一昨日、昨日につづいて、もう一度「敗戦」のことを書く。敗戦によって、われわれの精神構造や行動様式は変わったか。30年の歳月は何を変え、何を変えなかったのか
 敗戦後9ヶ月して極東軍事裁判が開かれ、戦争指導者たちの責任が問われた。そこで指導者たちは何を主張したかを、丸山真男『現代政治の思想と行動』(未来社)からみてみたい。木戸被告(元内大臣)は、日独伊三国同盟について「私個人としては、この同盟に反対でありました。しかし現実の問題としては、これを絶対に拒否することは困難だと思います」と答えている。
 東郷被告(元外相)も同じ問題で「私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事には成り行きがあります」と述べた。大勢の流れに反対の意見を述べるのは私情をさしはさむものだ、という考え方であろう。「既成事実」こそすべての王であり、それに従わねばならぬという理屈は、他国人には理解を超えるものだったに違いない。
 この点で、小磯被告(元首相)を論難する検事の言葉は痛烈だった。「あなたは三月事件にも満州事件にも、中国における日本の冒険にも、三国同盟にも、対米戦争にも反対してきた。あなたはこれらに反対して、なぜ次から次へと政府の要職を受け入れ、一生懸命に反対する重要事項の指導者の一人になってしまったのか」(以上要約)
 これに対し小磯被告は「自分の意見は意見。国策がいやしくも決定せられました以上は、それに従って努力する」と答えている。指導者のだれもが戦争を望まなかったが、戦争は突如として天変地異のごとく起こったような錯覚さえ持たせる。実は「天変地異」ではなく国策であったのに、それに責任をもつ者は一人も現れない。そして勝手に「天皇」が使われ、「英霊の声」が利用された。
 「個人としては別だ」「それが世論だ」という言い方で個の責任を免れようとする無責任な集団主義は、はたして克服されたであろうか。

 このところのアベ政治への批判が高まる中、かえって、アベシンパによるマスコミたたきはますます激しくなっています。
 TVはもちろん、新聞に対しても、紙面に掲載された反アベ的言動に対して、激しくネットで揚げ足取り、非難(時には中傷)が飛び交い、「マスゴミ」という言い方とあいまって、「反日だ! 」は一部のネットでは当然の如く「快哉」「快哉」と叫ばれ、新聞報道やTV番組を「偏見・反日」と決めつける圧力団体・個人も登場。とりわけ、「朝日新聞」への批判、攻撃はとどまるところを知りません。

 特に、「朝日新聞」の森友問題での文書改ざんスクープ。当初は、ガセネタと批判していたが、それが本当だと確定されると地団駄を踏みながら、「憎っくき」朝日を追い落とすため、次の手を打ってきています。
 今回、加計問題でアベの関わりを暗示するような文書を紙面で公表した朝日に対して、またぞろ執拗な攻撃(キャンペーン)をしかけてくるでしょう。

 そんな朝日新聞。かつて、その朝刊一面の「天声人語」を担当した深代惇郎さんの評伝。それだけにとどまらず、当時の新聞、マスコミ界の記者群像を描きながら、マスコミ報道のありかたを考えさせる書です。

 戦前、軍部独裁にほとんど抵抗の筆を折られたまま、結局は破滅に導いた、その一翼を担ってしまった、という痛切な自己批判、反省の上から戦後のマスコミ界を担っていた若き記者たち、マスコミ関係者たち。その交流を描きながら、深代さんのジャーナリストとしての生涯を追っていきます。

 深代惇郎さんが天声人語を担当したのは、1973(昭和48)年2月15日から1975(昭和50)年11月1日までの2年9ヶ月でした。
 この間、内閣総理大臣は田中角栄から三木武夫へ。第4次中東戦争を引き金として石油危機が勃発、「狂乱物価」と呼ばれる超インフレが巻き起こり、企業倒産が続出し、トイレットペーパー買い占め騒ぎなども起きました。戦後初のマイナス成長、金大中事件、朴正煕狙撃事件、三菱重工ビル爆破事件、スト権スト、・・・内外ともに流動混迷の時代でした。
 
 そうした中にあって、深代さんはジャーナリズムは権力の監視を担うという信念を持ち続けていました。時の権力者への厳しい批判の目、特に田中角栄首相については厳しい筆で迫っています。

 担当してわずか2年9ヶ月、46歳で早世してしまいます。しかし、深代・天人の、視野が広く、柔軟な思考のもと、ウィットとユーモアに満ちた文章は、読者をうならせました。そんな文章を通して醸し出される彼の新聞人・ジャーナリストとしての真価・器量を同僚や先輩、また他社の記者たちの証言を通して明らかにしていきます。


 資料を駆使し、当事者へのインタービューなど、筆者の粘り強い取材力、視点なども本書の魅力です。一気に読ませます。

 「日曜版」で「世界名作の旅」シリーズが1964(昭和39年)が始まったとき、夢中で読んでいたことを思い出します。
 名作文学を素材にその作品の誕生の地を訪ね、随想としてまとめる、という企画物でした。深代惇郎がその中の「チボー家の人々」「風と共に去りぬ」など10編を担当していたことを、今回、はじめて知りました。

 ところで、現在の記者の取材力、それに基づく文章力はいかがでしょうか? 今のコラムニストの力量はいかかでしょうか? 権力の監視という不屈の精神を失っていないででしょうか?
 どんな理不尽で不当な圧力が掛けられてきたとしても、肩肘張ってではなく、ジャーナリストとしての誇りと気概を失わないでほしいと
思います。

 音楽評論家・安倍寧が、深代惇郎が『ドン・ホーテ』を脚色したミュージカル『ラマンチャの男』の主題歌「インポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)」を英詞で歌い始めたエピソードを伝えています。(P379)

To dream the impossible dream(決してかなえられぬ夢を見)
To fight the unbeatable foe(決して倒れぬ敵を向こうに回し・・・)


・・・歌い終えると、深代は少し照れくさそうな顔になって「あのミュージカルには、こんな科白もあるんです。ご存じですか?」といいつつ、さらさらっとこう書いた。

Facts are the enemy of truth(事実は真実の敵だ)

 道半ばにして倒れた深代惇郎を思うときに、まさに「impossible dream」を追い続けた強い意志を、今に生きる我々それぞれがどういうかたちで継承できているでしょうか?

 ある日の「天声人語」には群馬のとある私鉄の駅に掲げられている地元の方の詩を紹介しています。

一陣の風が
通りすぎた
あと
花が
香りを残してゆくような
そんなひとに
逢いたい

 実に感性豊かな人となりであったことが知れます。

 深代さんは、下町の浅草橋育ちで府立三中(現・両国高校)の出身。そんなことからも改めて親しみを感じました。
 
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