甲州街道歩きのときに、韮崎で「かかしの里」に出会いました。そこでは、この贄川宿とは異なって、田んぼの中、道沿いに並んだ、「新作かかしコンクール」でした。
「円野町(まるのまち)かかし祭り」。
韮崎市円野町の、のどかな田園地帯で行われる「かかし祭り」。その年の世相を反映した「かかし」等、多種多様な作品の出展が数多く立ち並びます。
田園風景。遠くに「八ヶ岳」。
残念ですが、訪れたときは一つもありませんでした。
その催しの写真を。(HPより)
・・・「贄川宿」のかかし達は生活感あふれ、アットホームな雰囲気。
おばあさんの隣は、古い脱穀機?
おうちも古そう。
古い家並み。
新旧合わせたおうちも。
三輪車に乗っている子。
宿内を振り返る。
周辺の観光案内図。
「贄川宿」の補足。
秩父市荒川贄川は埼玉県西部、荒川上流左岸、荒川とその支流贄川の流域の低位段丘・山間地に位置し、東京都心から約80kmの距離である。
江戸はじめは幕府領、天保2年(1831)上野館林藩領、嘉永元年(1848)川越藩領、明治2年から上野前橋藩領。
化政期(1804~30)の家数は159軒。今回訪ねたのは贄川村町分と呼ばれていた辺りで、秩父甲州往還沿いに町場が形成され、高札場も設けられていた所。東西二町余りの町並には食品店・旅籠屋・商家などが建ち並んでいた。寛文7年(1667)頃から2・7の六斎市が立っち、元禄末期まで続き賑わっていたといい、大滝村三峰山への参詣客、巡礼札所の宿場町としても繁栄していた。
慶応2年(1866)の家数は183・人数883とある。痩せ地の山間部のため畑地も少なく、年貢は金納制であった。絹・横麻の織り物を主たる換金商品として煙草・楮・薪炭・木材・魚獣類などが山村経済を支えていた。畑で作っていた作物は麦・あわ・稗・大豆・小豆・芋・栗などである。
男は山稼・炭焼・椎茸・岩たけ・干し柿などで、三峰山への参詣客の荷を背負って送り駄賃を取っていた。女は蚕桑とり・絹・横麻の類の織りだしであった。
明治9年頃には家数149・人数735とあり、物産には繭・絹・生糸・たばこ・楮・香魚などがあった。
今、贄川を訪ねると、宿場町当時の面影が家並みに色濃く残っている。現代的な建物も少なく、江戸時代の情緒が感じられる宿場町である。特別保存している感じでもない町並みで、好感のもてる古い町並みだった。
(この項、「秩父市荒川贄川町 http://matinami.o.oo7.jp › titibu-arakawa-niekawa」HPより)
「贄川」という地名の由来は、「ほとばしる荒川の流れが煮え立っているように見える」、あるいは、「神社に捧げる贄(神饌)魚を捕った川」という説があるようです。
「ヤマトタケル東征伝説」と関連する三峯山(神社)信仰・参詣の宿所として賑わいました。