おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その3。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-29 19:59:22 | 甲州街道
 「金沢宿」に向かいます。 セイコーエプソン関連の体育施設が左手に続きます。

 広くなった旧道が狭くなっていきます。

右手に見える山は全山、見事な紅葉。

次第に下り坂になると「金沢宿」の一角に入って行きます。

道ばたの民家沿いにある古仏。

(12:42)国道20号線に合流します。その手前には「金沢宿案内図」。


                        

「東京から187㎞」ポスト。

(12:51)その先の交差点には「金沢宿本陣跡」解説板。

金沢宿本陣跡
 五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き約4里(約15km)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務にあてさせた。甲州街道の宿場には25人の人足と25匹の馬を常駐させその任に当たらせた。
 本陣は大名や公家が泊ったり休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には2軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安4年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。
 本陣の敷地は約4反歩(約40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた4代三郎左衛門は、延宝6年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され 家は闕所断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の3藩であったが、 江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。

 平成11年5月吉日 金沢財産区金沢区金沢歴史同好会

 小松三郎左衛門が本陣を勤めた頃、諏訪藩の命令により金沢宿の所有地および、大沢山の入会権を隣の茅野に奪われてしまいました。そこで、三郎佐衛門は諏訪藩に直訴、しかし捕えられ、妻子まで処刑されてしまったのです。この地では「みょうり様」と呼ばれ親しまれている。
 その後、明治17年裁判で金沢宿の権利が認められました。

 金沢宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠17軒でした。

その隣には「長野県」と記された石碑。

宿内のようす。国道に面しています。

 
左側に旅籠屋「松阪屋武右衛門」で二階に連子格子を残す家。入口に昔のくぐり戸も残している。また「旅館 HOTEL 松阪屋」と英語が使われている古い看板も掛かっている。明治時代に掛けられた看板と思われますが、なかなかユニーク。隣の理髪店の回転式サインポールとが奇妙な趣。

古い家並みも残っています。

 (12:56)しばらく歩くと右手に、二階に連子格子を持つかなり大きな建物。昔、馬方宿を営んでいたという小林氏宅。家の前の大きな石の前に「馬継ぎ石」が一つだけ残っています。馬方はこの穴に馬を結びつけて、同家に宿泊などしたわけです。
 

「金沢下町」バス停。

 この先「金沢橋」へ向かいますが、旧道は右へ枡形となって、国道脇を通るようになっていましたが、失われているので、国道を通ります。

 (13:02)橋を渡ってすぐ右手に「権現の森」。
 
 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長15年(1610)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安3年(1650)の大火を機に南方の現在地に移転し、翌4年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
・・・ 
 信仰の場、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。

 平成17年7月 茅野市教育委員会

 ここで、小休止。


 (13:19)しばらく国道を進むと、左手の田んぼの中に「寒天の里」という大きな看板が目に入ります。

諏訪地方の寒天の歴史
 寒天は天草などの紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品です。
・・・
 美濃屋太郎左衛門が営む旅館に、参勤交代の途中の薩摩藩主、島津候が宿泊した際、主人の太郎左衛門は、さまざまなご馳走でもてなしました。そのひとつに、テングサを煮て作ったところてん料理があったのです。
 主人は残ったところてんを外に放置しておいたところ、真冬の寒さでところてんは凍結し、日中自然に解凍されては乾燥し、やがて白い半透明の美しい乾物に変わっていったのです。主人はこれを見つけて、試しに煮てみると、ところてん独特の臭みがない透明のかたまりができました。
 この出来事が寒天誕生の始まりで、研究の結果、製造方法が確立されたと伝えられています。当時はまだ「ところてんの干物」という認識でしたが、これを試食した高僧隠元禅師が「寒天」と名付け、その後各地に広がりました。このように、寒天の歴史は古く、日本で生まれた伝統的な食材なのです。
・・・
 茅野市に伝えられたのは、170年以上前のことです。(1840年代)
 角寒天の形状を維持して、天然製造で日本一の生産量を維持しています。
茅野市は「寒天の里」です。そしてこの寒天が、高血糖や高コレステロール、高血圧や肥満の改善及び予防に有効だと、平成17年(2005)2月16日放送のNHKのためしてガッテン!で取り上げられました。


HPより)

 その先、左手奥にこんもりした森が見えます。そこにあるのが「木舟の一里塚」。
 
 この一里塚は日本橋から49里目(50里目とも)の塚で、その場所は中央線の敷設や耕地整理のため移動し、本来の場所ではないそうです。見に行くには、川を向こう側になります。

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