いよいよ甲州街道歩きも最終回。今回は、茅野駅から。
12月9日(土)。晴れ。11時前に茅野駅に到着。歩き始めます。前日の雪がうっすらと残っている中。今シーズン初めての雪景色です。
(11:02)足元に気をつけながら。
この信号を左折し、茅野駅前からの道に合流し、右折します。
「上原交差点」。直下にある「ビーナスライン」トンネルの通気口。
中央道の諏訪インターを降りた車が蓼科・白樺湖方面に向かう「ビーナスライン」がこの下をトンネルで抜けています。
この先、沿道には「小路」「通り」名が表示されています。
「金剛寺跡」碑。
「小路」「通り」案内図。
次第に左手が開けてきます。
山の向こうは伊那地方?
「塔中小路」。
これから本格的な冬支度。
定
一、車馬を乗入ル事
一、魚鳥ヲ捕フル事
一、竹木ヲ伐ル事
右條々於境内
令禁止者也
大正四年十月七日
長野縣
(11:31)しばらく進み、右折します。
「甲州街道 渋沢小路」の標識が曲がり角の左にあります。
坂道を進み、中央線のガードをくぐります。
「大門街道」との追分。右手に道標、常夜燈など。
奥の古い道標には「右江戸道」とあります。常夜燈は修復されたようす。
「甲州街道」。
振り返って望む。右手が来た道。
(11:38)左側が開けてきます。
豪壮な建物。
見事な松。
右手に現れたのが「火燈(ひとぼし)公園」。
火燈公園
神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。
この鳥居火は、「太古からの仕来り」で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化15年(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は天正6年(1578)の御柱祭に、上社及び下社の大規模な御造宮をしており、この時上社の御造宮にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、貫の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。
現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が「太古からの仕来り」を想う意味からも『火燈し公園』と名づけた。
その先左手に「神戸地区公民館」のりっぱな建物。
「神戸」といえば、兵庫県の神戸市が有名ですが、甲州街道など街道歩きではよく「神戸」という地名に出会いました。読みは「こうべ」ではなく、「ごうど」とか多い。神社にまつわる地名のようですが。
(11:46)「神戸一里塚跡」碑。
甲州道中五十一里塚
・・・ここ神戸には日本橋からの五十一t里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
塚上のエノキは大人の五倍(八~九m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良で働く里人にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。
諏訪市教育委員会
12月9日(土)。晴れ。11時前に茅野駅に到着。歩き始めます。前日の雪がうっすらと残っている中。今シーズン初めての雪景色です。
(11:02)足元に気をつけながら。
この信号を左折し、茅野駅前からの道に合流し、右折します。
「上原交差点」。直下にある「ビーナスライン」トンネルの通気口。
中央道の諏訪インターを降りた車が蓼科・白樺湖方面に向かう「ビーナスライン」がこの下をトンネルで抜けています。
この先、沿道には「小路」「通り」名が表示されています。
「金剛寺跡」碑。
「小路」「通り」案内図。
次第に左手が開けてきます。
山の向こうは伊那地方?
「塔中小路」。
これから本格的な冬支度。
定
一、車馬を乗入ル事
一、魚鳥ヲ捕フル事
一、竹木ヲ伐ル事
右條々於境内
令禁止者也
大正四年十月七日
長野縣
(11:31)しばらく進み、右折します。
「甲州街道 渋沢小路」の標識が曲がり角の左にあります。
坂道を進み、中央線のガードをくぐります。
「大門街道」との追分。右手に道標、常夜燈など。
奥の古い道標には「右江戸道」とあります。常夜燈は修復されたようす。
「甲州街道」。
振り返って望む。右手が来た道。
(11:38)左側が開けてきます。
豪壮な建物。
見事な松。
右手に現れたのが「火燈(ひとぼし)公園」。
火燈公園
神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。
この鳥居火は、「太古からの仕来り」で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化15年(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は天正6年(1578)の御柱祭に、上社及び下社の大規模な御造宮をしており、この時上社の御造宮にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、貫の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。
現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が「太古からの仕来り」を想う意味からも『火燈し公園』と名づけた。
その先左手に「神戸地区公民館」のりっぱな建物。
「神戸」といえば、兵庫県の神戸市が有名ですが、甲州街道など街道歩きではよく「神戸」という地名に出会いました。読みは「こうべ」ではなく、「ごうど」とか多い。神社にまつわる地名のようですが。
(11:46)「神戸一里塚跡」碑。
甲州道中五十一里塚
・・・ここ神戸には日本橋からの五十一t里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
塚上のエノキは大人の五倍(八~九m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良で働く里人にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。
諏訪市教育委員会
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