おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧岡崎銀行。籠田総門跡。唐弓弦。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その6。)

2015-06-09 20:40:12 | 旧東海道

 「伝馬町1丁目」交差点を左折します。
「西本陣前角」。

             その先の交差点で、今度は右折します。「へ」。

 角の左手に道標。

    
             「東 京みち 西 京いせ道 きらみち 明治二年己巳(つちのとみ)年十二月建立」。

右手に赤レンガ造りの建物。

旧商工会議所

 大正6年(1917)、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は、岡崎信用金庫資料館として一般に開放されています。
 郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

     

 設計したのは、鈴木 禎次(すずき ていじ)明治3年7月6日(1870年8月2日)― 昭和16年(1941年)8月12日。

 1870年(明治3年)静岡市に生まれる。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、翌年、三井銀行建築係に就任する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子の妹と結婚し、1903年(明治36年)には文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授となり、1922年(大正11年)には退官、のちに名古屋に鈴木建築事務所を開設する。1941年(昭和16年)71歳で逝去した。
 禎次が生涯で設計した建築物は80棟に及び、うち44棟が名古屋市内に集中している。このことから「名古屋をつくった建築家」とも呼ばれる。(「Wikipedia」より)

 「東京駅丸の内駅舎」などを設計した、日本の建築家の第一人者・辰野金吾の教えを受け継いだ作風が見られます。赤レンガと白い花崗岩を組み合わせた様式は、しばしば「辰野式」とまで呼ばれるほどでした。

〈参考〉

 辰野金吾設計事務所の設計による建物の一つ。「日本生命保険株式会社九州支店」として明治42年(1909)2月に竣工。

福岡市。

 なお、「上野・松坂屋」の建物もこの方の設計によるもののようです。

その先の交差点を右折します。突き当たりは「籠田公園」。植え込みに「籠田総門」の碑があります。


岡崎の城下をしのぶ籠田総門跡

 天正18年(1592)徳川家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き城下町を形成し、東海道の城門出入口として籠田・松葉の総門を建てた。

案内板。

公園を斜めに突っ切るように白砂の道が敷かれています。

公園を出たら、左折です。

碑文
  岡崎城下二十七曲
  篭田町より連尺町角
 天正十八年岡崎城主田中吉政は城下の東海道を二十七曲にし防備賢固を図った。ここに標識を建て郷土再見の一翼とする。

 連尺二十七曲り
 家康公四百年祭

 「連尺通り」を西進、県道39号線を横断します。左手に「岡崎シビコ」が見えたら、その前の路地を右に入ります。
         
           「と」。 

 この先は、

①路地(途中に古いおうちがある)を抜けて
②突き当たりを左に折れ、
③またすぐ右に折れます。
④しばらく進み、右手の駐車場を左折します。
⑤次の四つ角を右に曲がり、
⑥右手に「ファミリーマート」が出てきたら、突き当たりの広い道を左折します。

 道の向かい側・正面には道標。ここでの一連の右・左折が一番迷う個所です。ただし、江戸時代の道そのものが区画整理等で変更、もしくはなくなっている可能性も強い。途中にあった説明板でもこの付近は簡略化されています。
 今回の行程は先達の地図を借用させていただきましたが(次回、引用文献は明示しますが)、これ以外にもありそうです。いずれにしても、「連尺通り」からジグザグしながら、「材木町口木戸前」の道標まで行くことになります。(この道標自体も、もう少し西側にあったのではないかと思いますが。)

「材木町口木戸前」。     

通りの向こう側に古い建物が。 

 この建物に「唐弓弦」という古びた看板がかかっていました。

     

 「岡崎宿」は、本陣や脇本陣、旅籠の数から東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町でした。
 また、岡崎宿は、「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれ、曲がり角の町並みとして有名でした。この二十七曲りは欠町から伝馬通、材木町から八帖町、矢作橋とつながっており、二十七曲がりを示す標柱が町並みにいくつか残っています。 

唐弓弦の看板(とうゆみづるのかんばん)

 かつて岡崎は、三河木綿の特産地として知られ、この辺りには三河木綿に関連する職人や商店が多く存在したそうです。
 「唐弓弦」とは、江戸時代使用されていた、綿を打つ道具のことで、これを扱っていた店の看板が当家に現存しており、当時の面影が残る看板です。

「伊賀川」に架かる「柿田橋」のたもとを左折します。案内柱「る」。

 (結局、「ち」「り」「ぬ」は気づかず。ということは先ほどの右左折が違っていたともいえそうだ・・・)

川沿いの道ばたにある道標。「材木町より下肴町」。

「三清橋」を右折。「下肴町より田町角」。橋を渡ったところに「を」。
 この付近、「伊賀川」の流路変更によってあいまいになり、ここで橋を渡るのではなくて、「柿田橋」を渡って川の西側を進む道筋だったとも。土手沿いの上に、左手にある神社が比較的新しいので、どうも昔の道ではなかったような、・・・。

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