先日。快晴のもと富士山がよく望める、そんな日に、富士宮に出かけた帰り。
東海道を歩いていたときには、残念ながら左富士が見えなかったので、車で寄ってみました。JR吉原駅の南口から少し東に向かい、踏切を通過。この道は旧東海道。歩いた時を思い出しながら今回は、車で。
「吉原宿」は当初現在のJR吉原駅の東付近にあった「元吉原」が、1639年(寛永16年)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、内陸部の依田橋付近に移転(「中吉原」)。
しかし、1680年(延宝8年)8月6日の津波により再び壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町にあたる「新吉原」に移転。つごう、3回宿場が移りました。
このため、海沿いを通っていた「東海道」は元吉原宿(JR吉原駅付近)の先で海から離れ、大きく右に曲がることになり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山がそのところで一瞬、左手に見えることから、「左富士」と呼ばれる景勝地となりました。
東海道には二ヶ所あり、ここと茅ヶ崎にある「南湖の左富士」。
大通りに合流し、国道1号線と新幹線の高架下にある「依田橋西交差点」を右奥の方に曲がると、いよいよ「左富士」の地へ。
交差点の向こうにささやかな松並木と富士の姿。
大正期のようす(「知足美術館」HPより)
かつては松並木が続いていた。
現在は、周囲は工場等になり、数本の松が保存された「小公園」となっています。
松並木と左手に富士。
建物の屋根が白いので、雪をかぶった富士山が分かりにくい。
てっぺんをのぞかせる富士。
別の場所からの富士。通りが旧東海道。左手に富士。
広重の浮世絵レリーフ。
この先、東海道はすぐ「(新)吉原宿」に向かって左に曲がるため、富士山は右手に見えるようになります。
右手となる富士。
原より3里6町。吉原の宿駅は,むかしはこれより東南にあったが,延宝8年(1608)8月6日の暴風雨のさいにながされたので,翌々天和2年に現在の地にうつされたとつたえられている。このあたりに一カ所左に富士が見える場所がある。東海道を西に上るさい,富士はつねに右側に見えるのであるが,このあたりで道が大きく右折し,そのため富士が左に見える。左富士といってとくに興味をもたれたのである。図はそれをしめしている。美しい松並木をこどもをのせたウマが尻を見せていく。
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)
「吉原宿」の中央通りを抜けて、帰途に。一瞬の「左富士」でした。
さて、「東名」に入って最初は順調でしたが、途中、渋滞情報が。そのうち×に。交通情報でも「通行止め」のアナウンス。中井PAで確認したらたしかに海老名から先は通行止め。で、厚木から「圏央道」に回って「八王子IC]から「中央」へ、とぐるっと回るはめに。夕方から人に会う約束だったので、時間が心配でしたが、何とか間に合った!
こちらのカーナビ。そんな古くもないのに、「圏央道」が開通しない前のもの。この先料金所、とかこの先を右折とか、指示が頻繁。何しろ画面上では道なき道を進んでいるのだから、ナビの方もどうしようもありません。
やっと「中央道」に入ってナビも「軽やかな」案内になりました。というハプニングもありました。このところ、新規の開通とかで刻々と道路状態が変わっています。ナビの更新をしないと。・・・
「大和トンネル」内で死亡事故があったとか、帰宅して知りました。12月8日のことでした。
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