衣料品チェーンストア「しまむら(日本思夢樂)」の開店広告。台湾には40店舗以上、展開しているとのこと。
「振り込み詐欺」の注意喚起の宣伝も。「防詐騙」。
台湾でも社会問題になっているようです。
「北投」地区には温泉があります。そこで昼食。張学良が幽閉されていたところのようです。どんどん山道を上っていきます。
張 学良(ちょう がくりょう、1901年6月3日 - 2001年10月14日)
中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男。字は漢卿。軍人時代の最終階級は国民革命軍一級上将。
1901年、張学良は当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として台安県桑樹林子郷にて出生。
満州の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。そんな中、張作霖の親日的態度に不満を持った郭松齢が反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置を求めていた。やがて郭松齢が楊宇霆によって処刑され、その死体が晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。
1928年6月4日、父・作霖が関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。 当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。
1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものとし、富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め、同年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。
1931年満州事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。
1936年共産党と「抗日救国協定」を結んだ。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせた。
1936年12月25日に反逆罪により逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。西安事件は蒋介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。
1945年に第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾島に逃れたが、この際に張も台湾に移され50年以上も軟禁され続けた。蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。
1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた形となった。
1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相についてとは証言はできない」とする態度を崩さなかった。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。同時に青年期にアヘン中毒であったとも語り、「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。
張学良は中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶した。その後、1991年に釈放され、アメリカのハワイ州ホノルル市へ移住した。1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言している。そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。
西安事件
1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。
「小帥禅園・台北北投張学良軟禁旧居」。
小帥禅園は1920年代に建てられ、元々「新高旅社」と呼ばれて北投の温泉区でも名高かった。また、第二次世界大戦のとき、日本軍に神風特攻隊が出陣前の接待所として使われていたのです。1960年代、中国東北出身の若い将軍張学良と婦人趙一荻氏が一時期ここで軟禁されていた。・・・
一般的な中国料理よりもあっさりいています。
そこからの眺め。
風光明媚な土地です。
昼食後、「故宮博物院」の見学に赴きます。
「国立故宮博物院」。
フランスのルーブル、アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミタージュと並んで世界四大博物館のひとつに数えられています。故宮博物院には、およそ70万点近くの収蔵品があると言われていますが、常時展示している品は、6000~8000点。特に有名な宝物数百点を除いては、3~6カ月おきに、展示品を入れ替えているため、すべてを見て回るには、10年以上はかかると言われています。
コレクションは、玉器は8000年前のものから、5500年前の新石器時代の翡翠の彫り物、4400年前の陶器、3300年前の青銅器・象形文字、2200年前の秦の始皇帝の時代、さらに隋、唐、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物を継承し、その内容も数も極めて豊富です。中国芸術文化の集大成!
中華民国は、建国13年目に清朝を退位した溥儀皇帝を紫禁城から追放し、1925年10月10日、紫禁城を故宮博物院として正式に設立させました。この時から、歴代皇室と宮廷が所蔵していた世にも稀なる貴重な文物は、中華文化遺産として永く後世に伝えられることとなり、鑑賞できるようになりました。
また、南京に設立された中央博物院籌備処の文物は、1937年11月、戦火を逃れるため水路により西の重慶へ移され、1939年には昆明、楽山にそれぞれ運ばれた後、四川省南渓の李荘に安置されました。が、1945年8月、日本が降伏すると、奥地に移されていた中華文物は、再び全てが南京へ運ばれました。
1948年の秋、国共内戦の結果、蒋介石率いる国民党中央政府は、故宮博物院および中央博物院籌備処の優れた文物を台湾へ移すことを決定。同年末、第1陣の文物が南京を出発し、海路により基隆に到着、翌年には第2、第3陣の文物も合わせ、全部で2972箱が台湾に運ばれました。しかし、これでも北京から台湾まで南遷した文物は全体の22%に過ぎませんでした。しかし、そのうち852箱の中央博物院所蔵の文物は、そのほとんどが逸品で占められています。
2016年12月から、館内で写真撮影がOK! ただしフラッシュの使用は禁止。
「振り込み詐欺」の注意喚起の宣伝も。「防詐騙」。
台湾でも社会問題になっているようです。
「北投」地区には温泉があります。そこで昼食。張学良が幽閉されていたところのようです。どんどん山道を上っていきます。
張 学良(ちょう がくりょう、1901年6月3日 - 2001年10月14日)
中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男。字は漢卿。軍人時代の最終階級は国民革命軍一級上将。
1901年、張学良は当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として台安県桑樹林子郷にて出生。
満州の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。そんな中、張作霖の親日的態度に不満を持った郭松齢が反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置を求めていた。やがて郭松齢が楊宇霆によって処刑され、その死体が晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。
1928年6月4日、父・作霖が関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。 当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。
1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものとし、富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め、同年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。
1931年満州事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。
1936年共産党と「抗日救国協定」を結んだ。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせた。
1936年12月25日に反逆罪により逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。西安事件は蒋介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。
1945年に第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾島に逃れたが、この際に張も台湾に移され50年以上も軟禁され続けた。蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。
1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた形となった。
1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相についてとは証言はできない」とする態度を崩さなかった。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。同時に青年期にアヘン中毒であったとも語り、「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。
張学良は中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶した。その後、1991年に釈放され、アメリカのハワイ州ホノルル市へ移住した。1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言している。そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。
西安事件
1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。
「小帥禅園・台北北投張学良軟禁旧居」。
小帥禅園は1920年代に建てられ、元々「新高旅社」と呼ばれて北投の温泉区でも名高かった。また、第二次世界大戦のとき、日本軍に神風特攻隊が出陣前の接待所として使われていたのです。1960年代、中国東北出身の若い将軍張学良と婦人趙一荻氏が一時期ここで軟禁されていた。・・・
一般的な中国料理よりもあっさりいています。
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風光明媚な土地です。
昼食後、「故宮博物院」の見学に赴きます。
「国立故宮博物院」。
フランスのルーブル、アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミタージュと並んで世界四大博物館のひとつに数えられています。故宮博物院には、およそ70万点近くの収蔵品があると言われていますが、常時展示している品は、6000~8000点。特に有名な宝物数百点を除いては、3~6カ月おきに、展示品を入れ替えているため、すべてを見て回るには、10年以上はかかると言われています。
コレクションは、玉器は8000年前のものから、5500年前の新石器時代の翡翠の彫り物、4400年前の陶器、3300年前の青銅器・象形文字、2200年前の秦の始皇帝の時代、さらに隋、唐、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物を継承し、その内容も数も極めて豊富です。中国芸術文化の集大成!
中華民国は、建国13年目に清朝を退位した溥儀皇帝を紫禁城から追放し、1925年10月10日、紫禁城を故宮博物院として正式に設立させました。この時から、歴代皇室と宮廷が所蔵していた世にも稀なる貴重な文物は、中華文化遺産として永く後世に伝えられることとなり、鑑賞できるようになりました。
また、南京に設立された中央博物院籌備処の文物は、1937年11月、戦火を逃れるため水路により西の重慶へ移され、1939年には昆明、楽山にそれぞれ運ばれた後、四川省南渓の李荘に安置されました。が、1945年8月、日本が降伏すると、奥地に移されていた中華文物は、再び全てが南京へ運ばれました。
1948年の秋、国共内戦の結果、蒋介石率いる国民党中央政府は、故宮博物院および中央博物院籌備処の優れた文物を台湾へ移すことを決定。同年末、第1陣の文物が南京を出発し、海路により基隆に到着、翌年には第2、第3陣の文物も合わせ、全部で2972箱が台湾に運ばれました。しかし、これでも北京から台湾まで南遷した文物は全体の22%に過ぎませんでした。しかし、そのうち852箱の中央博物院所蔵の文物は、そのほとんどが逸品で占められています。
2016年12月から、館内で写真撮影がOK! ただしフラッシュの使用は禁止。
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