せっかくですので、油壺湾めぐりを。まず「荒井浜」に向かいます。
その途中に、「新井城」空濠・土塁跡。
「新井城址」解説板。
「油壺湾」解説板。
油壺の名のいわれは、永正13年(1516)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立てこもった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、3年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同をはじめその子荒次郎義意は、自刃、他の将兵も討ち死に、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も七月十一日には新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より雷かがやき出て両方光入り乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈をみたし、虚空に兵馬駆け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」
穏やかな海、ヨットハーバーやレジャーで賑わう油壺にも壮絶な歴史が刻まれているのですね。
左、油壺湾を見下ろす絶好の地に、句碑と解説板。
「白秋文学コース 油壺」解説板。
油壺しんととろりとして深し
しんととろりと底から光り
三浦一族の哀史を秘める油壺、白秋のこの一首からも一族450年の秘話を聴くことができるようです。
大正のはじめ、この先海岸にある東京大学臨海実験場には海水を汲み上げるため大風車がまわっていました。
夕焼小焼大風車のうえへをゆく
雁が一列 鵜が三羽
油壺から諸磯みれはまんまろな
赤い夕日がいま落つるとこ
このように油壷には、歴史と自然の深いたたづまいハイカラさが同居していました。
自由律俳句の荻原井泉水も「旅の印象」でこの頃の油壷の風情には詩の空気がこもっているようだと書いています。
白秋の三崎時代の短唱「眞珠抄」が、井泉水の自由律俳句に大きな衝撃を与えることになりますが、共に油壷の水の色に感動し、作品が生まれたようです。
句碑 外海は荒れゐて 月の油壺 田辺 大愚
※この方は、地元の俳人。
油壺湾。
正面・左手奥の入り江を回り込むように歩いてきました。
諸磯湾方向。
坂道を下っていくと、
荒井浜。カメハメハ大王の渚。
荒井浜海岸を望むハワイアンな海の家
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この項「」HPより)
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